孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

創世記や古事記からしても、神がかり奇跡を成す人も霊能者も一介の人間なのです。

2012年10月21日 | Weblog
私は幼い頃からして遊ぶ事に熱心でしたから勉学知識教養に欠けたところがありますから、精神世界を知ってもアダムとイブやの創世記や日本武尊や天照大神の日本古事記のことも、また釈迦やイエスなどの類が何を語り何を成したかということも、世間一般の人と変わらないし、必然ご縁から知る程度で未だに無関心です。

私自身はそれらは嘘偽りであって面白おかしく伝えられている創作にしか思っていませんでしたから、その創世記や古事記に書かれているような勢力争いによって、そこで勝てば官軍で負ければ賊軍となって、勝った方が正しくて負けた方が悪く書かれているその伝記を(伝記映画やアニメや宗教の語りを)おとぎ話のように面白おかしく見聞していました。

しかし過去に必然ご縁があった霊能者からして釈迦やイエスの過ちや古事記に嘘が多いことを(霊能者があの世の霊魂と触れ合ったことから)聞かされたことからして、その伝記のおとぎ話の中の違和感が消えていき、なんだか本物の精神世界を知った心持になりました。

特に違和感があったのは、ノアの箱舟に何であれだけのオスメス・つがいが乗れるのよ(今で言う意識体としてなら可能だが)、からはじまって、
その神を信じているか否かを示すために我が子を生け贄にするくだりの、その神の威信を示すため、脅威・恐れ慄かすための、その洗脳的要素の下りとして、
神を信じれば良い事になるが神を信じていなければ悪いことが起こるくだりのアメとムチの使い分けや
その使い分けで神を信じたものは災難から救われ、神を信じなかったものは災難に見舞われて死に至る病やまた地割れ海割れの中に吸い込まれていくなど、
特に西洋の伝記には違和感が多くあります。

それらは要するに不完全意識の人間様が自分の思いを混ぜ込んだ創作物であることは間違いありません。

またそれら釈迦やイエスらがどれだけの真実を説いたか私には判りませんが、その釈迦やイエスらが大を成した、事を成し遂げたと思っていたりすると、死してあの世にいったときに予想だにしなかった居場所にたどり着き「何で私がこうなるのよ」としきりに悔やんだことは間違いありません。

それも要するに奇跡を成す人を「神の遣い」「神の僕」に思って奉りあげた弟子たちや信者たちの創作が多くあったのかもしれません。

それと古今東西のいたる所に大なり小なりの「生け贄」「人柱」の伝説・事実があるようですが、それらを(裏から)先導したものが奇跡を成して見せた霊能者・魔術師やの類の仕業であることも間違いありません。

だからそれらの者が動物霊・偶像となっていたる所で奉られています。
だから釈迦やイエスの類もその可能性が十分にあります。

何故そう思うかと言うと「すべてがひとつ」でもってのすべてが宇宙・神ですから、一個の個の特別な神様的存在は絶対にいません。
なのに一個の神が個人的に誰かを選んでその人を「神の遣い」にすることは絶対的にありません。
しかしそれが「皆が」神の遣いであれば何ら問題ありません。

ところがしかし、いつの世にも奇跡を成す神がかり的な人が(突然)現われるとその人を神の遣いのように思った、その信者や弟子に問題があったわけです。
またそれらに私たちが惑わされているのも事実です。

だからそれら奇跡を成す人に皆が憧れ敬い寄り集まることからして、それら奇跡を成す類のものがいつの間にやら自惚れて(ミイラ取りがミイラに成り下がり)自らが自滅していった事例が多いと思われます。

また多くの人を「集める」ことからして権力者・指導者を脅かす(不安要素)(反勢力的)存在にも思われ、そこで(出る釘は打たれるが如くに)弾圧排他されたりしたと思います。

私が住む地元でも霊能者がいて色んなことを言い当てていたようですし、自らが死ぬ日まで予知し予言してその通りになった話も聞き及んでいますが、その程度の預言者・霊能者の類は古今東西いたる所に実在していると思います。

と言うことからしてみれば、神の遣いや神に仕えるものや神がかり奇跡を成す人も霊能者も一介の人間なのです。
すなわち特別ではなくて、それらを特別に思った人の自らの意識に原因・問題があったのです。

だからそれらの人も自らが精神世界の真実を見極めて独自独歩で歩み続けることが本文であって、奇跡を成して見せたり予言や予知を人様に教え聞かせて人を集めることにおもむきを持つことではなったはずです。

と思っていますが、皆様は如何でしょうか?

皆さんは精神世界を知ったことで戸惑ったことは無いですか?

2012年10月20日 | Weblog
こんな事になったのはあんな事をしたからだと思案したりしませんか?

また何かあるごとに何らかの理由付けをしたりしませんか?


