孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

このブログを書くことが私の役割であればその「お役を果たしている」ことになります。

2013年09月08日 | Weblog
世間から離れた過疎地でもってしての単身生活ですから、しかも暇で退屈な時間が多いだけに、然るに生き甲斐らしいものがありませんから、その孤独が孤独感になって当然だと思うのに、それが精神世界を意識しているおかげで孤独感が出てきません。

しかもピラミッド社会から抜け出したような意識で生きていますから、然るにそのピラミッド社会を外側から見上げている格好になっていますから、然るによく見えていると思っています。
しかも私の過去に世間並みの自己拡大をしていた経緯があってのことですから尚更に中身まで見通せます。

そして欲と見栄から離れた生き方からして然るに人間本来の楽に生きることが味わえています。
しかも私の若かりし頃の気楽な生き方の成り行き任せを引き継いできていますから尚更に真に迫った感じもしています。

しかもその成り行き任せからしての必然ご縁が仕組まれ続けての現在ですから、然るにその摩訶不思議な仕組みを信じるか否かを越えたその事実性によって更にその自信を深めることができました。

ところがブログに書いていることが私の意識の中にあることだけでは無くして、何やら(我ながらにして上出来だけに)誰かに書かされている感じがしているのですが、それが私の過去世&潜在意識の中にあることなのか、それとも対外的な霊魂の氣エネルギーの性なのかと思うことがありますが、それがもし宇宙の光エネルギーの高まりを受けての結果であれば申し分ないわけです。

然るにその説明文書の内容が邪な意識からして出ているのならば、然るに欲張り見栄張りを戒める文書になるはずもありませんし、まして自らが欲離れ見栄離れの生き方を望むはずも無いと思います。

然るに摩訶不思議の水からしてご縁があった霊能者kさんが言われたように摩訶不思議な見えない世界&精神世界の説明文書を書くことで「お役を果たしている」ことには間違いないと自惚れています。

欲も見栄も出さずに済む生き方を実際に味わえばその価値真価に気付き悟りに至ります。

2013年09月07日 | Weblog
過去の釈迦やイエスらを含めてそれら教祖宗教家や指導者先生方に元からして欲張らないで見栄を張らなければ、然るに人を集める必要も無く、然るに人知れずに静かにしてその精神世界に身を置いて日々を生きていたはずです。
しかしその事実は見受けられません。

それともそれらの人が精神世界に係わっているうちにその欲張らない見栄を張らないことに後から気付き悟ったことであれば、然るにその実践が無ければその精神世界に反することになります。
しかしその実践をしているとは見受けられませんから、然るに嘘偽りインチキになります。

その精神世界の先駆け先人ともなる人がその欲張りや見栄張りを捨てられずにいるのに、何で私たち凡人がその欲張り見栄張りをせずに生きていけるでしょうか、そう思いませんか!?

しかし先人先生よりも一般的凡人のほうがその見栄が少ないことからしてその実践がやり易いのも事実です。
然るに社会の底辺でいる人のほうが欲や見栄を出さないようなその生き方が実践し易いのです。

ところが自分独りならその実践が可能なのだが、しかしそれを邪魔立てしているのが人間関係なのです。
然るに精神世界に身を置いて生きていくためには必然的に独自独歩になると何度も書いています。
然るにそれさえも邪魔立てしているのが自らが持っている見栄だと書くようになりました。

然るに「見栄」がキーポイントになりました。

そこで見栄があるがそれでも見栄を出さない生き方にするしかありません。
そこで手っ取り早く南海の孤島にでも移住してそこで見栄を出さずにしていれば然るに欲も出さなくなります。

そこで欲も見栄も出さずに済む生き方を実際に味わえばその価値真価に気付き悟りに至ります。
然るに私が書く中に仙人が如くに暮らすとか南海の孤島や奥地の現住民や山岳民族や草原民族や少数民族が出てきたりまたアニメのアルプスの少女ハイジが出てくるわけです。

然るに皆さんもそれらのテレビ報道や特別番組で見て憧れを抱いたこともあったはずです。
然るに内心では呑気気楽にして「楽に生きたい」のです。
ところが世間体やプライドからして無理な話になるわけです。

