今の姿形で見える宇宙・地球、その万物・人間も自らの「意識」で動いている「意識体」ですから、意識が「原因」であってその姿形は表現された「結果」にしか過ぎません。
その原因の「意識」には永遠の「命」がありますから、その原因の結果である表現体の姿形が滅びてなくなっても、その「意識・命」は永遠に<実在>し続けることが出来ます。
すなわち、始まりなき終わりなき完全な宇宙の愛意識エネルギーから創造されたすべてのもの、宇宙や神と言われる全知全能の愛意識エネルギーから創造された宇宙・地球・人間・万物として実在するものにも、同じ愛「意識・命」を持っています。
ゆえに・・・宇宙万物すべてが愛であり、その愛(意識)から全知全能の生み出す力・エネルギーが出ています。
だから・・・今も宇宙万物が(愛の意識エネルギーによって)進化拡大し続けることが出来るのです。
そして人間の場合は・・・意識したことが(意識の力・エネルギーが)身体に伝わることから・・・その身体を使って行為表現することができます。 しかし何も意識しなければ肉体は働きませんから(死体同様になり)、そこに姿形の肉体が有っても無いのと同じだから<非実在>となるのです。
すなわち「意識・命」が本命の実在であり愛ですから、二番目の姿形は表現するための仮の姿・道具にしかすぎません。
その意識のことを分かりやすく説明すると・・・家族団らんでTVを見ている形があっても、TV画面に意識がいっている時に家族のことは意識にありませんから、家族が身近にいても(実在していても)非実在になります。
また恋人同士が接し触れ合っているときは愛・意識を感じますが、その格好・形が同じであっても意識が別なところに行っていれば、恋人と触れ合っている愛・意識はありませんから(接し触れ合って居ても意識・実感していないから)、直近に居るけれど居ないのと同じになり、実在しているけれど実在していない格好・形になります。
そして人間は・・・実在で生きている今が過去や未来とつながっていれば・・・過去と未来は今の実在・意識とは違って頭の中の「記憶」「思い」ですから、その過去や未来に執着していれば非実在で生きている事になります。
だから、過去未来ではない今の時間を生きていることが「今を実在で生きる」「愛に生きる」ことになりますが、過去の事に未練執着したり未来の事に執着していれば、それは頭の中の思いですから非実在(空想・想像の世界)で生きている事になります。
すなわち、意識したことを実際に行為表現するする事で実在・愛の事実になりますが、単に頭で「思う」だけでは行為表現が無いから非実在になります。
また先ほどの人間と同様に・・・「この世」と言われる人間界も、元々の「原因」である意識・命が仮の姿形となって表現されている「結果の世界」になりますから、この世は「原因が結果」となって表れている結果にしかすぎません。
ところで、その原因となる意識・命の居場所としての見えない「あの世」と言われる次元世界があることを世界中の様々な宗教で言われていて、実際にそれを信じて信仰している人や生活慣習や伝統風習にしている人が大勢居ますが・・・ ところがそれとは裏腹の「あの世」では必要ないはずの衣食住や財・名誉名声・権威権力にとらわれて、それらを得たい欲得の思い思惑・目的理想(非実在)で生きようとしています。
たぶん・・・非実在の結果の「この世」にある非実在の形・敬称である肩書・名声を持つと「あの世」でも身分階級が高いところで居れると思う間違った宗教観念・概念を教えられて信じている人が居るかもしれませんが、それは競争・差別意識ですから到底ながら「あの世」「愛意識の世界」で受け入れられ歓迎されるはずもありません。
また・・・神仏を信じ、お祈りを重ね、人が喜ぶ善行を重ねたりすれば、やがて神や仏の世界に行けるという「先々の結果」を予測期待したりする思い思惑・目的・理想でやっていることであれば・・・それは有りもしない非実在で生きていることであり、勘違いした神仏を信じている偽善であり、自分さえ良ければの欲で非実在を求めているのですから、到底ながら今を生きる実在・愛で生きていることにはなりません。
だから現実に「あの世」へ行ったときに・・・あれだけ頑張ったのに・・・まさか何で私が・・・と後悔する事になります。
「この世」は表現され形作られたた結果ですから、結果・形は実在ではなくて、その結果形の原因となる「意識」「命」「愛」が実在するものですから・・・原因の意識から出て現れた結果を「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断さえしなければ・・・すべてが愛になります。
だから・・・そのまま、このままの「あるがまま」が愛・意識なのです。
だから・・・判断せずに「当たり前」「必然」でやっていることが愛になります。
しかし・・・自分の思いを込めた愛の思いは愛情になり、実在の愛とは違った(非実在の)形の表現になりやすく、その形で表現されたものには必ず束縛制限支配したがる思い思惑・期待が込められています。
だから・・・恋人や家族などの愛情関係は互いを束縛制限支配しあう不自由・不平等の関係ですから、互いの思い思惑期待を裏切る「裏切り関係」で成り立っていることになります。
だから、己の思いのこもった愛情を与え求めることよりも・・・あるがままの愛、当たり前の愛、小さな喜び・愛に気付き、心から満足し感謝できる生き方に意識改革・自己縮小する必要があるのです。
