私は幼い頃からして遊ぶ事に熱心でしたから勉学知識教養に欠けたところがありますから、精神世界を知ってもアダムとイブやの創世記や日本武尊や天照大神の日本古事記のことも、また釈迦やイエスなどの類が何を語り何を成したかということも、世間一般の人と変わらないし、必然ご縁から知る程度で未だに無関心です。
私自身はそれらは嘘偽りであって面白おかしく伝えられている創作にしか思っていませんでしたから、その創世記や古事記に書かれているような勢力争いによって、そこで勝てば官軍で負ければ賊軍となって、勝った方が正しくて負けた方が悪く書かれているその伝記を(伝記映画やアニメや宗教の語りを)おとぎ話のように面白おかしく見聞していました。
しかし過去に必然ご縁があった霊能者からして釈迦やイエスの過ちや古事記に嘘が多いことを(霊能者があの世の霊魂と触れ合ったことから)聞かされたことからして、その伝記のおとぎ話の中の違和感が消えていき、なんだか本物の精神世界を知った心持になりました。
特に違和感があったのは、ノアの箱舟に何であれだけのオスメス・つがいが乗れるのよ(今で言う意識体としてなら可能だが)、からはじまって、
その神を信じているか否かを示すために我が子を生け贄にするくだりの、その神の威信を示すため、脅威・恐れ慄かすための、その洗脳的要素の下りとして、
神を信じれば良い事になるが神を信じていなければ悪いことが起こるくだりのアメとムチの使い分けや
その使い分けで神を信じたものは災難から救われ、神を信じなかったものは災難に見舞われて死に至る病やまた地割れ海割れの中に吸い込まれていくなど、
特に西洋の伝記には違和感が多くあります。
それらは要するに不完全意識の人間様が自分の思いを混ぜ込んだ創作物であることは間違いありません。
またそれら釈迦やイエスらがどれだけの真実を説いたか私には判りませんが、その釈迦やイエスらが大を成した、事を成し遂げたと思っていたりすると、死してあの世にいったときに予想だにしなかった居場所にたどり着き「何で私がこうなるのよ」としきりに悔やんだことは間違いありません。
それも要するに奇跡を成す人を「神の遣い」「神の僕」に思って奉りあげた弟子たちや信者たちの創作が多くあったのかもしれません。
それと古今東西のいたる所に大なり小なりの「生け贄」「人柱」の伝説・事実があるようですが、それらを(裏から)先導したものが奇跡を成して見せた霊能者・魔術師やの類の仕業であることも間違いありません。
だからそれらの者が動物霊・偶像となっていたる所で奉られています。
だから釈迦やイエスの類もその可能性が十分にあります。
何故そう思うかと言うと「すべてがひとつ」でもってのすべてが宇宙・神ですから、一個の個の特別な神様的存在は絶対にいません。
なのに一個の神が個人的に誰かを選んでその人を「神の遣い」にすることは絶対的にありません。
しかしそれが「皆が」神の遣いであれば何ら問題ありません。
ところがしかし、いつの世にも奇跡を成す神がかり的な人が(突然)現われるとその人を神の遣いのように思った、その信者や弟子に問題があったわけです。
またそれらに私たちが惑わされているのも事実です。
だからそれら奇跡を成す人に皆が憧れ敬い寄り集まることからして、それら奇跡を成す類のものがいつの間にやら自惚れて(ミイラ取りがミイラに成り下がり)自らが自滅していった事例が多いと思われます。
また多くの人を「集める」ことからして権力者・指導者を脅かす(不安要素)(反勢力的)存在にも思われ、そこで(出る釘は打たれるが如くに)弾圧排他されたりしたと思います。
私が住む地元でも霊能者がいて色んなことを言い当てていたようですし、自らが死ぬ日まで予知し予言してその通りになった話も聞き及んでいますが、その程度の預言者・霊能者の類は古今東西いたる所に実在していると思います。
と言うことからしてみれば、神の遣いや神に仕えるものや神がかり奇跡を成す人も霊能者も一介の人間なのです。
すなわち特別ではなくて、それらを特別に思った人の自らの意識に原因・問題があったのです。
だからそれらの人も自らが精神世界の真実を見極めて独自独歩で歩み続けることが本文であって、奇跡を成して見せたり予言や予知を人様に教え聞かせて人を集めることにおもむきを持つことではなったはずです。
と思っていますが、皆様は如何でしょうか?
