yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

飛鳥苑地跡見学の条

2011-02-22 22:22:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 超忙しかったのですが、これだけは見ておかないと、と思い、行ってきました。飛鳥苑地の現場です。

 ナナナント超豪華メンバーがいらっしゃいました。

 現場の角に立っている怪しげな姿。これぞ今や奈良県庁文化課で右に出る者がいない?!というMSさんであった。

「なんでこんな所に立ってらっしゃるの??」
「いえ、まー、あのー、その」といつもの口調で説明される。

なんでもこの苑地は史跡指定とその後の整備が絡んでいるので、県庁の仕事でもあるらしい。いろいろゆっくり酒でも呑んで話したいことはあったのだが、この日は残念ながらそのまま退散した。心なしか元気がなく気になったところである。

 そして現場に近付くと誰かが傍にやってきて話しかける。「誰」と思って見上げるとつい先日(と言っても11月末のことだが)お会いしたばかりの研究所のIFさんだ。

「アレー、今日はえらく偉いさんばかりが出てらっしゃるんですね。どうされたんですか?」

こんな会話から始まって大先生から懇切丁寧な現地説明を伺うことができた。現説の忙しいときに丁寧な解説など期待できないのが普通だが、こうやって問題点を聞きながら見学できるのは最高だ。予想外の事態にとても嬉しくなった。





 なぜ私がこの苑地に着目するか?

 長岡宮嶋院

との関係なのだ。

 いうまでもなく日本の古代宮都は飛鳥の最晩年に天武が設けた新城に始まる。ただし、「宮城」の原形は推古の豊浦宮以来飛鳥の地に設け続けられた諸宮殿域にある(私はそれ以前の崇峻や用明の宮殿も既にある程度の形ができていたと思っているのだが、何せ調査歴が全くないので証明のしようがない)。つまり飛鳥からその伝統の継承性、非継承性を見ていかなければ宮城論などできやしないのである。長岡宮嶋院がなぜ遷都早々から建設され、曲水の苑地として使われたのか。西宮なんてものがあんなところにあるはずがないという大きな根拠がここに潜んでいるのである。

 日本の古代宮都の変遷を長岡宮でしか見ようとしない狭い視野の方々に宮都研究なんてできるはずがない!!遺跡の価値を判らずして遺跡を残すことなど不可能なのである。

 と、ま、愚痴はこれくらいにして、苑地である。

 飛鳥川右岸の低地を実にうまく利用して南北に長い苑地が設けられた。その建設時期は未だに諸説あって固まっていないが、私は斉明朝でいいのではないかと思っている。飛鳥川の河岸段丘上に宮殿を置き、その下の氾濫原を利用して苑地を設ける。苑地には様々な給水、噴水設備が設けられ、陸橋で繋がった中島からその風情を楽しむことができる。

 或いは一段高い宮殿の西端からもその光景を眺めることは十分に可能だったろう。飛鳥苑地はまさに長岡宮嶋院なのである。飛鳥の苑地はどんなに立派でも誰も文句は言わないが、長岡宮の嶋院が複廊を備えた立派な苑地だというととたんに皆さん首をかしげる。なぜ?

 と言うようなわけで飛鳥の苑地遺跡を眺めていたのである。今回の成果としては東端から南北に延びる石敷き溝が確認され、これを研究所は「雨落ち溝として発表している。もしそうだとすると池に接して南北棟の立派な建物が配置されていたことになる。場所は北池の北端付近である。南池の直ぐ東には宮殿があるから他の施設は配置しにくい。池に関連する建物はこの辺りにしか置けないのかも知れない。飛鳥宮の全体構造を考える上でとても重要な施設だと判った。

 アー早く科研の報告書を終わって、「長岡宮嶋院考」書き上げたいものだ。

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