孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理は「実践」真理ですから、確かな実践が無ければ本質・真価を味わい知ることにはなりません。

2011年02月06日 | Weblog
完全真理を知ることで此れまでの良い悪いで判断していたことが不完全意識で間違いだった事になるのですから、人によってそれが違和感・不信感(守り意識)になり、真剣に理解する事無く、上辺だけ知って終わるかもしれません。

だから喜怒哀楽や生老病死の苦楽があるのが当たり前の人間だと思い違いしていたことに心から気付くことにもなりません。
また愛よりも愛情が優ると思い違いしている人には真理の愛が薄っぺらい取るに足りないものに思えるかもしれません。
まして比較・差を味わう趣味嗜好娯楽・刺激が無ければ面白くも無い人生に思えるかもしれません。
それよりまして常識や伝統・風習・道徳まで不必要(不完全意識)となるわけですから否定反発する事になるかもしれません。
だからそこまで完璧ではなくて妥協も言訳もあってこそ調和が保たれると思い違いする人もいるかもしれません。

また過去からずーッと引き継いでいる宗教真理さえも不完全意識だと指摘していることからも反発する人も多いかと思います。
すなわち「神だから特別」が当たり前と思っているでしょうし、それを敬い奉り崇拝・信仰・祈願することは「正しい」と思い違いしていることに気付くはずもありません。
また自力・自信の少ない人ほど苦悩を持っていますから、その苦悩から早く逃れたいとか救われたたいとかで手っ取り早く終わらしてくれそうな「奇跡を成す」教祖・宗教に集まりたがるかもしれません。

それら宗教真理・宗教組織団体も必然で存在していますから、それなりにお役を果たしています。
それが神の存在・実在を示してそれを説かれていることであったり、お陰様やお互い様の関係を説いて自由・平等・世界平和を目指していることであったり、(天国のような)すべての意識が通じ合う自然界との調和や人間関係の調和のあり方を説いているわけですから、概ね何処の宗教であれ間違ってはいません。

だからお陰様やお互い様を実践して調和のある生き方をしている人も大勢いるかもしれませんが、ところが残念なことに形は調和であっても元々の意識の中に神は特別だ私も特別だと思っている「特別意識」を持っていますから、結果も特別な調和になります。
すなわち一般世間と離れた特別な調和ですから仲間内にしか通じなかったり、それに類する者に理解される、限りある調和・制限束縛のある不完全な調和、矛盾のある自由平等平和になっています。

そんなことはともかくとして、完全真理を実際に実践してみればすべての真実が実感で学び知ることが出来るのです。
その実践で多くのものを失うことになっても、新たに得るものがあります。 それが今まで味わえなかった「真の自由」です。
すなわち束縛制限されていた不必要なものが減っただけにその分だけ身軽な自分に適した自由を味わえるのです。
そして多くを持っていないのに(持っていないだけに)、(小さなことでも)確かな手ごたえのある満足できるものが増えるのです。
だから更に多くを必要としなくなり質素の意識が板につくようになるのです。

そして「自由」を味わうにも自力が多く必要となりますから、それが質素にもなっていきます。
その質素を味わうと、此れまで好き嫌いで選り好み・忌み嫌い毛嫌いしていたこと等を必然で味わい知ることから、それらの真価・事実を悟ることになり、それが確信自信となります。
だから反対に他力任せの多い人ほど実践を渋ることにもなり、それだけ自力も自信も自由も得ることが難しくなります。

また限られた人数の関係であってもそれで十分になります。
そして互いが必要・必然とするときに接し触れ合うのですから無用な無理も無駄も省けるのです。
しかも意識が似通った者同士・判り合える者同士・気心が知れた者同士ですから(水や空気のような存在になり)余計な気兼ねや遠慮も無く心穏やかに接し触れ合い過ごせるようになります。

また例え一時の感情のもつれがあったとしても、後悔未練執着することにもなりませんから、心に深い痕跡が残りません。
そしてまた必然ご縁があればいつもと同じ様に接し触れ合うことが出来るようになります。
それでまた感情のもつれがあれば(自然の流れから)次第にご縁が遠のいていくだけで後腐れもありません。

そして何よりも「自由と自力と自信」が意識・心の健康の元になり、それが肉体・精神体・感情体の健康健全になり、それが怪我や病を患うことにならない、心身ともに健康な生き方に結び付くと実感でもって悟っています。
だから未熟で不完全意識ながらも、それなりに欲張り無理する事無く、暇だ退屈だと思いながらも大したこともしないで、呑気気ままな過疎地での独居生活が9年以上続いているのだと思います。
しかも完全真理を知る以前から始まったことであり、更に過去の暮らしぶりとまったく逆な浮世離れした生き方(ただ食って寝て糞をするような生活)が無理なく始まったわけですから、過去のような暮らしに戻る事無く続くことが(私としては)宇宙の流れに添った「自分流の生き方」に思っているところです。

だから完全真理は「実践する者」の真理であって、「絵に書いた餅」や「棚からぼた餅」や「果報者は寝てまて」や「信じる者は救われる」の真理でもなく、また「二兎追うものは一兎も得ず」ですから、迷うことなく完全真理を意識した確かな実践とその気付きで先に進んで行くことが出来る真理です。

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