2014年12月12日(金)毎年恒例となっている大阪府立の進学校O高等学校での授業を行った。高校生に大学の授業はどんなものかを知らせ、進路選択の参考にするという趣旨で始まったものだ。もう16年になる。
事前に授業の候補をお知らせし、学生や先生に選んでもらって決められたテーマですることになっている。
今年は、「ローマ人の風呂文化と水道~テルマエロマエを考古学する~」となった。授業が始まってみんなに聞くと意外なことに、みんな、漫画も映画も観ていないという。ただお母さんが持っていたのでしてはいるとか、さすが受験校、勉強一筋らしい。
そんなわけで今年の受講生は少なかったが、皆さん熱心に聞いてくれた。最後の質問時間も足りないくらい。やりがいのある授業だった。
授業の一部をご紹介しておこう。
テーマはこれ。
以下主なパワーポイントの抜粋です。
先ず、昨年春に行ったチュニジアにあるフェニキア人の商業都市、ケルクアンで確認した風呂です。
この遺跡はあまり知られていませんが、ローマ人の手によって破壊し尽くされたカルタゴの遺跡の中で、奇跡的に残った港町です.ローマ人が来る前に廃れていたことが、彼らの目にとまらず、破壊を免れたのでしょう。そのお蔭でフェニキア人達の都市構造を観ることのできた素晴らしい遺跡だったのです。私にとってもっと感動的だっtなおは彼らの風呂が確認できたことでした。彼らはナナナント、日本人のようにお湯につかっていた様なのです。但し、一人しか入れない、まるで今のユニットバスのような風呂でした。
こんな風呂が小さな家々一軒ずつにあるのです。カルタゴのフェニキア人も風呂好きだったようです。
これはチュニスにあるカルタゴの遺跡です。但し、フェニキア人達の町はローマ人によって徹底的に破壊され、この写真はローマ人達が破壊の後に造ったローマ都市の下から出てきたフェニキア人の都市です。この町もよく見るとケルクアン同様に比較的小さな区画で家々が構成されている共通点があります。フェニキア人の都市は例が少ないので余り研究が進んでないように思います。レバノン郊外にあるビブロスの遺跡などとの比較研究があるのかも知れませんが、とてもおもっしろい研究材料です。
彼らフェニキア人達はタニト(この人形のようなマーク)と呼ばれる豊穣を祈る神様を信仰していたようです。
ケルクアンの町並みの復元図です。港に接した小さな商業都市です。
ローマ人達はカルタゴを破壊した後その上にローマ都市を造りますが、先ず実行したのが水道の建設でした。チュニス郊外約二三キロほど東の山裾にあるザクーアンはその水源地の遺跡でした。ここから引かれた水はローマ時代のカルタゴ(チュニス)まで届き、一角には広大な貯水総軍が設けられました。
ザクーアンから延々と引かれた水道橋の跡です。
さて、ローマの風呂・テルマエロマエの世界です。その前に一応ローマの中心部をご紹介。政治・経済・宗教の中枢部・フォロロマーノです。
そして文化の中心・コロッセオ。
これがカラッカラ浴場。変な名前ですが、同名のローマ皇帝の名前に由来します。
ローマで一番大きかったといわれるトラヤヌスの浴場です。
これらに水を引くための水道橋です。
ローマ人達は現在の西ヨーロッパ世界を形成しますが、その支配地にも必ずといっていいほど風呂を造りました。これはローマの港町オステアに設けられた小さな風呂です。
そしてこれはローマ郊外にあったハドリアヌスの別荘です。有名なチボリの丘の麓近くにあります。
来客用、皇帝家族用、皇帝用と三種類の風呂がありました。ローマ人の風呂好きがよくわかります。テルマエロマエはハドリアヌス皇帝の時代設定になっています。
ハドリアヌスがイギリスを征服するために設けたハドリアヌスウオールにも各フォート(要塞)に風呂が設けられていました。
憧れのポンペイにも風呂と水道が完備されていました。
地中海を征服したローマは地中海の東端・現在のレバノンにも植民都市を設けました。私たちが少し発掘や測量のお手伝いをしたチュロス(Tyrl)にも港町に付属した大浴場がありました。
水源地から延々と引かれた水道橋の残骸です。
水源地は今も町の人々の貴重な水源です。
