(何度も書いていることですが)良い悪いで判断する矛盾意識・偽善を持っている限り何を成せども同じ不完全で矛盾偽善がある結果になります。
だから学校の教科書に記載されるほどのマザーテレサを金の亡者と書いたり発明王のエジソンやノーベル賞のダイナマイト兄弟や音楽家のベートベンさえもぼろかすに書いています。
また釈迦やイエスやヒットラーを相手にせずに(触らぬ神に祟りなしで)ほっとけばどうなったでしょうか、
自問自答してください。
ちなみに自然界に逆らってダムを建造することで治水や発電に貢献しますが、しかし河川に水・土砂が流れなくなり川魚が減り海岸がやせ細り海藻が減り魚たちに悪影響しているし、栄養要素を含んだ水が海に流れ込まなくなって海洋生物が減っているし、しかも家庭排水が滞り河川の汚染汚濁が起きています。
ところで子供の成績を気にして成績が上がれば褒めて喜び自己満足すれば、しかしその成績が上がり続けることは無理がありますから、いつしか下がればそれが不平不満になります。
ところが元からして成績を気にしないでその事実だけを確認するだけなら自己満足にも不平不満にもなりません。
然るに触らぬ神に祟りなしとなります。
ちなみに「亭主元気で留守がいい」というのも事実です。
然るに見えないところでいて元気でいれば何の問題にもなりません。
然るに触らぬ神に祟りなしになります。
とにかく表れた事実だけを見てほっとけば何の問題にもなりませんから、当然ながら矛盾もなく完全ですから、そのまま・このまま・あるがままの完全なる宇宙・神の愛と同じになります。
然るに前もって思い考え詮索したり予測したり注意や用心を促したりするのは余計なことで無駄になります。
例え思惑が事実になっても、その思惑が原因で事実現実になったのではありません。
勘違いしないでください。
たまたま思惑が当たったと言うだけでその結果事実は起きるべきして起きたことですから思惑とはなんら関係がありません。
とにかく成り行き任せにして、その成り行きからして何か結果が出れば、その現れた結果・事実を見るだけにして、そこで良い悪いで判断しなければ宇宙・神・愛の完全意識となるのです。
しかし持って生まれた不完全意識からして良い悪いで判断してそれが自己満足になったり不平不満になっているのが私たち人間なのです。
そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らないの自己縮小の実践をし続けて、成り行き任せの触らぬ神に祟りなしの実践にして、
その素朴謙虚に生きることからして当然ながら自己満足も不平不満も減りますから、その苦と楽の喜怒哀楽の矛盾の繰り返しで生きることから次第に解放されるようになるのです。
そして完全なる宇宙・神・愛意識に一歩ずつ近づくことになるのです。
然るに素朴謙虚にして生きると言うことの基本は良い悪いで判断しない神意識・愛意識・完全意識に近づくことなのです。
そして素朴謙虚にして生きることで精神が安定してきますから、いつの間にやら喜怒哀楽で生きることもなくなり、そしていつの間にやら良い悪いで判断しない生き様=いちいち良い悪いで判断する必要もない生き様に変わってくるのです。
それがこのブログであり、私の生き様そのものです。
だから学校の教科書に記載されるほどのマザーテレサを金の亡者と書いたり発明王のエジソンやノーベル賞のダイナマイト兄弟や音楽家のベートベンさえもぼろかすに書いています。
また釈迦やイエスやヒットラーを相手にせずに(触らぬ神に祟りなしで)ほっとけばどうなったでしょうか、
自問自答してください。
ちなみに自然界に逆らってダムを建造することで治水や発電に貢献しますが、しかし河川に水・土砂が流れなくなり川魚が減り海岸がやせ細り海藻が減り魚たちに悪影響しているし、栄養要素を含んだ水が海に流れ込まなくなって海洋生物が減っているし、しかも家庭排水が滞り河川の汚染汚濁が起きています。
ところで子供の成績を気にして成績が上がれば褒めて喜び自己満足すれば、しかしその成績が上がり続けることは無理がありますから、いつしか下がればそれが不平不満になります。
ところが元からして成績を気にしないでその事実だけを確認するだけなら自己満足にも不平不満にもなりません。
然るに触らぬ神に祟りなしとなります。
ちなみに「亭主元気で留守がいい」というのも事実です。
然るに見えないところでいて元気でいれば何の問題にもなりません。
然るに触らぬ神に祟りなしになります。
とにかく表れた事実だけを見てほっとけば何の問題にもなりませんから、当然ながら矛盾もなく完全ですから、そのまま・このまま・あるがままの完全なる宇宙・神の愛と同じになります。
然るに前もって思い考え詮索したり予測したり注意や用心を促したりするのは余計なことで無駄になります。
例え思惑が事実になっても、その思惑が原因で事実現実になったのではありません。
勘違いしないでください。
たまたま思惑が当たったと言うだけでその結果事実は起きるべきして起きたことですから思惑とはなんら関係がありません。
とにかく成り行き任せにして、その成り行きからして何か結果が出れば、その現れた結果・事実を見るだけにして、そこで良い悪いで判断しなければ宇宙・神・愛の完全意識となるのです。
しかし持って生まれた不完全意識からして良い悪いで判断してそれが自己満足になったり不平不満になっているのが私たち人間なのです。
そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らないの自己縮小の実践をし続けて、成り行き任せの触らぬ神に祟りなしの実践にして、
その素朴謙虚に生きることからして当然ながら自己満足も不平不満も減りますから、その苦と楽の喜怒哀楽の矛盾の繰り返しで生きることから次第に解放されるようになるのです。
そして完全なる宇宙・神・愛意識に一歩ずつ近づくことになるのです。
然るに素朴謙虚にして生きると言うことの基本は良い悪いで判断しない神意識・愛意識・完全意識に近づくことなのです。
そして素朴謙虚にして生きることで精神が安定してきますから、いつの間にやら喜怒哀楽で生きることもなくなり、そしていつの間にやら良い悪いで判断しない生き様=いちいち良い悪いで判断する必要もない生き様に変わってくるのです。
それがこのブログであり、私の生き様そのものです。