例えば私が精神世界を知ったことからして完全真理を学び知ることにもなったのですが、それが本当に良かったことなのでしょうか、
と言うように、どうしても良いか悪いかで判断したがります。

だから中には精神世界を知ったことで更にややっこしい事になった人もいるかもしれませんし、それがいやになって逃げ出した人も大勢いるかもしれません。


そこでせいぜい新年やお祭りに神社仏閣にお参りする程度が良かったかもしれませんし、お盆や命日にお墓参りするくらいで十分だったかもしれません。

また何処かの誰かさんのように、あの霊感霊力の人よりも完全真理の耕栄さんのほうが良かったといいながらもまた霊視霊力の伊勢白山道が自分に見合っているとも言っていますから、結局は何でもよかったことで、どうでもよかったことかもしれません。


私にしても街中で妻と一緒に暮らしているほうが人間らしいのかもしれませんし、その自己満足と不平不満の繰り返しを味わっているままのほうが人間としての本文だったかもしれません。

と言うように、この世に「絶対」はありません。

だから色んなことがごちゃ混ぜになっているままのこの世が本来の姿形であって完全真理が説くような完全意識になることなどは無用の長物なのかもしれません。


だから言うだけの感謝、また思うだけの感謝、その両親に感謝や先祖に感謝や、また気のどく哀れみの偽善の寄付行為や奉仕慈善活動でも十分だったのかもしれませんし、家族で不平不満と自己満足を繰り返す喜怒哀楽があってこその家族関係なのかもしれません。


だから私のこのブログに書いていることが良いとか正しいとか絶対とは言えませんから、皆さんも自分が思うままに生きていても何ら差し支えありません。

そしてそれが良いとか悪いとかさえ「思わなければ」何でもありません。

すなわち、思い巡らし頭で考える想像の世界ではなくして、現われている現実事実を見るだけの「今を生きる」になるからです。


ところが人間なら「思わず」には居られません。

だから思い巡らせずに今を生きるためにも自己縮小の実践が必要になるのです。


しかし中には神を信じて任せとけばいいとか、願いは叶うものとして祈願するものが居ても、それも自分が選んだ道のりですから、それも自由です。

そして如何なる精神世界の道を歩んでもこの世に絶対はありません。


自らの意識が原因からして成るものはなるし、ならないものは成らないだけです。

その成るのか成らないのかが判らないだけに絶対が言えないわけです。

と言うように(何を書いても)結局は完全真理に基ずく内容に戻ってくるのです。

だから私の書き始めがどうであれ、すべてはひとつにつながってくるのです。


しかしそんな完全真理なんかよりも自分に都合がいい形を信じているだけのほうが面倒くさくも無くて気楽で楽チンかもしれません。

何たって自己縮小しなくて済むのだから、それこそ「そのまま・このまま・あるがまま」じゃないの、と言い訳正当化も出来ます。


そして不自由・不平等・不調和の人間関係も必然と言えば必然になります。

何たってその表の自由・平等・調和の価値を学び知るために必要なのですから、
とこれまた完全真理の説く内容に戻ります。


だから完全真理を自分のもにすれば、如何なるときでも迷い混乱試行錯誤することにも、またそれに執着することも無く、いつもの平常心に戻ります。

だから「アリガタイ」のです。

「長いものには巻かれよ」の守り意識の言い訳正当化で暮らしています。

2012年10月19日 | Weblog
良い悪いで判断する不完全意識の人間ながらもシンプルな自己縮小を続けていれば事の始まりである原始時代に戻るかもしれませんが、先ずはそこまでに至らなくても過去の縄文時代的な小さな集合体、それが現代にも存在する原住民・先住民・部族と言われたりするような小規模的な形がいたる所に点在することになったりして、今で言う山岳民族・平原民族・海洋民族と言われるような形のこじんまりとした集合体が主流になって、必然となればそれらが交流し合う交易の場やお祭りがあったりする程度で、それ以外は自分の居場所で自分の出来ることを素朴になやりながら、時として同じ部類のものが集まって協力し合う時があるくらいなら、大したことも起きずに平穏な暮らしが成り立つと思います。

ところがそうならずに集合体が大きくなっていったのも、他からの侵略略奪を受けたり、また自らがその侵略略奪に加わるための必然からだと思いますから、その侵略略奪さえ無ければ穏やかに暮らせるわけです。

しかし太古より侵略略奪が繰り返されるたびに、その都度それらから離れた居場所を見つけてはそこで安住して暮らすことになったのが、いわゆる世間的ではない原住民・先住民・部族・民族だと言われる形と思います。

その侵略略奪によって拡大していった民族国家の生活が豊かになりその分だけ子孫繁栄が続いて人口増加にもなり、その人口増加に似合うだけの物質資源をまた侵略略奪することの繰り返しから帝国になったりまた滅びたりしたと思います。

しかもその片棒を担いだ中に神や愛を説く宗教家・霊能者やその信者がいたことや自由平等平和を説く有能なものまでが加わっていたのがそもそも大間違いですし、それが未だに続いているのですから、どうしようもないわけです。

