家人(大)が唐突に、
「まわりで、この人、品があるなと思う人は誰?」
と尋ねてきた。
家人(大)に尋ね返すと、
「驚かないでね」と前置きされた後、
僕だと言われた。
驚いた。
僕はおおよそ品などというものとは、
縁遠い人間だと思っているからだ。
驚いたまま話の続きを聞いていると、
次第に家人(大)が考えていることがわかってきた。
僕が「上品」であると思っているわけではない。
ただ、「下品」ではないと思っているだけだ。
上品でもなければ下品でもない。
いわば「平品」
それならば合点がいく。
品とはなにか?
以前、ある番組で取り上げた時は、
「欲」というワードが出てきた。
確かに強欲な人間は下品だ。
逆に、過剰な欲を持っていない、
あるいは欲をコントロールできている人は、
上品だと思う。
(※追記。
この時は、品とは欲を入れる器である、
という話でした。
器からあふれるほどの欲は品がない。
器がボロボロで欲が染み出してしまうのも品がない。
上記と同じような意味合いではありますが、
加筆しておきます)
しかしながら、「欲」=悪ではない。
と言っていたのは、京都の名刹の高僧だ。
これも以前、番組の取材で訪ねた折に、直接お聞きした。
欲があるから人は向上する。進歩する。
こういう時、普通は「夢」という言葉を使うが、
夢と欲は、実はとてもよく似ている。
さらにいえば、文明や技術が進歩するのだって、
根底にあるものは、欲だ。
「欲」は否定されがちだけど、
本当はそれを受け入れ肯定することが大事、
というようなことをおっしゃっていた。
何の話だっけ。
そうそう、家人(大)が思う下品とは、
虚勢を張る人であり、
自分を高く見せるためにまわりを貶める人、
であるようだ。
確かに僕もそれは下品だと思うし、
僕もやっていないから、
自分は平品であると自認しても、
まあ、いいかと思う。
我が家の中に限るけれど。
選挙のたびに、
訳知り顔のふりをして、
実は単なるないものねだりではないか、
そう思える人が現れる。
彼らは現有勢力に否定的な姿勢を見せつつ、
「投票したい対立候補がいない」
と繰り返す。
彼らはどんな候補者ならば、満足するのだろうか。
おそらく彼らが100%満足する候補者なんて、
永遠に現れることはないだろう。
ずっとないものねだりを続けて、
現有勢力の継続に加担し続けるのだ。
先日、髪を切ってもらった男性美容師の話だ。
帰省した時の新幹線が満席で、
ドア付近のスペースに立って乗車していた。
目の前には母親と小さな女の子。
女の子は窓の外を見たがっているのだが、背が届かない。
あいにく母親は荷物で手が塞がっている。
その状況を前に、彼はとても悩んだそうだ。
もし自分が女性ならば、
母親に声をかけて、女の子を抱き上げることができただろう。
母親の手荷物を代わりに持ってあげることもできただろう。
しかし、男性である自分が急に声をかけたら、
警戒されるかもしれない。
あるいは相手が父親と男の子だったら、
抱き上げてやることも、荷物を代わりに持つことも、
抵抗感なくできただろう。
だが自分は男性で、相手は母親と女の子。
「だからどうすることもできなかったんですよ」
こういう時、どうするのが正解なのだろうか。
最近のアルコール飲料のCMはやけに「ウマい!」を連呼する。
かつてはそうではなかった。
古くはブランドのイメージをアピールするCMがあった。
酒を飲みたくなる欲求を刺激するCMがあった。
それがいつの頃からか、「ウマい!」ばかりになった。
広告関係の方にこの件について尋ねると、
明確にこの時から変わったというCMがあるそうだ。
某メーカーの宣伝の責任者が、
マーケティング出身の人間になった時、
それまでは禁じ手だった「ウマい!」をCMに使った。
すると、その商品の売上げが伸びた。
それに他社が追随し、現在のようになったのだという。
なるほどなあ。
ちなみに僕は、いくら「ウマい」と連呼されても、
心動かされることはないんですよ。
昨夜の鮨店の店主曰く、
「自分は良い店(鮨)は、なんで良いのかわからない。
でも悪い店(鮨)は、何が悪いのかわかる。
