ストロング0ファイト

2019年09月23日 19時56分03秒 | コメディのかけら

知り合い夫婦が、
自宅でストロング0を飲みながら食事をすると、
必ず口論になるという。

なので、
ストロング0をやめて、
他の缶チューハイにしてみた。

すると、
口論することがなくなったそうだ。

別にストロング0を悪くいうつもりはないが、
興味深いエピソードだったので記録しておく次第。

悲惨だけど笑う絵

2019年09月21日 17時16分46秒 | コメディのかけら

ある国の刑務所で、
拷問にあった外国人の証言映像を見た。

あんなに非道なことが、
今も行われているとは…
胸は痛むし、腹の底が冷たくなる。

証言者が拷問の様子を描いてくれた。

それが問題だった。

ヘタなんだよ!

ただのヘタじゃない。
笑っちゃうヘタ。

拷問を受けている人物は、
描いている本人にどこか似ているし、
なぜかすべて笑顔だし。

「画伯」感があふれまくっていた。

面白かったなあ。

いやいや、面白いなどと言ってはいけないのだが。
でも、あの絵はなあ。

僕の頭では思いつくことはできない
喜劇性がそこにありました。

ラオスの塩

2019年09月19日 08時05分58秒 | チシキのかけら
ラオスの塩を味見した。

ラオスといえば海のない国だ。

岩塩?
と思ったが、そうではないという。

ラオスがある場所も大昔は海で、
海底が隆起して、今の陸地が誕生した。

しかしヒマラヤほど隆起しなかったので、
塩分を含む地層が地下深くに残った。

そこへ、
高温多雨の土地柄、
常に多量の雨が降り染み込み、
地中の塩分が溶かされ、
地下水ならぬ「地下塩水」の水脈ができた。

それをポンプで汲み上げて、
製塩しているのだという。

なるほど。

角のない味の塩でした。

同席した料理研究家の方曰く、
料理に使うのではなく、
直接なにかにかけて食べる方が、
この塩の良さが活きるそうです。

再び、なるほど。

半ライスの悲劇

2019年09月16日 08時13分33秒 | コメディのかけら

地元の町中華の昼飯時、
肉体労働していると思しき男が入ってきて、

「ラーメンと半ライス」

店に入る前から決めていたのだろう。
メニューも見ずに注文した。

数分後。

男の前にまずライスが運ばれてきた。

どんぶり飯だ。

すぐさまラーメンも来る。

こちらも通常ならば大盛りの量。

男は予想をはるかに超える量におののきながら、
食べ始めた。

男は知らなかったのだ、
この店には「4分の1ライス」なるものがあることを。

メニューを見ていれば、
この悲劇は起こらなかったかもしれない。

「やおら」

2019年09月13日 21時52分27秒 | 業界のかけら

某番組の仮ナレーションの原稿に、
ちょくちょく「やおら」という言葉が出てくる。

この言葉、僕は普段使わないため、
いつも違う言葉に書き直している。

ふと思い立ち「やおら」という言葉の意味を調べてみた。


『ゆっくりと動作を起こすさま』


え?


仮ナレでは、そんな意味合いで使ってないぞ。
むしろ逆の「突然」といった意味合いで使っている。

ひょっとして、

「やにわに」

と勘違いしているのでは?

平成18年の文化庁の調査によると、
「やおら」を「急に」「いきなり」の意味で使っている
ことが判明したそう。

実は僕も「やおら」という言葉の意味を正しくは知らず、
単に自分が使わない言葉だから書き直していただけだった。

やばいやばい。

見慣れぬ言葉、違和感ある言葉、
ちゃんと調べて使わないとなあ。


町中華~食べるのがやけに遅い男

2019年09月08日 14時19分04秒 | その他のかけら

炒飯が美味い店なのだ。

午後2時過ぎだったが、
カウンター席はほぼ埋まっている。

次々と客がやってくるが、
回転が速いためさほど待つことはない。

僕が座った席の隣では、
若い客がレバニラ定食を食べていた。

後から来た僕が炒飯を注文し、
しばらくして料理が出てきて、
食べ終えた時も、
彼のレバニラ定食は半分ほどしか減っていなかった。

なぜか?

テーブルの上にスマホを出し、
海外ドラマを観ているせいだ。

ドラマに夢中で、
ほとんど箸が進んでいない。

カウンターの中からも、
その様子はわかっているんだろうが、
「お客さん、早く食べて下さい」とは言えないだろうから、
さぞやイライラしていることだろう。

というか、混み合う店では、食べることに集中しろ。

現代版『牛の首』

2019年09月05日 10時34分34秒 | 業界のかけら

『牛の首』という話がある。

もっとも恐ろしいといわれる怪談だ。

いつ、誰が作ったものかはわからない。
古くから語り継がれている話のようで、小松左京氏に同題の掌編小説があるが、それも伝え聞いた話として書かれている。

『牛の首』とはどんな話なのか。

それは誰にもわからない。あまりにも恐ろしい話なので、聞いた者は恐怖のあまり死んでしまう。
だから、話の内容を知る者は誰もいなく、伝わっているのは『牛の首』という題名だけ、という話である。

先日、これとよく似た話を聞いた。

ある番組の収録で、あるタレントが自分の恐怖体験を語った。
たしかにそれはスタジオにいた誰もが身震いするような恐ろしい話だったという。

収録を終えた後、今度はオンエアに向け、それを編集しなければならない。
編集の段階で、繰り返し同じ話を聞くことになるが、それでもその話の恐ろしさは変わることはなかった。

「本当に何度も聞いても怖いんだ」

編集の初期段階はディレクターが一人でやることが多い。
夜更けまで一人狭い部屋にこもって、繰り返し見るうちに、恐怖はついに彼の限界に達した。

「あんまり怖いからさ」

 そして彼は思わぬ行動に出た。

「それ以上編集できなくて、全部カットしちゃったよ」

恐ろしすぎてオンエアできないのではなく、恐ろしすぎて編集できず闇に葬られてしまった怪談。

まさにテレビ界の『牛の首』である。


※数年前にネットマガジンに連載した原稿を発掘。
 もうそのネットマガジンも存在していないようなので、
 時々、こちらに移植します。