孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

釈迦やイエスを含めた超能力者も一般人もその役割を果たしながらの「学びの途中」です。

2012年10月28日 | Weblog
私は若いときから多くの違和感がありました。

その中にアンデスの岩山で親族の遺体を岩で粉々に砕いてコンドルに食べさせる風習やガンジス川のほとりで遺体を焼きその灰を川に流すが、その近くで聖なる川として水浴する人が大勢来ているその有様・風習が違和感に残っていました。

ところで古今東西の過去も現在も多くの(成るようにしてなった)無縁死・孤独死・無縁墓もあることからして、若い時から私の屍や死後のことに(四国遍路の地で生まれ育ったからか)執着は無く「どうでもいい」ことになっています。

なのに先祖代々から供養法要を大事として守り引き継がれていますが、私自身の思いは、それら不完全な宗教家が言うその不確かなことを必然とする者がいて、その不確かと知りつつもその常識的必然性からして成すことの自己満足でやっていると思えます。


そんな私は若い時から両親の死も友人の死も感情に出ずじまいでしたし、その葬儀供養お墓仏壇などの風習には違和感を持っていて、儀礼的に従うことでさえ素直さがありませんでした。

それだけに、そんな面倒くさいことよりも無縁死・孤独死・無縁仏のほうが簡単シンプルだと思っているし、それだけに私の死に対する意識に執着もなく、死ぬ時が来たら死ぬだけと平然としておれるのです。


そんなことだから私の老後や介護の面倒を見れないで昔の「姨捨山」同然になっても、それも私が私の自己責任をまっとうすれば(味わえば)それが学びにもなるのです。

だから前もって色々と用意準備万端整えておく必要はありません。

だから成り行き任せに生きてきたともいえます。


ところが世間では(何でか)昔から親に孝行や先祖供養が言われていたりします。
そして伊勢白山道にご縁があった人が、今まで疎かにしていたその先祖供養に熱心になる人が増えていたりします。

ところが前項のように、その親孝行や死後の供養は一切必要としないと家族に伝えている私なんかもいます。
また何やらそんな人も増えているようにも思えますが、
いったい何ででしょう?


釈迦のように領主の王子が乞食のように修行して仏教で名を馳せたり、家畜小屋で生まれたイエスが世界を風靡する伝説の人になるも裏切られたり、また金ぴかの法衣に身を包み防弾ガラスの車に乗って民衆に手を振る法王がいたり、勝てば官軍で負ければ賊軍となった人が大勢いたり、マスコミでもてはやされるもそれが終われば忘れ去られることにもなり、冒険探検危険に身をさらし続ける人やスポーツや勝負に人生を賭ける人がいたりと、書けば切がありませんが、

どうやら完全真理が説くところの、(輪廻転生を繰り返しながら)この世の表と裏(矛盾)を味わい尽くすのが人間の役割だということは確かなようです。

だから王様や乞食を、天使と悪魔、天女と魔女、天国と地獄、幸せと不幸、自由と不自由・平等と差別、天才と無知、先生と生徒、師匠と弟子、危険と安全、不安恐怖と安心安堵、先駆けと伝統、親孝行と親不孝、一生懸命とぐうたら、病気と健康、生と死、山と谷、上り道と下り道、飴と鞭、信頼と裏切り、自己満足と不平不満、等と書けば切がありませんが、

とにかく、釈迦やイエスもサイババも耕栄さんもユリ・ゲラーも伊勢白山道も(過去世からして)今も様々な学びの途中であることは間違いないようです。


だから摩訶不思議・超能力が必要と思っていたのを自らが成して、その意味の無い・真価のないその結果を味わう自己満足だけで終わっているはずです。

そしてこの世は「どうしようもない」ことを自らの心意識に学んだはずです。
またはその学びの途中だと私は思っています。


前頭に書いた「何でなの」の違和感となる、その根拠と思える事にあるのが、
例えば私とご縁があった摩訶不思議を成す人やまた霊能者や耕栄さんやまたその他にサイババや伊勢白山道を見聞する事で多くを学んでいるように、
どうやら、他の人の様々な学びの途中をこれまた様々な人が身近に見聞することからして、その見聞が自らの学び同然にもなっているようです。