★そして「この世」は<結果>であり、大元の原因は<意識>にあることを知れば「意識改革」「自己縮小」が進みます。
その原因の「意識」には永遠の「命」がありますから、その原因の結果である表現体の姿形が滅びてなくなっても、その「意識・命」は永遠に<実在>し続けることが出来ます。
すなわち、始まりなき終わりなき完全な宇宙の愛意識エネルギーから創造されたすべてのもの、宇宙や神と言われる全知全能の愛意識エネルギーから創造された宇宙・地球・人間・万物として実在するものにも、同じ愛「意識・命」を持っています。
ゆえに・・・宇宙万物すべてが愛であり、その愛(意識)から全知全能の生み出す力・エネルギーが出ています。
だから・・・今も宇宙万物が(愛の意識エネルギーによって)進化拡大し続けることが出来るのです。
そして人間の場合は・・・意識したことが(意識の力・エネルギーが)身体に伝わることから・・・その身体を使って行為表現することができます。 しかし何も意識しなければ肉体は働きませんから(死体同様になり)、そこに姿形の肉体が有っても無いのと同じだから<非実在>となるのです。
すなわち「意識・命」が本命の実在であり愛ですから、二番目の姿形は表現するための仮の姿・道具にしかすぎません。
その意識のことを分かりやすく説明すると・・・家族団らんでTVを見ている形があっても、TV画面に意識がいっている時に家族のことは意識にありませんから、家族が身近にいても(実在していても)非実在になります。
また恋人同士が接し触れ合っているときは愛・意識を感じますが、その格好・形が同じであっても意識が別なところに行っていれば、恋人と触れ合っている愛・意識はありませんから(接し触れ合って居ても意識・実感していないから)、直近に居るけれど居ないのと同じになり、実在しているけれど実在していない格好・形になります。
そして人間は・・・実在で生きている今が過去や未来とつながっていれば・・・過去と未来は今の実在・意識とは違って頭の中の「記憶」「思い」ですから、その過去や未来に執着していれば非実在で生きている事になります。
だから、過去未来ではない今の時間を生きていることが「今を実在で生きる」「愛に生きる」ことになりますが、過去の事に未練執着したり未来の事に執着していれば、それは頭の中の思いですから非実在(空想・想像の世界)で生きている事になります。
すなわち、意識したことを実際に行為表現するする事で実在・愛の事実になりますが、単に頭で「思う」だけでは行為表現が無いから非実在になります。
また先ほどの人間と同様に・・・「この世」と言われる人間界も、元々の「原因」である意識・命が仮の姿形となって表現されている「結果の世界」になりますから、この世は「原因が結果」となって表れている結果にしかすぎません。
ところで、その原因となる意識・命の居場所としての見えない「あの世」と言われる次元世界があることを世界中の様々な宗教で言われていて、実際にそれを信じて信仰している人や生活慣習や伝統風習にしている人が大勢居ますが・・・ ところがそれとは裏腹の「あの世」では必要ないはずの衣食住や財・名誉名声・権威権力にとらわれて、それらを得たい欲得の思い思惑・目的理想(非実在)で生きようとしています。
たぶん・・・非実在の結果の「この世」にある非実在の形・敬称である肩書・名声を持つと「あの世」でも身分階級が高いところで居れると思う間違った宗教観念・概念を教えられて信じている人が居るかもしれませんが、それは競争・差別意識ですから到底ながら「あの世」「愛意識の世界」で受け入れられ歓迎されるはずもありません。
また・・・神仏を信じ、お祈りを重ね、人が喜ぶ善行を重ねたりすれば、やがて神や仏の世界に行けるという「先々の結果」を予測期待したりする思い思惑・目的・理想でやっていることであれば・・・それは有りもしない非実在で生きていることであり、勘違いした神仏を信じている偽善であり、自分さえ良ければの欲で非実在を求めているのですから、到底ながら今を生きる実在・愛で生きていることにはなりません。
だから現実に「あの世」へ行ったときに・・・あれだけ頑張ったのに・・・まさか何で私が・・・と後悔する事になります。
「この世」は表現され形作られたた結果ですから、結果・形は実在ではなくて、その結果形の原因となる「意識」「命」「愛」が実在するものですから・・・原因の意識から出て現れた結果を「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断さえしなければ・・・すべてが愛になります。
だから・・・そのまま、このままの「あるがまま」が愛・意識なのです。
だから・・・判断せずに「当たり前」「必然」でやっていることが愛になります。
しかし・・・自分の思いを込めた愛の思いは愛情になり、実在の愛とは違った(非実在の)形の表現になりやすく、その形で表現されたものには必ず束縛制限支配したがる思い思惑・期待が込められています。
だから・・・恋人や家族などの愛情関係は互いを束縛制限支配しあう不自由・不平等の関係ですから、互いの思い思惑期待を裏切る「裏切り関係」で成り立っていることになります。
だから、己の思いのこもった愛情を与え求めることよりも・・・あるがままの愛、当たり前の愛、小さな喜び・愛に気付き、心から満足し感謝できる生き方に意識改革・自己縮小する必要があるのです。
★そして「この世」は<結果>であり、大元の原因は<意識>にあることを知れば「意識改革」「自己縮小」が進みます。