すなわち実際に味わっていないからです。
然るに釈迦やイエスやそれら類の人も実際に味わっていなかったのです。
然るに中には楽に生きることを邪な異端者如くに否定反発排除&弾圧殺りくしていたかもしれません。

だから我が身を精神世界の中において精神修養習得したいならば、その欲張りや見栄っ張りから離れられる生き方を実際に実践し味わなければ、然るに如何なる精神世界の教え戒め掟を持ってきてしてもそれら全てが余計なことで無理なことで無駄な不完全&中途半端なままに終わることでしょう。

精神世界に身を置いて楽に生きることを邪魔しているは欲よりも見栄です。

2013年09月06日 | Weblog
巷の精神世界に係わる人で欲張るもよし、見栄を張るもよし、と説く人はいないと思われます。
その反対の欲張らない、見栄を張らない、と説くのが精神世界の常識にもなっていると思います。
またその欲張りや見栄っ張りを戒める説教をしているはずの宗教家ら輩がその欲張り見栄を張っている事実があります。

しかしそれら輩も初期の頃は純真&単純にして、然るに人様に知って欲しい&認めて欲しい&注目して欲しい&人気を得たい等の(欲と同類の対外的な)見栄から始まったことと思われます。
然るに私も同類ですからその心理は尚更にわかるのです。

そして人が集りだすと次第に欲が出て然るに金を集めたがる事になるのです。
と言うことは説教する者も知っていることを言うだけで然るに欲張ることや見栄を張ることを戒めているその実践が出来ないでいるのです。

然るに欲張らない見栄を張らないその実践が出来ないのも、然るに欲張ることが先の原因とすることよりも体外的な見栄張りからしてその実践に移れないのが原因と思います。

然るに欲張ると苦労することは誰もが知っていることですから、然るに出来れば欲張らずに楽にしていたいのが人間の本音です。
然るに「楽にして」金儲けしたいのも本音です。

だから同じことをするならばそのお客さんになる人を大勢集めたがるわけです。
そしてそのリピート客を大勢作りたいのです。

とにかく精神世界に我が身を置いて「楽に生きる」ことを邪魔立てしているのも自らの見栄なのです。
だから見栄っ張りが出なくなれば然るに欲を出さないで楽に生きることが可能になるのです。

その見栄は対外的なことです。
ところが「楽に生きたい」は内在心です。
だからその対外的なことが無ければ、然るに人間関係を気にしなければ「楽に生きる」ことが可能になるのです。

然るに自由孤独にしての独自独歩が必然になるのです。

それじゃその人間関係の重要性は如何ほどでしょう。
然るに自力の少ない他力依存の人には多くの他力&人間関係が重要ですが、自力自信の多い人ほどその重要性が低くなります。

然るに自力の少ない人ほど神仏霊魂の信仰宗教に染まりやすく、然るに宗教を信じて頼る事になったりその神に祈り願い期待することにもなります。
また神懸り奇跡の超能力や霊力に頼りそれに期待することにもなっています。

然るに私は不完全な人間関係を意識して暮らすことよりも、真実事実の精神世界で生きることを意識して暮らしています。
然るに欲張り無理をしませんから楽チンにしていますし、人間関係を気にしませんから気楽にしています。

然るに欲張ることも見栄を張る必要も無いままに生きることになっているし、それに勝手気ままな自由がありますが、しかし得手勝手な我がままにはなりません、何たって欲も見栄も無い状態だからです。

と言うことですが、その欲張りや見栄張りの無い楽チンな生き方を味わっていると過去の生き様の愚かさにも気付きますから、然るに二度と過去の生き様に戻ることにはならないと思われます。

だから良い悪いで判断する不完全意識ながらも真の精神世界に身を置いた生き様になっていると思っています。

良い悪いで判断する→良いとこ取りする→欲張る見栄を張るこの一連の流れを逆にするのが精神世界。

2013年09月05日 | Weblog
良い悪いで判断するのは我先に良いとこ取りしたがる意識があるからですが、それが欲張る事になっています。

然るにそこで欲張らない生き方をしようとするとそこで見栄っ張りが出てきて邪魔する事になります。
そこで見栄っ張りを無くするには元からして欲張らなければいいのです。
そして欲張らなくなれば良い悪いで判断してその良いとこ取りする必要性が無くなります。