私自身はそれらは嘘偽りであって面白おかしく伝えられている創作にしか思っていませんでしたから、その創世記や古事記に書かれているような勢力争いによって、そこで勝てば官軍で負ければ賊軍となって、勝った方が正しくて負けた方が悪く書かれているその伝記を(伝記映画やアニメや宗教の語りを)おとぎ話のように面白おかしく見聞していました。
しかし過去に必然ご縁があった霊能者からして釈迦やイエスの過ちや古事記に嘘が多いことを(霊能者があの世の霊魂と触れ合ったことから)聞かされたことからして、その伝記のおとぎ話の中の違和感が消えていき、なんだか本物の精神世界を知った心持になりました。
特に違和感があったのは、ノアの箱舟に何であれだけのオスメス・つがいが乗れるのよ(今で言う意識体としてなら可能だが)、からはじまって、
その神を信じているか否かを示すために我が子を生け贄にするくだりの、その神の威信を示すため、脅威・恐れ慄かすための、その洗脳的要素の下りとして、
神を信じれば良い事になるが神を信じていなければ悪いことが起こるくだりのアメとムチの使い分けや
その使い分けで神を信じたものは災難から救われ、神を信じなかったものは災難に見舞われて死に至る病やまた地割れ海割れの中に吸い込まれていくなど、
特に西洋の伝記には違和感が多くあります。
それらは要するに不完全意識の人間様が自分の思いを混ぜ込んだ創作物であることは間違いありません。
またそれら釈迦やイエスらがどれだけの真実を説いたか私には判りませんが、その釈迦やイエスらが大を成した、事を成し遂げたと思っていたりすると、死してあの世にいったときに予想だにしなかった居場所にたどり着き「何で私がこうなるのよ」としきりに悔やんだことは間違いありません。
それも要するに奇跡を成す人を「神の遣い」「神の僕」に思って奉りあげた弟子たちや信者たちの創作が多くあったのかもしれません。
それと古今東西のいたる所に大なり小なりの「生け贄」「人柱」の伝説・事実があるようですが、それらを(裏から)先導したものが奇跡を成して見せた霊能者・魔術師やの類の仕業であることも間違いありません。
だからそれらの者が動物霊・偶像となっていたる所で奉られています。
だから釈迦やイエスの類もその可能性が十分にあります。
何故そう思うかと言うと「すべてがひとつ」でもってのすべてが宇宙・神ですから、一個の個の特別な神様的存在は絶対にいません。
なのに一個の神が個人的に誰かを選んでその人を「神の遣い」にすることは絶対的にありません。
しかしそれが「皆が」神の遣いであれば何ら問題ありません。
ところがしかし、いつの世にも奇跡を成す神がかり的な人が(突然)現われるとその人を神の遣いのように思った、その信者や弟子に問題があったわけです。
またそれらに私たちが惑わされているのも事実です。
だからそれら奇跡を成す人に皆が憧れ敬い寄り集まることからして、それら奇跡を成す類のものがいつの間にやら自惚れて(ミイラ取りがミイラに成り下がり)自らが自滅していった事例が多いと思われます。
また多くの人を「集める」ことからして権力者・指導者を脅かす(不安要素)(反勢力的)存在にも思われ、そこで(出る釘は打たれるが如くに)弾圧排他されたりしたと思います。
私が住む地元でも霊能者がいて色んなことを言い当てていたようですし、自らが死ぬ日まで予知し予言してその通りになった話も聞き及んでいますが、その程度の預言者・霊能者の類は古今東西いたる所に実在していると思います。
と言うことからしてみれば、神の遣いや神に仕えるものや神がかり奇跡を成す人も霊能者も一介の人間なのです。
すなわち特別ではなくて、それらを特別に思った人の自らの意識に原因・問題があったのです。
だからそれらの人も自らが精神世界の真実を見極めて独自独歩で歩み続けることが本文であって、奇跡を成して見せたり予言や予知を人様に教え聞かせて人を集めることにおもむきを持つことではなったはずです。
と思っていますが、皆様は如何でしょうか?