趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

明智光秀伝説の城「腰越の城:仮称」を探訪するに参加して

2010-06-02 14:25:46 | 城址

    ここにお城があった、それは果して誰の?? 

  中世の城郭を研究、ここにお城があったらしい、あってもおかしくは
  ないと地道に研究、現地を調査。そして複数の出城の存在を発見
  確認されている方の現地見学会と現地講演が開催されたので出か
  けました。 その研究家は長谷川博美氏です。

  そこは、滋賀県犬上郡多賀町佐目にある標高425mの裏山です。

  この日記の掲載は長谷川先生(以下先生)のご了解のもとに、当日
  の感動を日ごろ私のブログを見ていただいている皆様と共有出来れ
  ばと取り上げさせていただきました。 しかしそこは全く素人の私、
  その時のメモと当日の資料を読み返しての日記です。

    なお当日参加者が先生から頂いた資料には「明智光秀伝説の城
  
と明言することは避けたい 」と記載されている事を付け加えさせ
  いただきます。ただ「中世城郭が存在した事は確実」であろうとも。

 以下中世城郭遺跡(明智光秀の城か?)の姿です

      
   先生ご自身が作成された縄張り図で山頂の主郭を解説(標高425m)

     山頂の主郭跡で説明を受けて、これがお城の特徴かと!

   山頂部は狭小だけれども城の裾や腰部に広範に腰郭、帯郭が配置されている
   との説明を聞き実際に見た目よりは急坂の遺構(攻め入ることが出来ぬよう山
 を削り急坂に)も含め広く感じます。 しかしここが城跡だと分かっていなければ
   素人には単なる尾根伝いの登山(道)で終ってしまうことでしょう。 

   確かに堀切(塹壕)の存在、石灰岩の露頭を利用した厳巌な要害を伺い知る
  ことが出来ます。また狭い郭(城郭)は複雑に切り刻れて普請されているとも。
   これは先生他、地元の知識人のみなさんが実際に測定されて判明したことです。  

 
   主催者「近江中世城郭調査委員会」の旗      参加者に見学前の説明
 JR南彦根からの移動中、主催者の車中で参加者の交わす城談義。これは場違い
 なところ(参加者のハイレベル)に来たかなー、と。でもKennyは興味・挑戦がモット
 ーゆえ遠慮を知りません。 KYを念頭に会話の中へ。 ただし質問のみ!皆さん
 笑顔で教えてくださいます。 

 
       急登坂でまさに登山の開始  山頂の主郭部(ずいぶん狭いです)
 425mと言えば三上山(432m)と同じ立派な登山です。負け惜しみを許して頂く
  として私、Kennyの得意分野です。 急坂とスリップに難儀される山の ”素人様”
 の手助けで多少面目は立ったかな? 

 
  狼煙(のろし)穴らしき土坑      第二郭(二の丸に相当)で説明を聞く
堀切や狼煙跡。明らかに手を加えた(削って)尾根の片側の急斜面などの解説を聞いていると、
今我々は確かにお城のあった跡に立っているんだと。 鎧兜も付けずにね。

 
    当日配布の資料:B4で8枚       丸山先生(元教授)の基調講座
   誰でもが知りたい内容の中身の濃い資料、分かり易い説明で内容、背景がおお
 よそ理解出来ます。私の初歩的な質問でも、相当取り組んでおられると思われる
 方々の専門的な質問にも親切に対応されました。

           
    長谷川先生(中世城郭研究家、滋賀民俗学会理事他)のお話風景
     時々、城跡発見時の様子を地元の調査協力者(ごめんなさい、お名前が・・・?)
    に話す機会を振られて、内容の濃い時として笑が渦巻くお勉強会になります。
     この種の集まりは結構居眠り者(私も)が出るものですがその日は全く居ません
    でした。参加者席で話しておられる協力者(上の写真)は、当日は寒くて、昼ご飯
  もなかなか取れず(あまりに先生が熱心で)、本当はもっと早く帰りたかったんや
  が・・・、と(ここでも爆笑が)