良いとこ取りや見栄や欲絡みのその一連の流れ&道理&真実事実&真理を昔からしっかりと説いていれば時代の流れも変わって、然るに宗教絡みの人殺しや勢力拡大の侵略戦争も無かったかもしれませんし、また見栄を張り欲張ることも、然るに良いとこ取りすることも、然るに良い悪いでいちいち判断する必要も無いそんな生き様をしている人が大勢増えていたかもしれません。

然るに私の過疎地暮らしがその一連の流れに匹敵しています。

それでも私も良い悪いで判断する不完全意識をしっかり持っていますから、その良いとこ取りの欲も持っています。
それでも摩訶不思議な仕組みの連続からしていつの間にやら過疎地で単身暮らしをするようになってからは次第に欲張ることも見栄を張ることの必要性が消えて、然るに食って寝て糞をするだけのような生き様に変わり、然るにそれが精神世界に身を置いた生き方になりました。

そこで私が思うに、釈迦やイエスらの足下に集る者たちにその欲張らないことや見栄を張らないことのその一連の流れの真実事実を「何で」しっかりと伝授しなかったのでしょう、そう思いません!?

然るに私が思うには、その釈迦やイエスらに欲張りも見栄張りもしっかりと持っていたから、然るに一連の流れを説くと自らも実践しなければなりませんからそれでは何かと不都合だったのでしょう。

然るに基本ともいえる欲張らない見栄を張らないことを(自然体とかで遠まわしに説明しているが)重点的に説いていません。
然るにサイババも霊能者kさんも耕栄さんも伊勢白山道も同類のはずです。

ちなみにこのブログで釈迦やイエスを含めた神懸り超能力や霊力を持っている者を遠慮なく書き下ろすことができるのも、今の私が見栄も欲も出てこないような、然るにそれらを必要としない生き方をしているからです。

ところが私が今の生き様になる以前に仮に摩訶不思議を成して見せる能力があれば、然るに過疎地で静かに暮らすなんてことにはならずに人が大勢いる街中で大いに見栄を張り欲も張っていたかもしれません。

それを言い換えると、宇宙的愛の霊能者kさんや完全真理の耕栄さんやブログで人気がある伊勢白山道もその欲離れ見栄離れの生き様を実際に味わっていないはずと思います。
もしそれを実際に味わってるのであれば、然るに自分が成していることの自慢話&見栄話やその説教よりも、然るに欲張ることや見栄を張ることの愚かさを自らの経験体験からしてその事実をしっかりと繰り返し説教しているはずです。

然るにアレコレこね回した説教やその思惑期待の結果説明を繰り返すよりも、然るに単純明快な欲張らない見栄を張らないことのその一連の流れの真実事実の説明を繰り返すだけで十分だと思います。

そして自らもその実践をしていればそれが自らの精神意識のためにもなるのです。
それがこの世に仕組まれた真の精神世界だと思います。

=付記=
精神世界で「自然体」が言われるのも然るにその欲張りや見栄張りの無い生き方であり、然るに必然ご縁で仕組まれるままの成り行き任せになります。
然るにその自然体を説いているのならばその自然体の実践が出来ていなければ単に精神世界の理想目的を掲げてそれを説いてただ聞かせているだけになります。

然るに簡単に人真似の出来ない魅力的な摩訶不思議を成すことが出来ても、ところが人真似が簡単に出来るそのお手本となる精神世界の実践が疎かになっていることになります。
然るに「言うは易し行い難し」のお手本を示していることにもなります。

余計なことを無理してそれが無駄になるのも然るにそれに見栄や欲が隠れている証拠になります。

2013年09月04日 | Weblog
完全真理が説くところの「良い悪い」で判断しないことで、然るに人を責めることにも自分を責めることにもならず、然るに不平不満にならず、然るに不安心配&恐れ怒りや嫉妬や仕返し報復ややけくその破壊意識にならずにすみます。

