昨日は第3回久留倍遺跡まつり、第19回壬申の乱ウオークだった。秋晴れの快晴とはいかなかったが、暑くもなく、寒くもなく、手頃な気温で歩くには最適の一日だった。もう三回目なのでそれほど参加者は来ないのかなと思っていたが、せんと君効果なのか、300人余の方々にお集まり頂いた。
特に久留倍遺跡では四日市市教育委員会の方々が丁寧な説明をして頂き、全員が熱心に聞き入った。何よりも事前に現地の草刈りをして頂き、広々とした丘で、子供達が走り回っていたのがとても印象的だった。
今日はその写真集をまとめてアップすることにする。
朝6時起きで学生さん達は過酷なスケジュールを終日実にしっかりとこなしてくれた。感謝!三岐鉄道の黄色の車体がまぶしい。
早朝から三岐鉄道大矢知駅は多くの市民で埋まった。近鉄富田駅で乗り換え、一駅でこの駅だ。是非一度お越し下さいね。
速く歩き出さないかなーと心待ちの皆さん。
第一の中継点長倉神社。急な坂の階段をよいしょよいしょと登った。急遽ウオークの解説を任された私はマイクを持って、リュックを背負い、喋りながらの歩きで、とてもとても疲れてしまった。
子供達待望のせんと君とのショット!
せんと君には子供達が群がって、なかなか説明が始められないシーンも。
行列は続く。古代衣装の皆さん、本当に有り難うございました。お疲れ様でした。
高架の道はほぼできあがってしまった。とても悲しい!!
第二の中継点天武天皇遙拝所ではお茶のサービスが。これまた感謝!!
迹太川だとの説もある十四川沿いに北上。ちょっと最後が尻切れトンボで残念だった。
2時間余のウオークが終わって講演前の開場ではせんと君のパフォーマンスが。
中に入って一日中熱演してくれたNAさん、そしてこれをサポートしてくれた院生のMKさん、四年生のIHさん、お疲れ様でした。
最後は森浩一先生から「伊勢国雑考」と題して、伊勢国にまつわる様々な話題を判りやすくお話し頂いた。開場の皆さんは大満足の様子であった。
一度参加してみたいなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→気ブログランキングへ">
晩秋の 伊勢路で聖武 何思う
せんと君 葭満つ久留倍 降り立ちて
古代服 駆け巡る童 赤とんぼ
特に久留倍遺跡では四日市市教育委員会の方々が丁寧な説明をして頂き、全員が熱心に聞き入った。何よりも事前に現地の草刈りをして頂き、広々とした丘で、子供達が走り回っていたのがとても印象的だった。
今日はその写真集をまとめてアップすることにする。
朝6時起きで学生さん達は過酷なスケジュールを終日実にしっかりとこなしてくれた。感謝!三岐鉄道の黄色の車体がまぶしい。
早朝から三岐鉄道大矢知駅は多くの市民で埋まった。近鉄富田駅で乗り換え、一駅でこの駅だ。是非一度お越し下さいね。
速く歩き出さないかなーと心待ちの皆さん。
第一の中継点長倉神社。急な坂の階段をよいしょよいしょと登った。急遽ウオークの解説を任された私はマイクを持って、リュックを背負い、喋りながらの歩きで、とてもとても疲れてしまった。
子供達待望のせんと君とのショット!
せんと君には子供達が群がって、なかなか説明が始められないシーンも。
行列は続く。古代衣装の皆さん、本当に有り難うございました。お疲れ様でした。
高架の道はほぼできあがってしまった。とても悲しい!!
第二の中継点天武天皇遙拝所ではお茶のサービスが。これまた感謝!!
迹太川だとの説もある十四川沿いに北上。ちょっと最後が尻切れトンボで残念だった。
2時間余のウオークが終わって講演前の開場ではせんと君のパフォーマンスが。
中に入って一日中熱演してくれたNAさん、そしてこれをサポートしてくれた院生のMKさん、四年生のIHさん、お疲れ様でした。
最後は森浩一先生から「伊勢国雑考」と題して、伊勢国にまつわる様々な話題を判りやすくお話し頂いた。開場の皆さんは大満足の様子であった。
一度参加してみたいなと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→気ブログランキングへ">
晩秋の 伊勢路で聖武 何思う
せんと君 葭満つ久留倍 降り立ちて
古代服 駆け巡る童 赤とんぼ
”近かったらな。。”と いっつも思います。
今日はこれから”桑原隆博氏(県立歴史民俗資料館館長)
「江の川中上流域における大型古墳について」”市民講座を市民ホールで聴きます。甲立古墳のお話だとか・・・来月はたぶん、やあさんのお友達の
三浦正幸氏「毛利の城」です。いつかやぁさんの講演聞きたいです。そうそう来週は古墳現地説明会もあるんですよ^^
三浦さんはここ三重のご出身なのですよ。私は電話でしか話したことがありませんが、城郭研究ではとても著名な研究者です。しっかり勉強しておいて下さい。
桑原君には彼がまだ草戸千軒にいた頃にいろいろお世話になりました。もう30年以上前のことです。
江の川流域にはあの有名な石見銀山がありますが、実はこの銀も三次経由で尾道に運ばれているんですね。中国山脈を越えて、運ばれた銀は瀬戸内海から大阪の銀座へ入ったそうです。きっとこのルートも古墳時代にはできていたのではないでしょうかね。甲立古墳の方を回ると安芸の国ですから、当然こちらからはこのルートなのでしょうね。
今院生の一人が福塩線の駅家の出身で、交通路を研究しています。品治駅家(ほぬちのうまや)から北へ進むと帝釈峡を経て出雲の東端へでます。これもきっと当時の交通路だったのでしょうね。奈良時代の人々はこれを再利用して情報伝達に使ったようです。
古墳も身近な存在でした。遊んでた山は実は古墳だったなぁんてことも。高速道のインターチェンジ工事の時には沢山の土器と住居跡が見つかったのを見学に行った記憶があります。
銀山と砂鉄、そして古墳。中世の山城。
昔は要衝の地だったのかも?とロマンがふくらみます。出雲文化圏と吉備文化圏そして畿内の影響。
いろいろ想像してしまいます。どっちにも近い。なんだか物語でも出来そうです♪