孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

良い悪いで判断する→良いとこ取りする→欲張る見栄を張るこの一連の流れを逆にするのが精神世界。

2013年09月05日 | Weblog
良い悪いで判断するのは我先に良いとこ取りしたがる意識があるからですが、それが欲張る事になっています。

然るにそこで欲張らない生き方をしようとするとそこで見栄っ張りが出てきて邪魔する事になります。
そこで見栄っ張りを無くするには元からして欲張らなければいいのです。
そして欲張らなくなれば良い悪いで判断してその良いとこ取りする必要性が無くなります。

良いとこ取りや見栄や欲絡みのその一連の流れ&道理&真実事実&真理を昔からしっかりと説いていれば時代の流れも変わって、然るに宗教絡みの人殺しや勢力拡大の侵略戦争も無かったかもしれませんし、また見栄を張り欲張ることも、然るに良いとこ取りすることも、然るに良い悪いでいちいち判断する必要も無いそんな生き様をしている人が大勢増えていたかもしれません。

然るに私の過疎地暮らしがその一連の流れに匹敵しています。

それでも私も良い悪いで判断する不完全意識をしっかり持っていますから、その良いとこ取りの欲も持っています。
それでも摩訶不思議な仕組みの連続からしていつの間にやら過疎地で単身暮らしをするようになってからは次第に欲張ることも見栄を張ることの必要性が消えて、然るに食って寝て糞をするだけのような生き様に変わり、然るにそれが精神世界に身を置いた生き方になりました。

そこで私が思うに、釈迦やイエスらの足下に集る者たちにその欲張らないことや見栄を張らないことのその一連の流れの真実事実を「何で」しっかりと伝授しなかったのでしょう、そう思いません!?

然るに私が思うには、その釈迦やイエスらに欲張りも見栄張りもしっかりと持っていたから、然るに一連の流れを説くと自らも実践しなければなりませんからそれでは何かと不都合だったのでしょう。

然るに基本ともいえる欲張らない見栄を張らないことを(自然体とかで遠まわしに説明しているが)重点的に説いていません。
然るにサイババも霊能者kさんも耕栄さんも伊勢白山道も同類のはずです。

ちなみにこのブログで釈迦やイエスを含めた神懸り超能力や霊力を持っている者を遠慮なく書き下ろすことができるのも、今の私が見栄も欲も出てこないような、然るにそれらを必要としない生き方をしているからです。

ところが私が今の生き様になる以前に仮に摩訶不思議を成して見せる能力があれば、然るに過疎地で静かに暮らすなんてことにはならずに人が大勢いる街中で大いに見栄を張り欲も張っていたかもしれません。

それを言い換えると、宇宙的愛の霊能者kさんや完全真理の耕栄さんやブログで人気がある伊勢白山道もその欲離れ見栄離れの生き様を実際に味わっていないはずと思います。
もしそれを実際に味わってるのであれば、然るに自分が成していることの自慢話&見栄話やその説教よりも、然るに欲張ることや見栄を張ることの愚かさを自らの経験体験からしてその事実をしっかりと繰り返し説教しているはずです。

然るにアレコレこね回した説教やその思惑期待の結果説明を繰り返すよりも、然るに単純明快な欲張らない見栄を張らないことのその一連の流れの真実事実の説明を繰り返すだけで十分だと思います。

そして自らもその実践をしていればそれが自らの精神意識のためにもなるのです。
それがこの世に仕組まれた真の精神世界だと思います。

=付記=
精神世界で「自然体」が言われるのも然るにその欲張りや見栄張りの無い生き方であり、然るに必然ご縁で仕組まれるままの成り行き任せになります。
然るにその自然体を説いているのならばその自然体の実践が出来ていなければ単に精神世界の理想目的を掲げてそれを説いてただ聞かせているだけになります。

然るに簡単に人真似の出来ない魅力的な摩訶不思議を成すことが出来ても、ところが人真似が簡単に出来るそのお手本となる精神世界の実践が疎かになっていることになります。
然るに「言うは易し行い難し」のお手本を示していることにもなります。