だからしてそれが神がかり霊感や超能力に限らずとも、その超能力と匹敵する匠技術・神の手といわれる人術や医科学の新発見や新発明や文学芸術や芸能スポーツに取り組み続けて有名になった人たちのその特別な生き様(拘り執着)がありますが、優れていると思う反面「何でそこまでやるの?」という(必然性に)違和感がありました。

だからして、皆がこの世の矛盾の多種雑多全部を己が一つ一つ味わっていかなくても、その見聞・見識・史実からして多くを学び知り自覚納得することにもなっているのです。


だから否定反発するよりも「何でなの」と自分に問いかければ、前世を含めた此れまでの学びから自ずと判ることもあるし、それが中途半端で学び足りなかった場合、来世で学び直しで再度学ぶことにもなっているようでもあります。
(それが事実でなくしても)とにかく人様を見てまた己を見ることで一度の人間人生で何十倍も学んだ事に等しいことになるのは事実です。

しかし学力成績の学識知識を暗記したのでは役に立ちません。
それが「何で?」からしての必然から始まったことであればそれが書物であっても学びにもなりますが、過去・前世で自らが味わっていなければ納得確信悟りには届かないで学識知識で終わりますから、それをいつしか実際に味わうときもくるでしょう。

だから親孝行や先祖供養を必然とする人が今その実践による学びの途中であったり、また今が超能力を行使しいている学びの途中だったり、また教祖と弟子や信者の立場だったり、匠と弟子、社長と従業員、また被害者や加害者、警官と泥棒の立場であったり、偉そうにして得意満面の人がいたり、それを見て違和感を持つものがいたりするのだと思います。

だからこの世のすべてが学びの場なのです。

そして自らの意識・役割個性を出しながらも皆して学びあいの途中なのです。

そして人それぞれの意識が原因の一般的有事や真坂の有事によって様々な学びができるし、またその人様の有事を見聞することでも多くが学べます。

だからお互いさまで、お陰さまで、皆が同じで、特別が一切ないのです。

ところが特別は無いと知識で知りつつ、また思いつつも、どこか潜在的・裏心で特別に思うときがありますから、その特別を欲しがることにも、また憧れることにもなったり、また自分が持っている特別能力を(必然以上に)見せ示したがること(特別意識)にもなるのですが、それもいつしか自己反省の学びになっているはずです。


と言うことからして、
この世の矛盾をより多く味わい知るほどにこの世は(裏表があって)「どうしようもなく」「どうすることも出来ない」と悟ることになり、ならばただ一つ「自らが変わるしかない」と自覚した実践でもって、これから先を生きることになると思うのですが、皆さんは如何でしょうか。

此れまで多くの文書を書いてきましたが、すべてが思いつくままであり、また書きながらも気付きがあって、その思いつくまま・気付くままにいつも書いているのですが、このブログを書いているうちに何やらすべての違和感・疑問が一点に集まり完結したような感じです。

すなわち特別があり矛盾がある限りにおいては「どうしようもない」こと。
だからこの世を創造したその宇宙・神・愛の仕組み(法則)の必然とご縁に任すしかないこと。

だから猫も杓子も奉られている先祖も釈迦もイエスも神様仏様の類も奇跡を成す人も「皆同じ」にして(自由・平等にして)、その矛盾裏表を自らが大いに味わい気付き自覚納得確信悟りとなって、そこで改めて多くの矛盾を味わないで済む素朴・シンプルな自己縮小の実践意識で生きることになり、そしてより自然体で生きる意識になることで(特別・差別の無い)次元上昇の来世にもつながるようです。

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