Kennyとお城:
決して懸命にお城の研究をしているのではありません。滋賀県教育委員会城郭調査事務所の
「淡海の城友の会」で日本史の勉強仲間の端っこに座っているだけです。

車で帰省の途中に見える安土城跡の様子がどうも30年前と違うと気が付きました。そしたら
20年もかけて発掘調査が行なわれていたんですね。それであの金ぴかの城がどうなっていた
のか? が気になりそれが今この勉強会参加の日記に繋がっております。 

滋賀の城: 先生がここを調査しようとされるきっかけの一つは、
ここに城がある。それはある集落内に武士階級の居館があれば背後の山に戦乱時の籠城が
築かれていることが多い(在地領主型の山城と言うのやそうです)が、この多賀町佐目の山城
発見のきっかけの一つだと先生のお話です。そういうと、野洲市の希望ケ丘に城山がありそこに
城跡があります。野洲郡永原村の永原氏(佐々木六角の流れ)の有事の山城だったと聞いて
おります。 

他にもその集落の地名や名字にもヒントがあると。佐目集落に残る見津氏と言う姓、これは
光秀の「光」を改姓されて現代まで続くとのことです(資料では聞きおよんでいるとの断りが
ありますが)。 実に興味深いお話です。

滋賀県には1300以上のお城があったとも言われており城、城跡を尋ねるには事欠かない県
でもあります。 

結びに:
城跡に立ってKennyはロマンを感じてはおりますが、「お前らは高見の見物でええのー、わしら
は命がけでやでー」、と城跡、砦跡を尋ねた時にいつも聞こえてくるような気がします。

拙い文書で、また内容に聞き間違いなどもあるかもしれませんが、感想文ゆえお許しいただき
たく思います。 最後まで読んで頂きありがとうございました。

長谷川先生の見学会: ご参考
JR駅で見つけたパンフレットで、またまた長谷川先生との見学会を知りました。
6月26日、滋賀県余呉町で行市山砦、別所山砦の見学会があります。JR余呉駅に午前10時
集合です。 そこは賎ケ岳の合戦の舞台です。
 
                       (この日記の掲載期間:6月4日~6月11日)

        今回もご覧くださりありがとうございました

          

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 滋賀県の北端、七七頭ケ岳(... | トップ | Kennyの写真館: 新緑編 »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
新たな山城ですか。 (茲愉有人)
2010-06-09 22:18:56
中世城郭遺跡としての山城がまた新たに確定されましたか。

近江には城郭がたくさんありますね。
やはり、地政学的、戦略的に重要なロケーションの土地柄のせいでしょうか。

既に確定していて解説書のある近江城郭探訪もここしばらく頓挫しています。
ああ、不甲斐ない・・・・

機会があれば、当日の資料を拝見させてください。よろしく!
返信する
コメントありがとうございます (Kenny)
2010-06-10 06:20:06
近江は戦国時代の主要舞台ですね。ふと、なぜ現滋賀県がと思いますね。当時関東は今で言う地方。京都がまだ信長によって統一されていなくても日本の中心、そして天皇は京都に。そのころ中国地方は戦国の主舞台にはなれなかったから、結局京都から日本の東が騒動の区域。そうなると近江を必ず通過する。北からも同様ですね。迷惑な事ですが近江に戦国大名が駐在(笑)、それで合戦を。そりゃ命が欲しから砦も含め籠城がいるとなるのかな。多いわけですね。私の故郷にも城跡があると小さい頃から聞いていましたが最近その存在を確認しました。城の名前も分かりました。近く現地(帰省して)を見てきます。許されるなら登山道を作ろうかとも思っております。困った性格です(笑)資料は坂本兄の次に回しますがまだ手元にあります。
返信する
資料を楽しみに (茲愉有人)
2010-06-10 18:31:32
資料を拝見できることを、楽しみに待たせていただきます。

今日は、室内人工壁に行くつもりでしたが、
昨夜遅く電話でのお誘いを得て、急遽京都北山の一角にある、金比羅山の岩場の一部を登ってきました。
久々の、外岩でした。

返信する

城址」カテゴリの最新記事