なんで悪いと思うのか、その理由を考え、
どうしたら改善できるかを考える。
その結果がこの店(鮨)」
酔っていたので、店だったか鮨だったか曖昧だが、
内容的には、合っていると思う。
これって「創造」的な仕事には共通する大切なことだよなあ。
感覚ではなく、論理だけではなく。
感覚をアンテナにし、生じた感情を分析し、論理を組み立てる。
いい話を聞きました。
移動中にふと、
「不死鳥葬」
という言葉が頭に浮かんだ。
イメージが膨らむ言葉だ。
面白かったので、
その一日、同じように三文字熟語に一文字足して、
四字熟語を作って遊んでみた。
(こういった趣向は、
ラジオの投稿コーナーなどですでにやっていそうだけど、
あくまで移動中の個人的な暇つぶしとして)
たとえば、
「印象派閥」
「気合言葉」
「怒髪天丼」
「点心不全」
「肺炎天下」
「値千金玉」
皆様も暇つぶしにぜひどうぞ。
意外と夢中になりますよ。
※2019.11.2のブログ再掲。
今回の能登ではどうだったのだろうか。
この話をしてくれた知人は、
災害ボランティアがどんどんプロフェッショナル化してきて、
ついていけなくなってしまったので、
もう今はやっていないという。
ここにもまた、別の問題が生じている気がします。
台風19号の後、千葉に、
その後の大雨被害では、福島に行ったそうだが、
そこで感じたという話は、とても興味深いものだった。
以下は、その人が話してくれたことのまとめ。
まず大前提として、
ボランティアに頼るのではなく、
国や自治体がもっとしっかりするべきだ、
という声もあるが、
これだけ自然災害が多発すると、
現時点ではある程度ボランティアに頼るのは仕方がない。
しかしそれならば、
ボランティアの受け入れ体制ぐらいは、
もう少し「しっかり」してほしい。
たとえば、
現地の活動はいくつかの班に分かれて行う。
班長は経験豊富な人間の方がよく、
地元の人間よりも、
ベテラン災害ボランティアの方が敵している場合が多いが、
役所は地元の人間を班長の置きがちである。
もちろん、地元の人間がちゃんとできる人であれば問題ないが、
ただ単に地元の人間であるというだけで選ばれていることもあり、
現場が混乱することもしばしばである。
被害に対する対処法が更新されていない。
浸水被害の場合、かつては消毒用に石灰を撒いた。
しかし、石灰だと今度は健康被害の危険性があるため、
今は別の薬剤を散布するのが「最新」
けれど、それを知らず、石灰を撒いてしまう。
ボランティアが上記のようなことを説明しても、
聞き入れてくれない。
被害状況が把握できていない。
災害ボランティアは被害情報のあるところに集まる。
その結果、ある場所に集中してしまい、
逆にまったくボランティアが集まらない場所が出てきてしまうことがある。
これを避けるためには、
全体的な被害状況の早い把握と、
それに対応したボランティアの差配が必要である。
しかしその体制は現状ない。
その人の経験上では、
兵庫県が災害ボランティアの受け入れ体制が一番しっかりしていたそうだ。
阪神淡路大震災の経験によるものだろう。
ここに記したのは、
ある個人の経験に基づく話であり、
全体としてはさらに無数の問題点があるだろう。
自治体側にも言い分もあるはずだ。
災害ボランティア側、自治体側、双方を取材し、
今そこにある問題点をあぶり出すということを、
テレビでもできたらと思うが、
(それがテレビのできる防災対策の1つなので)
残念ながらそれは「報道」でしかできないだろうなあ。
いや、「報道」でも難しいか、今は。
※2022.6.1のブログ再掲です。
イープラスでとったチケットを「ファミマ」に発券にいったら、
マルチコピー機で発券するように変わっていた。
これまでコピーとチケット関連などは、
別のマシンでやっていたので、
すべてコピー機でやるようになったら、
当然、待つことが増える。
と、考えると、
ユーザー的には不便になったわけだが。
一括化したのはどうしてなのか。
こちらの方が、経費が節減できるということなのか。
窓口に用事があり、
徒歩30分ほどの隣町にある信用金庫に行った。