その事実真実を知ったのに、ところがどっこい「長いものには巻かれよ」で自らの保身の守り戦う意識でもって言い訳正当化して、普段はそ知らぬ顔の平気を装って生きているのが私には気になります。

そしてその言い訳正当化に寄付行為や慈善奉仕活動や一時の援助救済で誤魔化している事実があります。

だから私としては、他がどうであれ、私は私の思い意識・心でもって歩むしかないと、その独自独歩で暮らしています。

そして不完全意識ながらも来世があるようならば、生活に不便で物不足であっても侵略略奪の無い時代に少数民族が暮らす南海の孤島(楽園)で自分なりの創意工夫の漁業をしながらその日暮らしを味わいたいと思っています。

田舎暮らしの形になるにも様々な状況が絡んでいるようです。

2012年10月18日 | Weblog
生まれながらにして田舎育ちで就職してから街中で生活するようになり、そして定年やリストラで故郷に帰ってきた人もいます。
しかし夫婦共に田舎で暮らすことにならずに奥さんが街中に残り旦那さんだけが故郷に帰りたいことからして離婚した人もいます。

また夫婦共に田舎で一緒住んでいても、旦那さんは故郷だけに活動的に生活していても、県外に越してきた奥さんは疎外感・孤独感から陰的な生活になっていたり、
また田舎同士が地元で結婚してから子供が成長するにつれ田舎が不便になり、ふもとの町近くに引っ越していたが、やがて熟年離婚になって旦那さんだけが元の実家に帰ってきて単身で暮らしている人もいます。

また田舎同士で結婚した老夫婦が便利な街中に住居を建てたものの、その生活に馴染めずに元の生活に戻った人もいます。
また独居老人が都会で暮らす長男に誘われて同居することになったが、その長男夫婦に面倒見てもらうよりも勝手気ままな独り暮らしがいいとして数日でトンボ帰りしてきた身体障害者もいます。

と言うように田舎暮らしであっても様々に異なった事例があります。
また街中育ちの私よりずっとシンプルな生活を続けている人が多いです。
そして「田舎が気楽」「単身が気楽」だからというのは同じです。

ところがしかし田舎暮らしをしたくて妻が夫と離れてその妻が田舎暮らしをしているという事例がどこからも聞こえて来ないのは何ででしょう。
またホームレスに女性が少ないのは何ででしょう。
そう言えば四国遍路にも女性が少ないようです。

それでも時々見かけるが賑やかな団体ツワーや仲良しグループが多いです。
また若い女性の単身巡礼を私が70歳になるまでに二人ほど見ましたが、自分探し神探しでもしているのでしょうか。

ところで先人が男はロマン(夢)、女は現実(物欲)に生きると言っていましたが、それは私の妻にあてはまります。
そして男はロマンに溺れるが女はしぶとく生きるとも言われます。

だからか、女が夢を追いかける場合はロマンと言うよりも願望が強くまた勇者ヒーロー主人公に強く憧れを抱くようですが、だから夢と言うよりも現実主義でしぶとく生きることが出来るのでしょうか、それは私の偏見なのでしょうか。


ところで雪山で遭難したり海難事故に遭遇したときに、同じ仲間がいると心強くもあり助かる率が高いようですが、一人だと孤独から死期が早まるようです。

また賑やかなところでいても孤独に耐えられずに人恋しくなったりしますが、その裏には失意・虚しさを持っていたりするはずです。

また大勢の人が身近にいるのに何故かしら(違和感から)人を相手にできないし、また誰からも相手にされない疎外感からして深刻な状態になるようです。

だから自殺願望の人が悩み相談で受け手と「親密に会話」したことで自殺を思い止まることが多いようです。

ところが身近に誰一人いなくても孤独にならないのは心の中に満たされているものが少しでもあるからです。

またそれが精神世界となると、その孤独と自由からして、(心に届く)新たな気付きが多いのは事実です。

しかも過去に多くの裏と表を味わっていれば気付けることも多いのです。

それが自信・自力にもつながりますから、その人頼り人恋しさに執着することにはなりません。


しかも(私は)その人頼り人恋しさが自分の行く手・自由を邪魔することになることを十分に知っていますから、思惑をもってまで求めることにはなりません。

だから(人間関係では)必然のご縁に限られているわけです。

そして出来れば感謝し合う人間関係、お陰さまとお互いさまの意識で暮らす、すなわち人が寄り集まるが否定反発の無い人間関係になれば、その個人の自由と平等意識からして、調和・平穏・和らぎのある生活になればいいのですが、

