精神世界に身を置いて生きるにしても、元からして良い悪いで判断する不完全意識をもっていますから、その生き様&方向性を誤ることがあります。
だから不信感&敵対心を持てば然るに私が正しいの正義感も出てきます。
然るにモーゼの海割れ現象でもってして追っての兵士が溺れる様を描いた壁画を誇らしげに飾るのも邪な正義感からです。
然るに自らの命を危険にさらしてまでも溺れる者を救う者がいればそれが正しいと褒め称えますが、然るにモーゼの一行が溺れる兵士を見殺しにしたことはサタン的意識になります。
然るにイエスや釈迦も邪な意識の者を敵対して「去れ」「出て行け」とばかりに排除したようですが、その邪な者と決め付けたのもイエスや釈迦の中にある私が正しいの邪な意識が原因です。
然るに太陽を崇拝し月を悪と排他的に決め付けている伊勢白山道も同類です。
然るにそれが「私は正しい」の不完全意識から出た教えになるのです。
然るに「すべてはひとつ」「すべては愛」を説くに相応しくない邪な意識の者になります。
然るにその邪な意識の者が他の邪な意識の者を否定反発排除束縛制限したがるその正義感がこの世の災いの元にもなっているのです。
ちなみに無理して頑張り欲張り見栄張りして生きることよりも「楽にして生きて楽にして死する」ことを望むのも不完全意識から出たことです。
然るにそれを否定反発する者からすれば、然るにそれは邪な意識の者が言っていることになります。
そして不届き者や異端者呼ばわりしたりまた弾圧拷問したりまたサタンが如くに言って成敗されるかもしれません。
然るに精神世界は「信じるか否か」になりやすいのです。
だから真実事実を見極めながらにして生きるのが精神世界の基本になるのです。
然るに言われたことを丸呑み鵜呑みで信じて従うことでもありません。
ゆえに学び知ったことが真実事実なのか見極めるその実践が無ければ「言うだけ聞くだけ」の精神世界になります。
然るにこのブログは信じるか否かよりも真実事実が多く書かれています。
しかしそれが本当か嘘かを自らが見極め実感するにもその実践が無ければやはり言うだけ聞くだけの精神世界になり、然るに精神世界に身を置いた生き方をしていることにはなりません。
然るに他力絡み欲絡みでは無くして、自らの意識&自力自信&精神力でもって実践しながらその真実事実を見極め味わうことが本来の精神世界です。
然るに巷の信仰宗教や精神世界は他力絡み欲絡みだけに自らを危険にさらす道筋となる邪道の精神世界になります。
然るに他力絡み欲絡みから離れて(卒業してから)精神世界に係わるほうが本物の精神世界を身近に感じて生きていけます。
だから不信感&敵対心を持てば然るに私が正しいの正義感も出てきます。
然るにモーゼの海割れ現象でもってして追っての兵士が溺れる様を描いた壁画を誇らしげに飾るのも邪な正義感からです。
然るに自らの命を危険にさらしてまでも溺れる者を救う者がいればそれが正しいと褒め称えますが、然るにモーゼの一行が溺れる兵士を見殺しにしたことはサタン的意識になります。
然るにイエスや釈迦も邪な意識の者を敵対して「去れ」「出て行け」とばかりに排除したようですが、その邪な者と決め付けたのもイエスや釈迦の中にある私が正しいの邪な意識が原因です。
然るに太陽を崇拝し月を悪と排他的に決め付けている伊勢白山道も同類です。
然るにそれが「私は正しい」の不完全意識から出た教えになるのです。
然るに「すべてはひとつ」「すべては愛」を説くに相応しくない邪な意識の者になります。
然るにその邪な意識の者が他の邪な意識の者を否定反発排除束縛制限したがるその正義感がこの世の災いの元にもなっているのです。
ちなみに無理して頑張り欲張り見栄張りして生きることよりも「楽にして生きて楽にして死する」ことを望むのも不完全意識から出たことです。
然るにそれを否定反発する者からすれば、然るにそれは邪な意識の者が言っていることになります。
そして不届き者や異端者呼ばわりしたりまた弾圧拷問したりまたサタンが如くに言って成敗されるかもしれません。
然るに精神世界は「信じるか否か」になりやすいのです。
だから真実事実を見極めながらにして生きるのが精神世界の基本になるのです。
然るに言われたことを丸呑み鵜呑みで信じて従うことでもありません。
ゆえに学び知ったことが真実事実なのか見極めるその実践が無ければ「言うだけ聞くだけ」の精神世界になります。
然るにこのブログは信じるか否かよりも真実事実が多く書かれています。
しかしそれが本当か嘘かを自らが見極め実感するにもその実践が無ければやはり言うだけ聞くだけの精神世界になり、然るに精神世界に身を置いた生き方をしていることにはなりません。
然るに他力絡み欲絡みでは無くして、自らの意識&自力自信&精神力でもって実践しながらその真実事実を見極め味わうことが本来の精神世界です。
然るに巷の信仰宗教や精神世界は他力絡み欲絡みだけに自らを危険にさらす道筋となる邪道の精神世界になります。
然るに他力絡み欲絡みから離れて(卒業してから)精神世界に係わるほうが本物の精神世界を身近に感じて生きていけます。