その良い悪いで判断する中に自分さえ良ければの「良いとこ取り」があります。
然るに良いとこ取りしたいがための「欲絡み」からして善悪損得優劣で判断する事になっているのです。

然るに良い悪いで判断すのも<欲>が原因なのです。
だから欲を持っていても、然るにその欲が出ないような生き方を書いてきました。

ところが欲が出ないようにするにも見栄っ張りが邪魔をしているのです。
然るに見栄っ張りからして欲張ることにもなっているのです。
だからその見栄や世間体&プライドを持たないようにすれば欲を出すことにもならないわけです。

然るに私にも良いとこ取りのその欲があり、然るに見栄やプライドもしっかり持っています。
それでも人間関係のしがらみから離れた過疎地で単身で暮らしているからその見栄っ張りが出ていないのです。
然るに欲を出す必要も無くなっていたのです。

ところがどっこい、必然性の低い自家菜園を自慢げにしたり、また街中では飼育できないヤギやニワトリを放し飼いにしていたことは、
然るに田舎暮らしに賑わい&付加価値&特別な価値観(然るに見栄)をつけてそれを自慢にして身近な人様を呼び込みたがるその思惑&見栄っ張りがあったのです。

然るにその苦楽を味わうことになり、然るにその自己満足よりも苦労や気疲れが多いことからして然るに後悔し深い反省になりました。

だから人様の事を気にしないで、また欲張り無理しないで、然るに気楽に生きることも一筋縄の如くに簡単には行かずにして、その実践をしながらにして自らの自力でもってして気付き続けなければ本物にはならないのです。

だから精神世界に身を置いて気楽に生きる実践をするにも欲張り見栄張りがあれば無理が伴うばかりか、簡単そうな「楽に生きる」ことでも然るにピラミッドは一夜にして成らずが如くになるのです。

=付記=
私に超能力&霊力があれば、然るに精神世界に身を置いた私の過疎地暮らしに付加価値を付けなくても人が寄り集り賑わうことになります。

然るに超能力や霊力は精神世界に付加価値(魅力的結果)を付けて人を引き寄せ呼び込むための手立てになります。
然るにその裏には(私と似通った)思惑期待の欲絡みと見栄っ張りが隠れている不完全意識を持っている事になります。

だから諸々のミイラ取りがそのミイラに陥るわけです。
然るに有能な人がそのミイラ取りになることでは無くして、
その有能な精神力でもってして独自独歩に進みながらに(自然体vs特別意識&見栄や欲などに)気付き続け、然るに己の精神に更なる磨きをかけるのが精神世界の本筋なのです。

巷の精神世界が「何処吹く風」の「釈迦に説法」如く、然るに「ぬかに釘」の「無用の長物」なの、

2013年09月03日 | Weblog
時間つぶしながらにしてブログを書き続けているのですが、
然るに神仏霊魂の世界&信仰宗教の世界&完全真理などの精神世界が「何処吹く風」が如くになっているし、然るに「無用の長物」になっている感じがしますが、ちなみに精神世界っていったい何なの、然るにどうあるべきなのでしょう。

然るに精神世界に携わって登場してくる有能な人物を巷で有名にしただけで終わっている事実があります。
然るに立派な神社仏閣や大掛かりな教会や彩り鮮やかな神殿拝殿や豪華な御殿を建造したり、また大掛かりな組織団体を動かして善行善人ぶっている感があります。

然るに、有名になるためや立派な御殿を建てるがために、然るに人気集め&人集め金集の為に超能力者や霊能者が巷に出ています。

然るにそれらが掲げていた立派なスローガンやその説教やまた奇跡超能力に魅せられて寄り集まった人たちのその精神&意識が如何ほどに修正されたのでしょうか。

然るに寄り集まる輩も目立ちたがりやが多く、然るにリーダシップを取りたがるし、お節介したがるし、有ること無いことを言い触らすし、不確かな事を事実が如くに広めたり、然るに笛や太鼓を鳴らして練り歩くチンドンヤの如くにして広告宣伝して客集めに協力しているし、然るにそれが世直し人救いの善行とばかりに自惚れているし、然るに布教活動に専念して夫婦家族崩壊に至っている場合もあるようだし、然るに精神世界って一体何なのでしょう。