しかしその自由と平等の平和な生活を皆して共に味わうには(この世では)絶対的な無理がありますから、

そこで自由と孤独の独自独歩の実践意識でもって歩み続け、

できれば一人ひとりが(各々が)一抜け二抜け三抜けとばかりにこの世の不完全意識から抜け出す実践をし続けるしかないと、私は思っています。

もしそれ以外に二人揃ってとか、家族揃ってとか、仲良しが揃ってとかの術があるようでしたら、それを書き込んで(皆さんに)教えてください。


大切な自らの自由を、自らが自縛している、その真実事実を知ることが重要です。

2012年10月16日 | Weblog
自由が無ければ平等も調和の平和も絶対に無理です。

だから精神世界の中に先ずは自由が無ければなりません。

そこで自由の大切さ、自由に成るその重要性を書いていますが、その自由を手にすることもなかなか大変ですが、その自由の「形」を持つことよりもまず先に自由の「心」が無ければその自由の形の多くが無駄になります。

すなわち心の自由が無ければ形の自由を持ってもそれが孤独感になったり、またワンマン・身勝手・わがままし放題の無責任になって人間関係から孤立することにもなり、それが失意や虚しさや孤独感にもなります。

しかし心の自由であれば人間関係に束縛制限支配されないその自由と孤独の独自独歩の自力と自信のままに生きることになります。

しかしその心の自由を阻害しているのが自らの意識にありますから、自らの自由を自らが自縛していることになります。

それが不信感や否定反発の私が正しいであり、それがまた不信感や否定反発を強め、それが更に私は正しいの守り意識が強めますから、自分に不都合なことから自分を守りたがる、その守り戦う意識に何で自由があるでしょうか。

またその守り意識からして見栄や世間体を気にすることにもなり、また常識や伝統風習や道徳を守る事になれば、そのプライドや守り意識に心の自由は絶対にありません。

だから自らを自縛している意識がある限り真の自由はありません。
だから簡単そうで難しいのが自由を手にすることです。

それを言い換えると自由があればすべてが解決していくのです。
そして平等にもなりそれが調和になり平和になるのです。

そこに何か問題があるのなら、そこに(自他共に)自由が無いからです。
また自由が無いから問題が出てくるその繰り返しがずーと続くのです。


また精神世界を説く者や宗教の教えに自由が最も重要と説かれていなければ、そこに集まる者たちを裏で牛耳っていたい思いがあることにもなります。

だからあれは良いがこれは悪いといろいろと教えることで何かと束縛制限支配しておきたいのです。
だからアメを与えて満足させてムチで不安恐怖を植え込み(洗脳して)そこから逃げられないように仕向けるのです。

そして尚更に敵対心を植え付けて戦うことも良しとして、いつしか正義・聖戦やテロ活動・自爆テロを褒め称えることにもなるのです。


また欲張り無理しているところに自由はありません。

また私が正しいと自己主張・堅持誇示していれば自他共に自由が阻害されます。

しかし自由を味わったら欲張り無理することが無くなっていきます。

だから此れまでの問題続出の繰り返しが終わるのです。


だから精神世界を詳しく知らなくても、それを宗教等に頼らなくても、自らが自由を味わえば自ずと精神世界の真実が見えてくるのです。

そしてよからぬ者(不完全意識)やその形に惑わされることも無くまた思い悩むことにもならずに安心安全の心持が続くのです。

そして自らが自由に近づくことで完全真理にも近づいていくのです。

そして何よりも良い悪いで判断していることで自らの自由を失っていることに気付くのです。


だから私が過去のしがらみから離れてその人間関係から自由になった私が(必然からして)(捜し求めたわけでもないのに)完全真理と結びつき、またそれが自信にもなったわけです。

だからこのブログを書き続けることにもなっているのです。

だから自分のことばかり書くことになりましたので、ブログの題目を「山田耕栄さんの完全真理と私の生き方」に改めたのです。

だから皆さんに自由の大切さ、自由に成るその重要性を書くことにもなっているのですが、その自由を意識していないところに精神世界の多くを知っても(ぬかに釘で)手応えは少ないはずです。

まして確かな実践が出来るはずもありません。

だから頭の記憶の中で納得確信することが出来ても心意識の中で悟ることには成り難いはずです。

しかしそれでも何らかの有事の際にふと記憶が蘇りそれが何とか役立てば無駄ではなかった事になります。


とにかく<自由>が無くして「何ぞや!」ですから、その自由を意識することから始まるのが肝心なのです。

それがやがて皆が平等・調和の穏やかな心の人間関係になっていくのです。

それが皆でなくても、先ずは自分が自由に成ることです。

精神世界も一般生活も自然界同様にシンプルなほうがいい

2012年10月15日 | Weblog
此れまで精神世界・霊魂の世界・宗教真理・超能力や奇跡を成す神がかりな人と必然のご縁がありましたが、

それらが説き語り書く諸々を集約してそれをシンプルに書くと、

「すべてはひとつ&すべてに感謝」になり、皆が同じで特別がいっさい無いことであり、それが生かされている事に感謝&生きている事に感謝であり、それを伊勢白山道の言葉を借りれば「生かしていただいてありがとうございます」となりますから、それを一言にすれば<すべて感謝>になります。 