到着したのは11時40分。
ATMの奥のシャッターが閉まっている。
なんと11時半から12時半まで休業だという。
ちょっと待て。
場所を確認するため、その信用金庫のHPを見たが、
昼休みのことなど書いてなかった。
あるのはATMコーナーの営業時間だけだ。
再度、信用金庫のHPを見てみる。
事情がわかった。
HOMEの次の階層「店舗のご案内」には、
昼休みの旨が明記されている。
しかし僕が見たのは、
さらにその次の階層の「各支店」のページだったのだ。
Googleで信用金庫名と支店名を入れて検索した場合、
当該の「各支店」ページに直結する。
すると、昼休みの件はわからない。
僕と同じようにして「各支店」ページにたどり着く人も、
けっこういると思うのだが。
HPを構築する人は、そこまで考えて作ってほしいものです。
映画館で上映中の映画のポスターが、
デジタルサイネージで掲示されていることがある。
時として、これがとても困る。
映画の鑑賞記録として写真を撮りたいのだが、
上映中の映画のポスターがなかなか出てこない。
今後上演予定の映画のポスターの中に、
埋もれてしまっている。
昨日もスマホを構えながら、
お目当てのポスターが出てくるのを待ち続け、
なかなか出てこず、
途方に暮れている男性がいた。
あれ、なんとかならないものかなあ。
撮った写真をSNSにあげる人も多く、
今の時代、それも宣伝になるのだから。
東日本大震災の後、
災害ボランティアをしていた友人がいる。
会社勤めをしながら、
週末になると東北に出かけて行っていた。
新型コロナ禍が始まるまで、
その活動を続けていた。
そんな友人に、
今回の能登の地震の被災地にも行くのかと尋ねた。
返ってきたのは意外な答えだった。
「以前参加していた団体が、
あまりにプロフェッショナル化していて、
みんな重機を使えるようになっていて、
たしかにその方が便利だけど、
私には無理」
災害ボランティアの詳細を僕は知らないが、
これはちょっとどうかと思う。
当事者たちは気づいていないかもしれないけど。
災害ボランティアは難しいですね。
って、思わせちゃいけないんだろうけど。
そこが問題。
酒場で聞いた話だ。
近所に人気の洋食屋がある。
昼食時になると平日でも行列ができる。
ある時、4人組の男性客が来た。
ほぼ同じタイミングで料理は提供されたが、
ひとりだけ食べるのが遅かった。
3人が食べ終えても、彼だけがまだ食べている。
すでに食事を終えた3人は、
残った味噌汁をちびちびと啜りながら、
仲間が食べ終わるのを待ち続けたという。
外に行列が出来ているにも関わらず。
行列は店の中からも見える。
接客担当の女性はさすがに困り、
酒場でこの話をしていた常連氏に目配せした。
この常連氏、なかなかの強面で、
やさしく3人を諭して、席を立たせたそうだ。
個人経営の飲食店は、
ランチタイムの客の回転数が減ってしまうのは、
かなりの痛手だ。
大手のファミレスとは違う。
そのことを知らない客が多すぎる。
酒場で聞いた話なので、情報ソースは不明だ。
新生・馬事公苑で、ある問題が勃発しているという。
子どもたちの声がうるさいと、
近所の集合住宅からクレームが殺到しているというのだ。
以前は苑内の奥まった場所にあった子ども広場が、現在は正門を入ったすぐ左手にある。
子ども広場の向かいには、二車線の狭い道路を挟んで、高さ10階建ての古い集合住宅がある。
公園側にベランダがあるため、ガラス戸を開ければ、子どもたちの声を入ってくるだろう。
クレームをつけている人たちの心が狭いとは思わない。
実際、公園に行けば子ども広場からは甲高い声が聴こえてくる。
たまに訪れる人間ならばかまわないだろうが、四六時中聞かされた人にはたまったものではない。
僕が解せないのは、なぜそんな場所に子ども広場を作ってしまったのかということだ。
この問題を予見できなかったのか。
利便性を考えて正門の脇にしたのだろうが、公苑外のことまで考えが至らなかったということか。
だとすれば、あまりに甘い計画だ。
この問題、今後どうなるのか。経過観察したい。