孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世の人間関係でもっとも厄介なのが「不平不満」です。

2011年02月08日 | Weblog
この世の人間関係でもっとも厄介なのが「不平不満」です。
その原因の中に「私が正しい」が必ずあります。
だから相手の都合を考えずに自分の都合ばかり言いたがります。

そうなると叱責される方にも「私が正しい」がありますから、自分方の都合を主張して何とか解決を図ろうとしますが、それに納得していないからその不平不満を言っているのですから円満解決などありません、だからどちらか一方が引き下がるか折れ合う解決しかありません。 しかもそれが金銭がらみや欲得がらみになれば更に厄介なことになり長期化することにもなります。

その不平不満の多くが「嫌う」ことから出ています。
だからその反対の「好き」が原因で不平不満が出ることは先ずありません。
だから「嫌いなこと」が多い人ほど不平不満が多く、「好きなこと」が多い人にはその分だけ不平不満が少ないはずです。

すなわち不平不満がその人の人格を表しています。
また不平不満が多い人ほど人付合い・人間関係が難しくなります。
そして自分に出来ることが少ない人ほど「嫌いなこと」が多くあり、その分だけ不平不満も多く持つことにもなっているのです

その嫌いなことに多いのが臭い・汚い・きついであり、怖い・危ない・暗い、高所・閉所恐怖、孤独感・騒音なども影響していますが、面倒くさい、生産性に乏しい、また見栄や世間体のプライドも影響しています。
だから「嫌いなこと」が多い人ほどそれらから自分を守る意識が強いことからも「不信感」が強くなり、その分だけ信頼関係が薄くて信用していないだけに、その不信から相手を不足に思うことも多く、そして不平不満に思うことも多くなります。

例えば「牛舎は臭い」と思っている人には、その牛舎の臭いにおいが気になります、そして牛舎は臭いと感じ取ると、自分の中では牛舎は臭いと思うようになります。
そして何かの折に、人様に牛舎は臭いと話します。
そしてまたその話を聞いた人が「牛舎は臭い」と思えば、自分が直接行った訳でもないのに同じく牛舎は臭いと思ったり、それを知ったつもりにもなり、できれば自分が牛舎に近づかないようにしたがりますし、そして(毛嫌いしていただけに)牛舎に近づくことにでもなれば(意識していただけに)その臭い匂いを感じ取る事になります。

ところが(私の事例ですが)ご縁あって牛舎の下手間仕事のアルバイトをすることになり、当然ながら始めの頃は「臭い」「汚い」と思っていました。
しかし今では(牛舎が匂っていることは事実であっても)与えられた役割を果たす仕事に意識が使われていますから、臭いことも汚いことも忘れていて意識にありません。
すなわち臭い汚いが意識に無いということは、その事に意識が使われいませんから、その臭いや汚れが気にならないのです。
それを言い換えると、牛舎が匂っていることは事実ですから、それを「臭い」と思えば臭くなるし、「汚い」と思えば汚く見えるのです。
だから「人間は意識で生きている」と言われるわけです。

だから不平不満に思わなければ不平不満になることが無かった事になります(無は無で完全です)。
ところが不平不満になれば不平不満になることが事実・有ったことになってしまいます(無が有になる不完全)。
すなわち牛舎に居る事実は同じであっても、人によってはその思いに違いが出てくるのです。
そして人によってはその違いが特別になり、それが差になり、それを差別するようになります。

それと同じく、元はひとつで、宇宙はひとつで、皆が同じですから、宇宙・神に意識・命があれば宇宙万物にも同じ意識・命があります。
だから溶岩も岩石も石も砂も姿形が変わっただけで「元は同じ」で同じ意識・命を持っています。
すなわち砂漠の砂も地球も同じで、そして「ひとつ」です。
だから神がいるとすれば宇宙万物・皆が神です。
だから「特別」は無いのです。
ただ特別に思った人の中にその特別があるだけで、同じ特別なものが皆にあるわけではありません。
だから各々の意識次第でどうにでも思えるのです。
すなわち「人間は意識」で生きているのです。

だからこそ「不平不満」に思うことの過ち、すなわち事実に無いものをある様に思う誤った意識のその矛盾を知り尽くせば、また同じく思い考える想像の世界で生きているその過ちを知れば、その不平不満を思い持つ己の浅はかな意識やそれを人様にまで話して聞かせていた自分の愚かさに気付き知ることになれば、それがきっかけで不平不満に思うことが自分の中から減っていくのです。

そしてこの世がどうであれ(他がどうであれ)、自らの意識の中には不平不満のない穏やかな心で生きていくことが出来るのです。
とは言っても不平不満が完全に消えたわけではありませんから、何か事があると人様に対して不平不満を抱くときがあります。
しかし「執着」しなければ事を大げさにする事無く終わります。
しかも「質素」であれば何か事が起きることも少ないだけに不平不満を抱くことも少なくなります。
すると「厄介」な事になることもごく少なくなるし、ましてそれに執着することにもなりませんから(結果的には)心を乱すことなく終わり、いつも通りの平穏無事な日々を味わいながら生きることになります。