そのすべてはひとつですべてに感謝となれば良い悪いの判断はありませんから完全真理と合致します。

と言うことは過去も現在も宗教家を含めた誰もが似通ったことを語っていた事になりますが、それを我が宗教・我が神・我が物として自分の都合がいいように偶像化し創作し彩り装飾していたことにもなります。

しかしそれを説き語る者や書く者は不完全意識ですから、自分に都合がいいことは実践できても都合の悪いことは排他的ですから真の感謝はありません。

そして自由や平等や平和を説いている裏で人を操り、特別に成りたがり、人集めに熱心になり、勢力拡大を目論むことにもなっています。

そこで超人的な神がかり超能力や霊力やで奇跡を成して見せることができる人に注目が集まりその信者が集まる事になります。

またその信者が集まるほどに新たな信者が集まりやすくなりその組織が拡大していきました。

また誰もが言っていて誰もが知っている「感謝」の言葉だけを説き語りそれを繰り返すだけでは単調で集まる者が飽きてきますから、過去の釈迦やイエスの類のことを自分の思いで語ったり、中にはUFOや宇宙人やの異次元のことや見えない力エネルギーやまた予言や予知能力を語る人も出てきます。

それだけではやはり物足りませんから過去から現在に至るまでの先人が残したあらゆる精神世界の言葉に自分の思いを重ねて語ったり、見えない世界のことを如何にも確かに見えているように語って集まる人を引き付け留めたり、また宣伝布教して集まる人を増やす事に熱心な人もいます。

またそれだけでも不足気味だと摩訶不思議のエネルギーグッズを出してその効果効用を見せ示して売り付けることと併せてその信者やリピート客を集めることを考える人も出てきます。

しかし真実の精神世界は自然界同様にシンプルだと思っています。

だから「すべてに感謝」があれば、それだけでも十分だと思っています。

それに付け加えるならば、万物を含めて皆が「お陰さまとお互いさま」の関係にあること、だから善も悪も優劣損得も無いことになります。

しかしその実践が無理だったのです。

もし過去から少なからず実践意識でいればこの世も相当に違っていたはずです。

そして「すべてに感謝」が誰もの心の中に浸透していますから、その実践がまだまだ未熟であっても、現在のような複雑怪奇な語りや神ががりごとの必然性がなくなり既に消えているかもしれません。

そして欲張ることも無理することも執着することにもならずに素朴・単純・シンプルな生活になり、不完全意識で実践が未熟ながらも自然体で生きる実践にもなっていくはずです。

だから此れまでに釈迦やイエスの類や超能力者や優れた能力を持った人が大勢現われてきているのですから、それら有能な人が多くを語らずとも自らがすべてに感謝の心でもってお手本を見せ示し続けていたならば(その人が有能なだけに)素直にそれに続く者が大勢出てきたはずです。

そうなるとそのお手本となる者がいたる所に実在していますから、またそれに続く者が増え続けていきますから、その集合意識でもって更に増え続けます。

ところがどっこい、それらの人が特別な人として奉られていると言うことは、その特別なことを大勢の人に見せ示していたことになるわけです。

だから特別ではない私たちが、特別な人に惑わされること無く(巻き込まれること無く)、その感謝の心構えで(お陰さまとお互いさまの意識で)日々を暮らしていく実践をしていくしかありません。

また私たちが何か特別なものをもっていようが大したことではありません。

死んであの世へ行けば用無しのものばかりですからそれを捨てても何ら惜しげがることでもありません。

しかもそれらを捨てれば捨てるほどに身軽に動けて楽チンになるのです。

そして二度と特別を欲しがることにもなりません。

そうなると過去の釈迦やイエスの類や神がかりの者を羨むことも尊び奉ることもまた奇跡を信じ頼り願うことにもなりません。

そして皆が当たり前の普通のことをしているだけで十分になりますから同じ人が集まっても比較競争差別することにもなりません。

だから良い悪いで判断する意識を持っていても出てくることにもならず、また出てきてもそれに執着しませんから、何事も無かったかのように平常心の安らかな心持で過ごせることでしょう。

と言っても現実になるはずもありませんから「儚い夢」でしかありませんが

精神世界で肝心なのは誰が何を説いていても、それが真実か否かにあります。

2012年10月14日 | Weblog
不完全なこの世に同じ不完全な医科学や宗教があるのも必然からして実在していますから、それを必然とする者がそれらに頼る事になるだけです。

だからそれが釈迦やイエスの類であってもサイババや耕栄さんや伊勢白山道であっても、それらを必然とする者が寄り集まっていく事になるだけです。

そして肝心なのは学び知ったことを実践できるのか、それとも言うだけ思うだけで終わるのか、その選択結果が自らに現われてきますから、その時々で信仰心が高まったり弱まったり、また離脱したり、また別な形に入り込んでいく事になったりしています。

