孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不完全意識の人間関係には完全真理が薄情にも思えます。

2012年10月24日 | Weblog
不完全意識の人間関係には完全真理が薄情にも思えます。

何たって不完全意識が原因のその不完全な結果しか出てきませんから、無理しても余計なことで無駄になるのですから、そのままに(あるがままに)ほっとくことになります。

ところで家族揃って皆が心行くまで楽しめたことが一度でもありますか、
私の場合は、本来なら楽しいはずなのに少しでも気に入らないことがあればその愚痴小言を聞かされてきました。

しかも家族揃って大掛かりな娯楽施設に出かけてたりまた気軽に温泉めぐりや食事処で味わっていてもそれが何度も続いているといつしかそれが定例の当たり前のようになり(その金銭出費や自由が犠牲になっているのに)何かしらその感謝があまりにも薄いし気に入らなければ即座に愚痴小言を聞かされることからして、しぜんと(成るようになって)行動を共にすることが減ってきました。

それだけに精神世界で言うところの「感謝の心」の大切さに気付き悟りました。


そんな趣味嗜好娯楽ではない摩訶不思議の世界・精神世界・霊魂の世界・完全真理となれば、尚更に家族で行動を共にすることになりませんから、妻や子供らもめいめいが自分の思うがままに別なことをしています。

だからそれが自由でもあるのです。

しかも同じ完全真理の仲間で先輩となる娘であっても、その完全真理の理解解釈や実践やの思いに食い違うところがあるのですから、互いが語り合うも何ともし難いところがあるわけです。


だからして、その完全真理はすべて万人のものですが、それを実践するのは己だけの独自独歩になります。

だから皆が完全真理を志していても、また身近な家族兄弟親戚と一緒に志していても、皆が同じ事をするのは個性役割が違うだけに絶対に無理があるのです。

だからそれぞれに任せてほっとくしかありません。

だから思い意識することがあっても、その人それぞれの成り行きに任せて「ほっとける」平常心が愛だと教えてくれたのが過去にご縁があった霊能者です。

そのほっとかないで何かと介入介在したがるのが愛情であってもそれが愛ではないからです。

だから身近な人たちを意識することがあっても、また気になることがあっても、必然ご縁が無い限り、求められない限り、私から先に出て行くことにはなりません。

だから私は愛情の薄い薄情者なのです。


と言うことからして、生まれた時からして別々であり、育ち成長する過程もまったく違うし、死する時も別々でありますから、あの世とやらへ逝っても別々だと思いますから、この世で一緒に暮らしていても、たとえあの世で一緒になることがあっても、それぞれの魂・霊魂は孤独でありまた自由なのです。

ところがその孤独からして人が集まりたがり、その接し触れ合う愛情にすがる思いが出てくるようです。

だから信仰宗教や神仏や神がかり奇跡に頼りすがり付くのも、不完全ながらもその愛が欲しいのです。

すなわち自らに愛(自力・自信)(自心・自神)が無いからして孤独感にもなり、そして人が集まる所(それぞれの欲が渦巻くところ)へ出向くことにもなっていると私は思っています。


何の欲もなしに(何の思惑期待もなしに)人様のところへ出向く人はいません。

だから心ある人は用もない人様のところへわざわざ出向くはずもありません。

すなわち出向いて行けば、その分だけ相手の人に時間的犠牲を強いたり差し障りがあったりするし、また気遣いさせる迷惑にもなります。


ところで皆さんは自らの自由(役割個性)を犠牲にしてその犠牲愛をすべての人に分かち合い与え続けることができると思いますか?

だから過去の釈迦やイエスらが自らを犠牲にしてその愛の実践をしたと思いますか?

私は独りの個の力だけでは絶対に無理があると思っています。

それでなければ遠い昔に愛の地球人類になっていたはずです。

だから皆して成すしかないと思っています。

だから大勢の人を集めるためにも神がかり奇跡を行使したとも思います。

ところがしかし、集まる人たちが不完全意識だけにその愛を学ぶ課程にも様々な過ちがあっておかしな事になったと同時に、それを主導する自らも(孤独感からして)その不完全な愛を求め欲しがることになったと思います。

だからミイラ取りがミイラになった例えになるわけです。

だから自らが愛を無心に出していたのではなくて(自惚れ錯覚していただけで)自らが人を集めてまでもその愛に似た偽りの形(ヒーロー主人公として注目され敬い憧れられる形)を欲しがり求めていたとも思われます。

だから主導者となる者の己独りのその孤独を癒すために身近に人を集めていたとも言えますし、そしてそこに集まる者たちが(信じあって)互いの傷を癒しあう・なめ合うような、そんなおかしげな連帯感・信頼感や引っ付けあう手綱・絆が出来たことからして、その裏が出てそれが裏切り関係となったと思います。

しかしながらそれに気付いていないことからして、身近な人たちとの絆・信頼、すなわち他力同士のもたれ合いやその分かち合いの個人的な思いの愛情に互いがすがり付く形が未だに当たり前になっています。


ところで私の過去を思い起こせば、私の両親からは愛情でもって育てられていませんから(放任主義の)自由がありました。

また両親から頼られてもいませんでしたからそこでも自由でした。

すなわち「ほっとかれる」ことからしてそれが図らずも私には愛になったのです。

それだけに自力で成すことのその自信が身に付いたのです。

だから私も自由を尊重していますから、人のことを何かと意識することがあっても結果的にはほっとく事になっています。

だから自らの人生も成り行き任せなところが多くありますし、それだけに他も成り行きに任せていましたから概ね気楽で楽チンでしたが、それでも家族一緒にいると先程に書いたように何故か気になることが多くなるだけに、その気疲れを積み重ねている事を指摘してくれてそれに気付いたのも過去の霊能者のおかげです。

そんな(成り行き任せの)私だけに人様に愛情を出せないのに、何でその愛情を人様に求めることが出来るでしょうか。

また私は個人的に束縛制限される愛情よりも「ほっとかれる」ほうが都合がいいことからして、私も同様に人様のことを束縛制限しないでほっとくことになっているのです。

そして私が他力に依存する事になればそれは商取引の金銭的犠牲を払います。

だからその金銭が不足していればその他力を諦めればいいのです。

しかしその他力を諦めることができなければ執着欲張りになり金銭的な無理が伴いますから、その分だけ余計に苦労することにもなり、それがまた無駄な結果にもなることを実感でもって認識していますから、やはり私にはそんな愚かなことをすることよりも更なる自己縮小の実践を意識することになるわけです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。