然るに人集め金集めの勢力拡大でもってしての精神世界が然るに神の名を掲げてその邪魔者&敵対するものを排除する人殺しや抗争や戦争にもなっているのですから、
然るに精神世界の弊害副作用が事実にして様々にあるのに、
それなのにいったい何の役に立っていると言うのでしょうか、

然るに私が精神世界を思うには、事を大げさにして目立たせるその必要も無く、然るに人が寄り集る必要も無く、然るに自由にして独自独歩でもって学び知り気付くことが適切だと思っています。

然るにその精神世界を実践するとなると欲張り無理をしないで楽に生きること、
また不完全意識の人間関係だけにその人様の事を気にしないこと、
然るに独自独歩の自由にして欲張らないで呑気気楽に生きていくことになります。

ちなみに前項のように派手にして目立ち大掛かりにしても、然るにその結果は不完全ですから、
然るにそんな余計なことや無理なことや無駄になることを避けて、然るに騒ぐことも急ぐことも無くして穏やかな心持でもって欲張らない、然るに見栄を張らないで、
然るに呑気気楽に生きるほうが結果的には省エネ楽チンでもってして精神世界に身を置くことが出来ます。

しかしそれさえもなかなか実践できない現実があります。
然るに大掛かりでも、然るに小さくても、然るにどうしようもなく、然るにどうでもいいのが巷の精神世界に思えるようになりました。

それゆえに尚のこと=欲張らずに見栄を張らずに=無理しないで「楽に生きる」ことになります。

神仏霊魂の世界&信仰宗教の世界&完全真理などの精神世界が「何処吹く風」になっている。

2013年09月02日 | Weblog
食って寝て糞をして生きていくことに一生懸命だった時代がありました。
然るにその時代に特別だったのが当たり前になり、またそこで特別を求めて欲張ってきたその繰り返しで時代が進化して来ました。

然るに現在は物質経済的には恵まれすぎています。
だから私の若かりし頃の昭和よりも恵まれていますから、然るに貧租な過疎地暮らしを単身でしていると書くも、だが文明の利器や豊かな物質に恵まれていて、然るに何一つ不自由していません。

だからそのままにして欲張らなくても十分な事に気付いたのです。
そして欲張らなければ楽チンにして生きて行けることにもなりました。

然るに釈迦やイエスがどうの信仰宗教が云々と書かなくても、山田耕栄さんの完全真理がどうのと学び知らなくても、霊能者kさんや伊勢白山道の霊界を知らなくても、超能力や霊力に係わらなくても、

またそれらに係わり学び知り気付く事になっても、然るにその真の実践が出来ないのだから、
然るにそれらは元からして無用の長物であって、然るにその学識知識&経験能力を見せびらかして、然るに見えない世界を知ったかぶりにしてそれを人様に自慢して自己満足することで終わるのだから、

然るに皆が皆不完全意識のままなのだから、

然るにアレコレと見聞を広めなくても、然るに昔から言われているように欲張り見栄張りしなければそれだけで十分精神世界に通じた生き方を味わえるのです。

だからその欲張り見栄張りするその生き様から離れた生き方を実践すれば、然るに此れまでとは異なる楽チンの生き様が味わえるのです。
然るに屁理屈を並べ立てたような精神世界をまったく知らなくても、それが精神世界に身を置いた生き様になるのです。

ところが精神世界にかかわりながらも進展せずに此れまで通りの繰り返しを続けていたら、然るに自らが自らの首を絞めて自滅することになるか、あるいは人為的破壊や自然災害に巻き込まれて悲惨な状況になったままに自らの終わりを迎える事になります。

然るに自己縮小の精神世界に身を置いて死するのであれば、然るにそれまで楽に生きられて楽に死ねますが、
それが欲張り見栄張りのままに死することになれば、然るに無理するその苦労の繰り返しのままに虚しく、然るに未練後悔を抱えたままに死ぬことになります。