だから尚の事に肝心になるのは、誰が何を説いているにしろ、それが事実か否かにあります。

もし不確かな事実ではないことを事実と信じることになれば、それは思い込み盲信であり洗脳(自己洗脳や他者洗脳)にあたります。

なのにその信じることから入っていく人が多いのも事実です。

そして変な事に巻き込まれるのです。

ところが完全真理は事実を説いていますから、それが事実だと学び知ればその完全真理を信じることにはなりません。

だからこのブログでは「見えない世界」のことであっても、それが事実であれば事実として詳細に示して書いているつもりです。

しかし(何度も書くが)耕栄さん自身の思いが込められた語りの中に不完全が含まれているのも事実ですから、それを見極めるだけの自力と自信が無ければ結局は耕栄さんの思いを信じる信者意識になるので(私は)注意しています。

しかし完全真理を知る限りにおいてはその見極めが確かな事となって見えてきますから、その耕栄さんの思いに巻き込まれることにはなりません。

そこで時々登場する伊勢白山道のことになりますが、どうも信じるか否かが多く、また良い悪いで判断している事実からして、その不完全さもすぐに見極めることが出来たのです。

また「生かされていただいてありがとう御座います」を説く本人が確かな真実の実践が出来ていないことも見極められるのです。

その中で特筆するとしたら、月は邪な意識体で太陽が神の如くに書いて、その善と悪の見極めが出来るが如くに自分を持ち上げている事にあきれてしまいました。

その月は月の役割を果たしている事実だけであり、太陽は太陽の役割を果たしているその事実だけであって、それを善と悪に分け隔ててそれが確かな如くに主張している、その不完全な意識に惑わされる人(信者)が増えないか心配にもなりました。

しかし前頭に書いたように釈迦やイエスやサイババ・耕栄さんや同様に伊勢白山道の教えを必然とする人には大いに役立っているわけです。

ただ私としたら、それらの人たちが説いていることが事実か否か(完全か否か)を見極めるのは絶対的に必要だと書いているのです。
だからこのブログの信者さんはいないはずです。

その釈迦やイエスや諸々のものが真実を知ってその真実を語ると共に自らがその真実を実践していたか否かとなると、どうやら言うだけ思うだけであってその実践が成されていなかったと、確信さえ持ち始めたこの頃です。

そこで誰が何を学び知ってもその実践が無理ならば、精神世界のことをあれこれ知ることよりもシンプルにして、この世でもあの世でも通用する「感謝」の実践意識でもって、人それぞれの個性に適した実践でやり続けることしかないようにも思えているのです。

しかし雑多多様で忙しくしていると自分の個性・本文を出すどころか皆の集合意識に惑わされて見失う事になるのは明らかです。

だからやはり自己縮小は必然になります。

見栄やのプライドや不信感からの守り意識から離れた、その自由に解き放たれた意識からして自分の(隠れていた)個性が出てきます。

それぞれの役割からして生まれ持った個性を変えることは無理ですから、長所は長所で短所は短小でそのままにしておいて(無理に変えようとはしないで)(前もってあれこれ思わないで)そのままの素顔・素質・スッピンを遠慮気兼ねしないで出せばいいのです。

何たって着飾った比較競争差別意識の中から何で素直な感謝が出てくるはずもありません。

だから生きていく事に過ぎたものや形を捨てて身軽になる必要もあるのです。

そして必然ご縁からして似通った意識の人と接し触れ合い感謝し合う事になればそれがアリガタイことにもなっていくのです。

しかしそれも概ね無理だと思っています。

となると(素直純真な感謝のアリガタイが無理ならば)言うだけ思うだけの形の感謝になりますが、それでもその感謝は相手に通じますから、あの世の先祖にも形を示して感謝すればそれが通じるとして、そのご先祖霊が光であなたの霊魂を導いてくれると説いているのが伊勢白山道なるものですが、それが不確かなことなのに確かだと言われれば、それを信じるか否かになります。

とにかく精神世界でいろいろと言われている中の何れを選択するも、何れを信じるも、それはあなたが決める事になりますし、実践するか否かも自らが決めることですから、できればシンプルなほうが、どうせ実践できずに無駄になることを余計に多く学ばなくても済むし、そのほうが簡単で判りやすく選択しやすいことからしてありがたいことになります。

ピラミッド社会の走り使い・捨て駒・切捨て御免の中で一目散に粋がっていた私です。

2012年10月13日 | Weblog
精神世界を知れば知るほどにこの世はどうしようもないと思えるまでになりました。

と言うのも過去の釈迦やイエスの類が現われても、またその宗教組織を立ち上げる者がいて大勢の人を集めるも、また所々に霊能者や奇跡を成す人が現われても、また時代ごとに英雄・ヒーローが現われても、その過去も現在も基本的な人間意識になんら変わりは無く、変わったのは時代ごとの形の変化進化だけでした。