首都ベイルートにも現在の大統領官邸の直ぐ横にローマ人の残した大浴場があります。どれもローマの風呂と同じ三段階の温度の部屋を設けた風呂です。
シリア国境から引かれたベイルートへの水道です。ここは現在も使われています。
私の研究目的は都市の比較研究です。その中の文化の比較研究というサブテーマの素材が風呂とトイレのです。
以上のようなローマの都市文化とアジアがどう異なるのか?これが次なるテーマです。
そしてこれは長安郊外の温泉地か華清池の風呂跡です。左の華形が楊貴妃、右の大きいのが玄宗の風呂だといわれますが、そうでしょうか?私は左の風呂に一緒に入ったと思うのですが・・・。
長岡京から発見された現在のところ日本最古の風呂です。宝菩提院廃寺という長岡京において最高の権威を持った寺院から発見されました。日本古代で発見されている唯一の風呂跡です。つまり、日本人はこの時代、高僧や天皇以外に風呂に入ることはなかった!!と私が結論づけると、生徒達は[エエッツ、汚い!!ホントですか?」と口を揃えていいました。でもこれが事実ですから、みんな汚かったに違いありません。こうした事実の確認にこそ文化の比較に意味があるのです。現在の文化や習慣なんてそんなに古いとは限らないのです。何でも伝統だと言い張って日本の文化を強調する方々に見せてやりたい事実です。
見事な風呂でしょう。半円形のところに大きな鉄釜があったと思われます。その周りの石敷きで湯浴みをしたと私は思うのですが、有名大学の建築史の先生は後世の絵巻物の資料などからこのお湯を部屋に引き込んで蒸発させ、熱い蒸気で発汗させる、サウナ風呂的な構造を復原されています。でも考古学の私はこれには全く賛同できません。なぜなら、それならこの見事な石敷きはどんな機能をするのですか?こんな質問を浴びせれば済むことだと思うのです。日本古代においてこれほど見事な石敷き遺構は飛鳥の宮殿以外にありません!!
次に風呂の遺構がはっきり判るのは、有名寺院に現在も残る中世以降のものとこの山科本願寺のものしかありません。
そしてテーマに沿ってまとめてみました。
テルマエロマエの世界、考古学からも判るんだ!!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
次回は生徒達と訪れた大阪城の現場紹介です。お楽しみに!!
事前に授業の候補をお知らせし、学生や先生に選んでもらって決められたテーマですることになっている。
今年は、「ローマ人の風呂文化と水道~テルマエロマエを考古学する~」となった。授業が始まってみんなに聞くと意外なことに、みんな、漫画も映画も観ていないという。ただお母さんが持っていたのでしてはいるとか、さすが受験校、勉強一筋らしい。
そんなわけで今年の受講生は少なかったが、皆さん熱心に聞いてくれた。最後の質問時間も足りないくらい。やりがいのある授業だった。
授業の一部をご紹介しておこう。
テーマはこれ。
以下主なパワーポイントの抜粋です。
先ず、昨年春に行ったチュニジアにあるフェニキア人の商業都市、ケルクアンで確認した風呂です。
この遺跡はあまり知られていませんが、ローマ人の手によって破壊し尽くされたカルタゴの遺跡の中で、奇跡的に残った港町です.ローマ人が来る前に廃れていたことが、彼らの目にとまらず、破壊を免れたのでしょう。そのお蔭でフェニキア人達の都市構造を観ることのできた素晴らしい遺跡だったのです。私にとってもっと感動的だっtなおは彼らの風呂が確認できたことでした。彼らはナナナント、日本人のようにお湯につかっていた様なのです。但し、一人しか入れない、まるで今のユニットバスのような風呂でした。
こんな風呂が小さな家々一軒ずつにあるのです。カルタゴのフェニキア人も風呂好きだったようです。
これはチュニスにあるカルタゴの遺跡です。但し、フェニキア人達の町はローマ人によって徹底的に破壊され、この写真はローマ人達が破壊の後に造ったローマ都市の下から出てきたフェニキア人の都市です。この町もよく見るとケルクアン同様に比較的小さな区画で家々が構成されている共通点があります。フェニキア人の都市は例が少ないので余り研究が進んでないように思います。レバノン郊外にあるビブロスの遺跡などとの比較研究があるのかも知れませんが、とてもおもっしろい研究材料です。