その欲張りも見栄っ張りも同類ですから、その見栄っ張りを無くすれば欲張ることも次第に無くなっていきます。

然るに欲張るのも見栄を張るためなのです。
然るに人様と差をつけて自己満足したいのです。

然るに自由も無く、然るに孤独になればそれが孤独感にもなり、然るに正味価値では無くして価値観で生きることにもなり、然るに変化刺激&快感快楽で生きることにもなるのです。

然るに精神世界にかかわりながらも欲張り見栄を張っていれば巷の神仏霊魂の信仰宗教やまた完全真理が「何処吹く風」同然になっていることになります。

「楽に生きて、楽に死ねる」ことが精神世界の根幹であり、人間本来の生き方だと確信しています。

2013年09月01日 | Weblog
どうやら精神世界を特別に思っていたところがあるようです。
然るに釈迦やイエスらの輩が言う特定&特別な神仏霊魂を信じて頼り然るに祈り願う形があるのも、
また魔術師が如きの神懸り奇跡の超能力や霊力念力を特別に思いその結果を期待するのも、
また完全な宇宙&神の愛を説く完全真理にしてもその実践となると絶対的な無理があることから言えば、

また善を説き悪を戒める形が未だに通用するからにはその矛盾の結果が出続けることになって混沌とした世の中&精神世界が続くならば、
然るに「どうすることも」出来ないままに時が過ぎていくことになります。

そこで不完全意識ながらも「楽に生きて」然るに「楽に死ねる」その生き様にしてこの世を生きていく、然るに特別が無い普通の生き方、然るに無理も無い楽チンな生き様にして過ぎ行く時を味わうしか他に生きていく道がありません、と確信しています。

然るに此れまで精神世界を特別にしていたのも欲絡みだったからです。
然るに誰もが生きていくことに精一杯の時代の頃は、然るに少しでも「楽に」生きることが出来て、然るに少しでも「楽に」死ねることを思い願っていたのが精神世界の拠所だったはずです。

ところが時代の推移からしていつの間にやら生き甲斐を求めるようになり、然るに少しでも「楽しく生きる」ことを趣にしたことからして精神世界も様変わりしたと思います。
然るに時代の進化に応じて精神世界も様変わりしたのです。

また世の為人の為に善を成す者たちを良しとする風潮が高まりそれに準じた者たちが精神世界や世間のヒーローになり、またそれを模範とするに至り、然るにそれを生き甲斐にする輩が目立ち始めて、然るに精神世界も特別になったのです。

然るに誰もが実践できない特別を語り説きそれを理想目的に掲げたり、また何かと目立つ姿格好や形式を導入したり、また客寄せパンダ如きの摩訶不思議な結果を出して見せて人を集め金を集め、然るに特別な神社仏閣や教会や神殿を持つことで更に人が集り金が集ることになったのです。

然るに欲にかられた教祖指導者先生にこれまた欲絡みの人が集り、然るに欲絡みの中で宗教真理&精神世界が語られるようになったのです。

然るにその欲絡みの宗教真理に違和感をもっていた私だけに、その違和感の謎解きが進むほどに精神世界の真実が見え始め、然るに現在に至っているのです。
そして自らの生き様からして実感し悟りに至り、然るに精神世界の原点とも言える「楽に生きて、楽に死ねる」ことを書くに至ったわけです。

然るに私は楽しく生きることよりも気楽に生きることを意識しているだけに欲があってもその欲が出てきません。
何故なら既に楽に生きることのその真価価値を実際に味わっているのにそれ以上のことを何で欲張ることになるでしょうか。

そして原因と結果は同じですから、然るに「楽に」生きているその意識が原因からして仕組まれ「楽に」死ねる結果になると確信しています。
然るに尚更の事に欲張り無理することにはなりません。

しかも不完全意識に変わりが無いだけに、何を成してもその結果も不完全です。
ゆえに何か事を成すことを意識することよりも、然るに静かにして穏やかに気楽に生きるほうが賢明だと我ながらにして悟っているのです。
何たって此れまで数多くの余計な事に無理し無駄にしてきたその経緯&苦楽を十分味わっているからこそ悟ることも出来たのです。

だから既に私の中では「楽に生きて」そして「楽に死ねる」ことが精神世界の根幹であり、然るにその生き様が人間本来の生き方だと確信したのです。