そしていつの世も支配する者がいて、それらの領土領域や宗教や国家国民のためと要してその農民・平民・国民を先導誘導洗脳して、その勢力争い・領土争い・戦争に駆り立ててきたのも事実ですし、それを嫌がるものがいると反体制の者と決め付けて弾圧し皆に見せしめにすることで他の者を否応なしに引きずり込んできたのも事実にあります。

そしてその中には、我が領土・我が領主様・我が神・我が宗教・国家国民のために率先して犠牲となった者を褒め称えることで思うがままに人心を操ってきたのも事実ですし、また否応なしに従った者が敵側に殺され続けているとその仕返し復讐心に燃えて自らが志願参戦することにもなって、それが上に立つものや支配者に都合が良かったという事実もあります。


だからいつの世も多くの犠牲を払ったのが支配される者の下にいた普通の人たちで、それを雲の上から指図していた人は勝てば官軍で更に支配力が増しましたが、負けたものは賊軍として処罰されることにもなりました。

それらは今も変わらずに、雲の上の極一部の人がこの世の春を我がもの顔に堪能しているが、その他大勢の人は似たり寄ったりの自己満足を味わいながら(飴とムチの使い分けの)リーダーや支配者に従っているのも事実にあります。


まさに現代映画やドラマ小説でその諸々の物語がそれぞれの立場(裏と表)で詳細に描かれている通りのことが今までの史実にあったのも事実になります。

なのにそのピラミッド社会・比較競争差別社会の、まさに映画ドラマで描かれているような裏側や表側のように、そのリーダー支配者の差し出す飴と引き換えのムチの両方を味わい続けるのですか?

また大した能力も無いのに上を目指すのですか?

またそれが無理で無駄で余計なことになるのに、

それでも未だ続けていくつもりですか、となるわけです。


私が過去に自己拡大していただけにわかったのですが、その自己拡大している当時はその自己満足からして気付かなかったのですが、

仕組まれ続けていつの間にやら自己縮小の形になってことから、

その自己拡大の苦楽の自己満足と不平不満だけで終わっていて、

それを振り返ればピラミッド社会の使い走り・捨て駒・切捨て御免の中で、

そうとは知らずに一目散で粋がっていただけだったのです。


だから完全真理のブログでありながらも私事の中の思いやその事実を書き続けるブログになっているのです。

自力・自信不足から(有事で)我を見失い、黙り込む(自閉)(自己不信・他者不信)ことに

2012年10月12日 | Weblog
自転車に乗りたくても自転車に乗れなければ人様の自転車に乗せてもらう事になりますから、思うままにいかなかったり、急ぐ間にあわなかったり、また人様に迷惑になるので恩返しも考えければなりません。

ところが自力で自転車が乗れれば何度でも都合よく乗れますし、一度覚えたら忘れることもありませんし、また乗れば乗るほどに上手になりますし、誰かを乗せて役立つこともあります。

また泳げなければ水がある所が危険箇所にもなりますし、万が一溺れる事になれば自分の命は勿論のこと人様の命まで危険に巻き込みます。

しかし泳げれば泳ぐほどに要領を覚えて上手にもなりますから海難事故にあっても助かる率が高くなるし余裕があれば人様も救出できるかもしれません。


ところで学問知識も自力・記憶ですが、それを常に使わなければ忘れる事になり、その自信が無ければまた学び直しが必要になります。
また世間一般的な学問知識は誰もが概ねマスターしていますから、他の人に役立つことになることは殆どありません。

また使い道が一般的ではない学問知識が役立つことも少ないです。

また学問知識は形が無いだけにそのまま他人に譲り渡すことに無理があります。

だから先生になって生徒に一から教えることになりますがそれも相当な努力と時間が必要になりますし、教えたことがすべて後々まで役立つとは限りません。


また高度な技術能力を持っていてもそれが使われるのも限られますし、その技術能力を使わないでいると落ちてきますから、常に集中して馴染んで維持していなければミスが起きて大事になる可能性もあります。

まさに油断大敵になりますが、しかし馴れるほどに集中力や注意力が鈍ることにもなりますので、更に油断大敵の心構えでい続けなければなりませんから精神的にも負担になります。

しかも何か一つの技術能力に長けていてもそれは自分だけのものですから精一杯頑張ってもその結果しか現われません。

また幾つもの技能能力を持っていてもそれも自分の中にあるだけのことですから、その技能能力すべてを使い切ることは出来ませんので、多くをもっていても一方では無駄にしていることにもなります。

またそれら優れた能力の者を使っていれば、その優れた能力の者を補充している限りにおいては安泰ですが、その優れた者が補充できなくなれば衰退していきます。

しかも他力のお陰が多いことからして維持できていますから、その形が自分のものであっても正味は自分のものではないと言う欠点・矛盾があります。

だったら最初から己の自力に限ったことをやっていたほうが賢明であり無難に過ごすことができます。


その高度な技術能力や感性や注意力や人様に対する気遣いなどが必要なビデオ撮影制作をミス無く手がけていた過去が私にありますが、そのカメラマンを補充することやその対応にも気苦労がありましたし、しかもそのビデオ事業を息子に継がせることにも多くの無理が見えていましたから、
そこで気付き反省したのが初期の頃のように私一人で好きなビデオをやるか、それとも下請けカメラマンとして雇われていたほうが無理が無かったと思ったものです。

