孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

実践の無い「思い考える」ための知識であれば、それは非実在の不完全な想像の世界になります。

2011年02月11日 | Weblog
生きる為に生きるその中に「食って寝て糞をする」ことが基本にあります。
その「食う」ための中に仕事や家事があります。
その食うために生きるのが普通であって、それを超える過ぎた思いは特別になり「特別意識」を持った事になります。

その思い過ぎる特別なことは、それを思い考え判断した頭の中にありますから、それを形で見る事は出来ませんし、個の中にあっても他の中に無いことから、それは実在していない「非実在」になります。
すなわち思い考え判断したことはすべて非実在になりますから、特別に思った特別意識も非実在になります。
その有もしない非実在を有る様に思う間違った意識を「不完全意識」と言います。

だから「食って寝て糞」をする普通の中に思い過ぎることが有れば「非実在」の不完全意識と特別意識で生きていることになりますから、実在で生きていない不完全な特別な生き方になります。
すなわち今の事実はそれ「ひとつ」しか無いのに、それを分離判断した頭の中には自分だけの思い描いた別物(良い悪いで判断した事柄)があたかも実在しているように思えるのです。
だから思い描いた「想像の世界」「白昼夢」の如くに生きていることになり、今の現実の実在で生きていることにはならないのです。

それが今の私たち人間でありその社会・国家・世界なのです。
だから思い描く想像の世界・非実在の世界・不完全意識の世界に、完全な自由・平等・調和の平和が訪れるはずもありません。
すなわち「無」から「有」が生まれることは絶対にありません。
すなわち「不完全」から「完全」は絶対に生まれません。
だからこそ矛盾の無い完全意識を説く「完全真理」を学び知る時なのです。

私達のその思いの中に過ぎた自信「自信過剰」「自惚れ」があればそれも不完全意識になります。
その自信過剰・自惚れは、過去の事を自惚れて人様に自慢することであったり、同じことが何度も出来ない事をいつでも出来ると思い込んでいることであったり、自分に出来そうもない事をやれば出来ると思い、その思い理想目的を無理してまで成し遂げようとするその思い上がり、すなわち今直ぐには出来ないことを無理にしたがるその過剰意識・特別意識に原因があります。

しかも特別な思いの非実在の不完全意識で始まったことなら、その成した結果も不完全で良いと悪いの矛盾が必ずあり、確かに良いこともあるがその弊害や副作用が必ず出てきます。
そして成した事を特別に思いえばそれが自己満足や自惚れ自信過剰にもなります。

だから無理なくいつでも普通に出すことができる(成すことが出来る)自力が自信でもあるのです。
しかも出来る限り文明の利器や物質金銭や人様の他力を使わずにして成せる「簡単」なことが自力・自信にもなりやすいのです。
すなわち人それぞれが常日頃から普通にやっていることが自力であり、それが「自信」になれば他と比較したり競争することもなく、当然の事をしているだけですから、何を成しtれも(人様から見て特別に思えることを成していても)それが当たり前のことになるのです。

そして自力や自信が少ない人ほど他の人のことが気になるのです(他と比較するのです)。
それで「劣等感」を持つことになったり、自信喪失になったり、また忌み嫌い、羨み妬み恨むやきもち嫉妬になったりするのです。

また生きていくための中の仕事や家事であれば、今ある文明の利器や金銭物質や人様の力を借りることは必然になり、その文明の利器や金銭物質を使いこなすことや人様の実力・能力・技術を借りて事を成すことが出来るその知恵・ノウハウが自力になります。
すなわち仕事・家事に自力・自信が付いた事になりますが、しかし他力を使ってまで成した事をすべて自力で成したと思えば、それが自己満足や自惚れになりやすく、それが特別なことを成したという特別意識にもなりやすいのです。
そこで他力を多く使って成した事を忘れて、自分の実力だけを過大評価する事になれば、それが自己満足や自信過剰になり、自尊心・見栄やプライドを持った不完全な特別意識になります。

そして何処の真理でも言われている「足りるを知る」ことですが、その「満足」は心・意識の中にあることですから、外側にある物質金銭やの形や人様の他力を必要としないだけの、その自らが「足りる」を知ったその自力・自信が心を豊かに満たしてくれるのです。
その「足りるを知る」ことが自信になるというその事実・真実を知るには「実践」しかないのです。
しかしそれを実践しないで「思い考える」だけであれば、それは非実在の不完全な想像の世界の(頭の中の)「知識」ですから、それは実在・事実・真実で知ったことにはなりません。

だから聖書経典や書物で勉強して知識にすることも先ず必要ですが、その知識を幾ら溜め込んでも実践がなければ、その知識を活かしてその事実・真実を味わい知ったことにはなりませんから、それらは絵に書いた餅で食べることは出来ません。
だから他の真理がどうであれ、完全真理は実践する真理なのです。
しかも知識で知った難解なことや無理な事を実践しなくても、今の自分に出来る実践をしている中に真実が見つかれば(気付けば)それが自信や励みとなって更に実践意識が高まっていくのです。