yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

悲しい報せの条

2011-02-23 23:50:25 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨夜はうたた寝しながらやっとの事で『三重大史学』第11号を編集することができて夕方印刷屋さんに渡した。原稿を自分で書いたわけではないのでもっと楽なはずだったのだが、これがなかなか。学生の卒論を二本も載せる羽目になったのが問題の始まり。

 余りに日本語が下手くそなのだ。ちょっと直すつもりが、泥沼状態、終わったのは印刷屋が原稿を受け取りに来る直前だった。

 それでも一仕事終わった開放感からビールでも飲もうかな?等と思っているところへ、いつもの友人からスカイプのチャットが入った。お、ちょうどいいや、マイクでお喋りでもするか、ということに。

 ところが、チャットに不気味な文字が。

 「訃報をお知らせしなければなりません」とある。


「エッツ???誰?」

 大学の友人から来る「訃報」というのは、誰か他の友人本人以外に考えられない。いろんな顔が浮かんだ。

 だれ?癌?事故?それとも・・・・・?

 Aさんだった。聞いてドキッとした。

 でもよく聞くと、なんでも一週間程前に転倒し頭を強打してそのまま亡くなったのだという。私より一つか二つ上だからまだ60代前半である。とても残念だ。

 彼は文学部の中国文学の専攻だった。少しくせのある話し方だが、とてもバイタリテーに溢れた方で、確か、自動車部だったような気がする。私の親友の先輩でもあったから専攻は違ってもいろんなところで話す機会があった。確か『没法子』(しょうがない、どうしようもない)という雑誌を出していたときの執筆者の一人だったような気がする。

 しかし、大学生活後半になるとみんなあちこちへ分散していって、ほとんど会うこともなかった。彼も人伝に大学を辞めて仕事をしていると聞いた。

 ところが、その後私もなんとか卒業して、どこか就職口はないものかと,職安に行って探す内に、ある運送会社で募集していることに気付いた。

「たしか、あそこにはAさんがいたよな。彼に相談してみようかな。」などと思いながら会社の門を叩いた。たまたま会社でばったり会って、いろいろ話す内に、彼は今、大学を中退して、運転手をしているという。

 「気楽なとこやケーこいや」と誘われて勤めることにした。

 私は一応事務職なのだが、運送屋に事務もへったくれもなかった。広島の江南にあったその会社は、24時間稼働していた。1ヶ月に一週間夜勤があった。深夜12時に出勤して朝8時までの勤務を一週間続けるのである。まだ若かった私には仕事の辛さよりも、変な時間に寝起きするのが苦痛だった。一度などは気がついたら4時だった。「???」夕方の四時か?と淡い期待を抱きながら恐る恐るラジオを付けると、どうも夜明けの4時のようだ。慌てて飛び起きて、自転車で五分もかからない会社に飛び込んだ。

 4人で一組の班だったが、係長は平気な顔をして謝り倒す僕に笑いながら、

「タイムコーダーは押してあるから」と、こともなげに言ってくれた。

「こいつなんか度々じゃケー」と、もう一人の若者を指さしながら笑っていた。そんな和気藹々としたチームだった。

 深夜の勤務以外は夕方に集荷されてきた荷物のチェックが仕事だった。

 Aさんはよくタイヤ倉庫に集荷に行っていた。プラットフォーム(と呼んでいたトラックの横付けされる広ーい空間)には四方八方にトラックが着き、集荷された荷物でごった返した。そんな時Aさんは優しく荷物を送ってくれる。

 「山中、行くぞ-。これから倉敷の営業所分120本だからなー」

こんな調子で,いつもニコニコしながら仕事をしておられた。
タイヤをプラットフォームの反対側から転がしてくれる時も、常に心遣いがあった。意地悪な運転手なら、そんなことお構いなしで、どんどん流してくる。ちょっと数を間違えると

「大学まで出てて数もかぞえられんのか!」と来る。

「わしらー小学校しか出とらんでなー」

こんな職場に耐えられたのも事ある毎にアドバイスしてくれたAさんのお蔭だった。時には食堂で、時には喫茶店で、顔を見かけたら声をかけてくれた。半年も経てば、会社にも溶け込んで、いかさま横行の麻雀に誘われたり、係のみんなで広島球場に巨人戦を見に行ったり、結構楽しい職場だった。だから、1年後、伯父の強引な命令で、職場を辞めて京都に帰るときにはみんなが惜しんでくれた。

 まだ職も決まってないのに辞めたものだから、しばらく京都支店に転勤したらどうや、とまで言ってくれた。それもこれもAさんのお声掛けがあったからだ。

 その後Aさんは体調を崩されて田舎に帰られたと聞いた。ある時ひょっこり京都に来られ、何時間も我が家で雑談して帰られたことがあった。体調が余りよくないらしい。あの元気で、ニコニコされていた姿とは大違いの寂しそうな顔に、何とも言えないやるせなさを感じたこともあった。

 もうあれから何年経っただろうか。一昨年の還暦集会にも一度は来ると仰っていたが、結局お出でにはならなかった。

 今の自分があるのはあの運送屋での一年の経験がとても大きいと思っている。安月給の、決して楽とは言えない仕事だったが、決してつまらなくはなかった。どんな集団の中でも、ひたむきに働けばいずれ仲間は心を開いてくれるし、暖かく付きあってくれる。だから、その後しばらく定職もなく,伯父の歯医者でバイトをしていたときも、見習い技工士として、それなりの仕事はしたつもりだった。一生懸命やれば自ずと周りの人々は支えてくれた。人間の温かさをここでも知ることができた。

 それもこれも、やけにならないよう、常に見守ってくれたAさんのお蔭だ。

 やっと人間世界の苦悩から解き放たれて、今彼はきっと再びニコニコとあちらの車を運転していることだろう。いつか僕も乗せてもらうことになる。『没法子』を主宰していた親友も既にあちらにいる。また雑誌を再開しようではありませんか。

 感謝!!





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