彼らフェニキア人達はタニト(この人形のようなマーク)と呼ばれる豊穣を祈る神様を信仰していたようです。
ケルクアンの町並みの復元図です。港に接した小さな商業都市です。
ローマ人達はカルタゴを破壊した後その上にローマ都市を造りますが、先ず実行したのが水道の建設でした。チュニス郊外約二三キロほど東の山裾にあるザクーアンはその水源地の遺跡でした。ここから引かれた水はローマ時代のカルタゴ(チュニス)まで届き、一角には広大な貯水総軍が設けられました。
ザクーアンから延々と引かれた水道橋の跡です。
さて、ローマの風呂・テルマエロマエの世界です。その前に一応ローマの中心部をご紹介。政治・経済・宗教の中枢部・フォロロマーノです。
そして文化の中心・コロッセオ。
これがカラッカラ浴場。変な名前ですが、同名のローマ皇帝の名前に由来します。
ローマで一番大きかったといわれるトラヤヌスの浴場です。
これらに水を引くための水道橋です。
ローマ人達は現在の西ヨーロッパ世界を形成しますが、その支配地にも必ずといっていいほど風呂を造りました。これはローマの港町オステアに設けられた小さな風呂です。
そしてこれはローマ郊外にあったハドリアヌスの別荘です。有名なチボリの丘の麓近くにあります。
来客用、皇帝家族用、皇帝用と三種類の風呂がありました。ローマ人の風呂好きがよくわかります。テルマエロマエはハドリアヌス皇帝の時代設定になっています。
ハドリアヌスがイギリスを征服するために設けたハドリアヌスウオールにも各フォート(要塞)に風呂が設けられていました。
憧れのポンペイにも風呂と水道が完備されていました。
地中海を征服したローマは地中海の東端・現在のレバノンにも植民都市を設けました。私たちが少し発掘や測量のお手伝いをしたチュロス(Tyrl)にも港町に付属した大浴場がありました。
水源地から延々と引かれた水道橋の残骸です。
水源地は今も町の人々の貴重な水源です。
首都ベイルートにも現在の大統領官邸の直ぐ横にローマ人の残した大浴場があります。どれもローマの風呂と同じ三段階の温度の部屋を設けた風呂です。
シリア国境から引かれたベイルートへの水道です。ここは現在も使われています。
私の研究目的は都市の比較研究です。その中の文化の比較研究というサブテーマの素材が風呂とトイレのです。
以上のようなローマの都市文化とアジアがどう異なるのか?これが次なるテーマです。
そしてこれは長安郊外の温泉地か華清池の風呂跡です。左の華形が楊貴妃、右の大きいのが玄宗の風呂だといわれますが、そうでしょうか?私は左の風呂に一緒に入ったと思うのですが・・・。
長岡京から発見された現在のところ日本最古の風呂です。宝菩提院廃寺という長岡京において最高の権威を持った寺院から発見されました。日本古代で発見されている唯一の風呂跡です。つまり、日本人はこの時代、高僧や天皇以外に風呂に入ることはなかった!!と私が結論づけると、生徒達は[エエッツ、汚い!!ホントですか?」と口を揃えていいました。でもこれが事実ですから、みんな汚かったに違いありません。こうした事実の確認にこそ文化の比較に意味があるのです。現在の文化や習慣なんてそんなに古いとは限らないのです。何でも伝統だと言い張って日本の文化を強調する方々に見せてやりたい事実です。
見事な風呂でしょう。半円形のところに大きな鉄釜があったと思われます。その周りの石敷きで湯浴みをしたと私は思うのですが、有名大学の建築史の先生は後世の絵巻物の資料などからこのお湯を部屋に引き込んで蒸発させ、熱い蒸気で発汗させる、サウナ風呂的な構造を復原されています。でも考古学の私はこれには全く賛同できません。なぜなら、それならこの見事な石敷きはどんな機能をするのですか?こんな質問を浴びせれば済むことだと思うのです。日本古代においてこれほど見事な石敷き遺構は飛鳥の宮殿以外にありません!!
次に風呂の遺構がはっきり判るのは、有名寺院に現在も残る中世以降のものとこの山科本願寺のものしかありません。
そしてテーマに沿ってまとめてみました。
テルマエロマエの世界、考古学からも判るんだ!!と思う人はこいつをポチッと押して下さいね→
次回は生徒達と訪れた大阪城の現場紹介です。お楽しみに!!