孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

精神世界で肝心なのは誰が何を説いていても、それが真実か否かにあります。

2012年10月14日 | Weblog
不完全なこの世に同じ不完全な医科学や宗教があるのも必然からして実在していますから、それを必然とする者がそれらに頼る事になるだけです。

だからそれが釈迦やイエスの類であってもサイババや耕栄さんや伊勢白山道であっても、それらを必然とする者が寄り集まっていく事になるだけです。

そして肝心なのは学び知ったことを実践できるのか、それとも言うだけ思うだけで終わるのか、その選択結果が自らに現われてきますから、その時々で信仰心が高まったり弱まったり、また離脱したり、また別な形に入り込んでいく事になったりしています。

だから尚の事に肝心になるのは、誰が何を説いているにしろ、それが事実か否かにあります。

もし不確かな事実ではないことを事実と信じることになれば、それは思い込み盲信であり洗脳(自己洗脳や他者洗脳)にあたります。

なのにその信じることから入っていく人が多いのも事実です。

そして変な事に巻き込まれるのです。

ところが完全真理は事実を説いていますから、それが事実だと学び知ればその完全真理を信じることにはなりません。

だからこのブログでは「見えない世界」のことであっても、それが事実であれば事実として詳細に示して書いているつもりです。

しかし(何度も書くが)耕栄さん自身の思いが込められた語りの中に不完全が含まれているのも事実ですから、それを見極めるだけの自力と自信が無ければ結局は耕栄さんの思いを信じる信者意識になるので(私は)注意しています。

しかし完全真理を知る限りにおいてはその見極めが確かな事となって見えてきますから、その耕栄さんの思いに巻き込まれることにはなりません。

そこで時々登場する伊勢白山道のことになりますが、どうも信じるか否かが多く、また良い悪いで判断している事実からして、その不完全さもすぐに見極めることが出来たのです。

また「生かされていただいてありがとう御座います」を説く本人が確かな真実の実践が出来ていないことも見極められるのです。

その中で特筆するとしたら、月は邪な意識体で太陽が神の如くに書いて、その善と悪の見極めが出来るが如くに自分を持ち上げている事にあきれてしまいました。

その月は月の役割を果たしている事実だけであり、太陽は太陽の役割を果たしているその事実だけであって、それを善と悪に分け隔ててそれが確かな如くに主張している、その不完全な意識に惑わされる人(信者)が増えないか心配にもなりました。

しかし前頭に書いたように釈迦やイエスやサイババ・耕栄さんや同様に伊勢白山道の教えを必然とする人には大いに役立っているわけです。

ただ私としたら、それらの人たちが説いていることが事実か否か(完全か否か)を見極めるのは絶対的に必要だと書いているのです。
だからこのブログの信者さんはいないはずです。

その釈迦やイエスや諸々のものが真実を知ってその真実を語ると共に自らがその真実を実践していたか否かとなると、どうやら言うだけ思うだけであってその実践が成されていなかったと、確信さえ持ち始めたこの頃です。

そこで誰が何を学び知ってもその実践が無理ならば、精神世界のことをあれこれ知ることよりもシンプルにして、この世でもあの世でも通用する「感謝」の実践意識でもって、人それぞれの個性に適した実践でやり続けることしかないようにも思えているのです。

しかし雑多多様で忙しくしていると自分の個性・本文を出すどころか皆の集合意識に惑わされて見失う事になるのは明らかです。

だからやはり自己縮小は必然になります。

見栄やのプライドや不信感からの守り意識から離れた、その自由に解き放たれた意識からして自分の(隠れていた)個性が出てきます。

それぞれの役割からして生まれ持った個性を変えることは無理ですから、長所は長所で短所は短小でそのままにしておいて(無理に変えようとはしないで)(前もってあれこれ思わないで)そのままの素顔・素質・スッピンを遠慮気兼ねしないで出せばいいのです。

何たって着飾った比較競争差別意識の中から何で素直な感謝が出てくるはずもありません。

だから生きていく事に過ぎたものや形を捨てて身軽になる必要もあるのです。

そして必然ご縁からして似通った意識の人と接し触れ合い感謝し合う事になればそれがアリガタイことにもなっていくのです。

しかしそれも概ね無理だと思っています。

となると(素直純真な感謝のアリガタイが無理ならば)言うだけ思うだけの形の感謝になりますが、それでもその感謝は相手に通じますから、あの世の先祖にも形を示して感謝すればそれが通じるとして、そのご先祖霊が光であなたの霊魂を導いてくれると説いているのが伊勢白山道なるものですが、それが不確かなことなのに確かだと言われれば、それを信じるか否かになります。

とにかく精神世界でいろいろと言われている中の何れを選択するも、何れを信じるも、それはあなたが決める事になりますし、実践するか否かも自らが決めることですから、できればシンプルなほうが、どうせ実践できずに無駄になることを余計に多く学ばなくても済むし、そのほうが簡単で判りやすく選択しやすいことからしてありがたいことになります。