そして今は単調な牛舎のパートに出かけていますが、ビデオと違ってワンパターンのシンプルで諸経費要らずで、
しかもオーナーに喜ばれての感謝の給付金を受け取っている現在のほうが居心地がいいことからしていえるのですが、
やはり仕事もシンプルで人力・自力が多く必要な作業(第一次地場産業)に係わるほうが呑気でストレスになりませんし不平不満にもなりにくいのです。


だから人を使ってカッコよく仕事をすることよりも、(見栄えカッコ悪くても)人様に雇われて便利なように使われるほうが案外気楽ですし、それが単純なほど呑気にやれるのです。

しかもそのシンプルな中での余裕の気付きやその創意工夫が功を成すことにもなって私の存在感も上がっています。

だから過去よりも現在のほうが私には居心地がよいのは事実です。


ところで他力に頼る人の中で自分に出来ることなのに身勝手な都合で身近な人に押し付ける人がいます。

特に夫婦で多くあるようです。

また我が子が自力で成さなければならないことを親が変わりにやってその代わりに勉強を押し付ける親もいますから当然ながら頭でっかちの子供になります。


ところであまりにも他力を使うことからしてその他力が自分のものに思える錯覚した人が多いだけに、まさかの有事(思わぬ事で)でうろたえて(どうしていいやらわからなくなり)、成す術も無いが如くに(我を見失い)、黙り込んで(自閉)閉じこもる事(自己不信・他者不信)になるかもしれません。


自力を多く使えば使うほどに自信が出てきますが、
他力依存からでは自信が増すどころか反対に自信不足になるのです。

そしてその自信不足が原因からして更に他力依存が進み、その他力が使えなくなる状況の有事に陥ったときは(他から見て大した事でなくても)まさに生きる術を見失った廃人のようになり、そのどん底から抜け出せないままに人間を終える事になるかもしれません。

何で自分の思いを(自伝が如くに)多く書くのでしょう。

2012年10月11日 | Weblog
私が不完全意識丸出しで生きているのは確かです。

だから私を中心にして物事を思い考えているのも確かです。

だからこのブログの中身の大部分は私個人の思いが入り混じっています。

私は概ね成り行き任せに生きてきましたから、その成り行き任せのことを書いていますし、また自分勝手な自由を味わっていることからしてその自由のありがたさを書いています。

私にも不平不満は出てきますが、あまり執着しませんから不安心配や怒りになりませんし、その不平不満もすぐに消えます。

私に欲が無いから、欲のある人は来難いようです。

私に肩書きが無いから、肩書きのある人は寄り付きません。

私の格好が粗末なだけに、見栄えの良い格好をした人は来ません。

私が私自身を大切に思うから、人様を大切に思うことも出来ます。

私が感謝されて嬉しかったから、人様に感謝することが出来ます。

私は自由が好きだから、皆の自由を尊重しています。

私が貧乏であっても気にしませんから、人様の貧乏が気になりません。

私が病気になっても死んでもお構い無しで平気ですから、人様の病気の事も死後のこともお構い無しに済ませています。

私が嫌いなことを人様に頼むことはしませんし、その嫌いなことを私が無理してやることもありませんから、成り行きに任せてほっといています。

私が必然からして整理整頓することもありますが、それを誰かに変わってもらうことはありません。
必然と思った者が自ら進んでやるべきことだからです。

私がビデオ制作の長であったときでも、その下手間・前準備から本番・後始末まで一貫して自分でやっていました。

私が先入観や不信感からして否定反発されるのが嫌なだけに、私も先入観や不信感から否定反発することはありません。

私が人様の事に巻き込まれるのを好まないだけに、必然ご縁がなければ人様のことを気にせずにほっといています。

私は来るものを拒まず去るものは追わずだけに、誰が来られても必然ご縁の人と意識して接しております。

私に出来なかったのにそれを人様に押し付け望むことはありません。

私の欲を人様に押し付けたりしません。

私が両親や先祖のことに意識を使わなかっただけに、私が同じ仕打ちを受けても当然の事として何の文句もありません。

私が野垂れ死にしようが白骨死体で発見されようがそれを自らが惨めに思うことはありませんし、それを望むところもあります。

私に対して感情的になられるよりも、無関心でほっとかれるほうが私には似合っています。

私は劣等感からして人前に出たり集まる所に無縁でしたが、必然ご縁からして私が係わる事になると、何故か私の本分が発揮できたのは何とも不思議です。

一般的には「人様のことは見えても自分のことは見えていない」と言われますが、私は人様のことは見えないが自分のことは見えています。

それが完全真理のお陰でもあります。

だから自分のことが主体になっています。