孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「選ばれし者」の自己縮小の実践は、拘り執着や特別の無い、素朴な自然体に生きることにあります。

2011年12月10日 | Weblog
この世で初めての最後となる完全真理を学び知ったからにはその<実践>しかありません。
それには先ず誰もが簡単に実践できる自己縮小が言われていますが、その簡単な実践がそう簡単にはいかない守り意識とその人間関係があります。

ところがその人間関係が不完全なだけに誰にも気兼ね遠慮せずにやれるはずですし、まして自分に都合が良いことであれば他を押し退けてもやりたがる個人意識を持っているのに、ところが何故か躊躇い気兼ねしているところが見かけられますが、その原因が自分の守り意識にあるのに、それを隠しておいて、自己縮小そのものに難点・原因があるように思うことで自分を正当化しているご都合主義が見受けられます。

またその自己縮小には何ら特別がありませんから、その自己縮小の実践をしていても同じでして、あの世の神仏から褒め称えられることもありませんし、この世の聖人君子や学者先生や先輩諸氏に認められて世間でヒーロー扱いされることにもなりませんから、その自己縮小を実践している人が世間で脚光を浴びて注目されることにもなりませんから、それだけに実践するその価値(やりがい)を見出せないかもしれません。

それが宗教的な出家・冥想・修行・艱難辛苦の荒行であればそれが特別なだけに注目されて「やりがい」があります。
また人の為にと慈善・奉仕・布教活動や寄付集めやカウンセラーであれば世間に目立ちますから、その「やりがい」があります。
しかし特別のない自己縮小にはそんな「やりがい」はまったくありません。
それは自己意識の意識改革であって、他の人様を意識した世の為人の為の<見せ掛け>ではないからです。

しかもその自己縮小(執着のない普通・素朴な生き方)が進むほどに世間的なことに対する意識よりも、先ずは自らの意識の中に起こる完全真理の「気付き」が主になりますから、尚更に国家社会や人間関係や趣味嗜好娯楽といった世間一般的なことに対する意識がどんどん薄れていきます。

そんな世間的な事や趣味嗜好娯楽に意識を使わなくなると、自らの意識が開放されて、その意識・心の「余裕」から感性・感受性・霊力・霊感が養われるのか、次第に(何気なく)ふと気付くことが量的に多くも深くもなるようでして、その分だけ心に届くことの質量が違ってきました。
それがいま時期なら毎年繰り広げられる紅葉ですが、その紅葉も過去と今とでは何やら心に届く質量が違っているような感じです。
だから何度も見ているはずなのに、紅葉した葉っぱがひらひら舞い落ちる様を見たことが始めてのような新感覚にもなるのです。

だから自己縮小の「やりがい」が無くても、自らの感性・霊力が豊かになった事実に気付いたことで十分になるわけです。
それがまた何ら過不足のない普通・素朴さに更に馴染み親しむことになり、それがまた味わい深まるわけです。
・・・だから以前とは変わらないようでも次第に味わう内容が濃くなるような感じです。

とは言っても自分勝手な思いの個人意識は十分に持っていますから、一般世間の中で生活していると何かと執着することになりやすが、自然界に囲まれた静寂・簡素・素朴の中でいると常に平常心でいられるだけのことです。
・・・だから余計な事を意識しないですむので(惑わされ巻き込まれ邪魔されずにすむので)、自己縮小が必要なわけでもあるのです。
そんな私から言わせれば・・・どうやら巷の刺激変化に意識を使っていると(人間に意識が一つしかないことからして)それがいつの間にやら拘り執着に変わることからして、その自己意識がこき使われ続ける結果ともなり、それが原因で精神力・意識力・感性・霊力が衰えたりして(集中力・注意力欠如も含めての)<気付き>が起き難くなるという、そんな仕組みが人間意識の中にあります。

だから(特別が一切ない)宇宙・神・愛意識に近づくためにも、(特別のあふれた)俗世間の事に執着しないためにも、(自己縮小を極める為にも)自然界の中で素朴に生きることにしか、「自己縮小」「意識改革」の道はないとさえ私は思っています。
それだからこそ(自己縮小のために)洞窟やお堂に閉じこもって冥想・修行したり、仏門・出家しないでもすむとも言えるのです。

だからこそ、特別は要らないと思いながらもその特別からなかなか離れられないままに「見せ掛け」や言い訳程度の自己縮小で止まる事無く、今からでも完全な宇宙・神・愛の意識の世界の「進化」のための道筋を補っていく本筋・本物の自然体の自己縮小をするしかありません。

それが自然界に囲まれた場所でなければ、そこで拘り執着にならないためにも、世間の中の「特別」を求めない、憧れない、思わないことが先ず重要になります。
そしてそれら特別が一切無くても平常心・普通に生きていけるだけの(特別に惑わされないだけの)「自力と自信」を付けることも必要になりますが、それも実際の実践で培われるものですから、やるしかないのです。

そしてこの世の人間界の不完全を味わい知り尽くす「役割」と、そして「あるがまま」に実在する完全な宇宙・神の真実を本心から悟る「使命」の、その「役割使命」を果たす実践(自己縮小)しかありません。

だから自己縮小の中に見せ掛けの「やりがい」もその自己満足も無いのが当たり前なのです。
それでも、此れまで苦楽が伴う特別を求めていたときには気付かなかった自己縮小・自然体・素朴の真価を味わえることになりますから、それで十分になれるのは事実です。
そして「食って寝て糞をする」自然体・生活の中で起こるその必然とご縁のお仕組みを深く味わいながらも、それらと関わる中にある「お蔭様」と「お互い様」の<調和>(自由・平等)意識を学び知ることが人間にとってもっとも重要なことにも気付きます。

そこでせめてもその「意識の調和」(至福)を生存中に一度でも真に味わうことができれば、そこで人間としての役割とその使命を果たすには十分なことになるのですが、それも不完全意識を持っているだけにどうやら無理な様相です。
だからあとは宇宙・神・愛のお仕組みに任すしかありません。