孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

此れまでの自己拡大(差別~戦争)を無駄にしないためにも自己縮小が必要

2009年08月27日 | Weblog
過去のイエスや釈迦が自ら「修行」してみたものの、結局は「無駄」であったと弟子達に教え伝えたが、その事を知っている筈の弟子達が・・・修行が無駄なことだと知るためにも、その修行を実際にしてみなければ分からないと思い・・・釈迦やイエスが無駄だと悟った修行が未だに続き繰り返されています。
すなわち、イエスや釈迦らに従い信じる大いなる弟子達でさえも(人間誰もが不信感を持っているから)・・・その釈迦やイエスの悟り・教えを素直に信じずに否定反発、または(修行することを)言い訳正当化していると言うことになります。

だから釈迦やイエスに限らずあらゆる宗教においても同じでして、それら教祖の言うことを信じている振りはしていても、自分が知らないことに対する不信感が根強くあることから(自分が実際に知ったことしか信じようとしないから)、誰しも本心からは信じることが出来ないでいるのです・・・(釈迦やイエスが活動していた当時に、そのイエスや釈迦を信じていなかった人が多いように) また同じく・・・現在実在で活動している最中の宇宙・神意識の山田耕栄さんを信じる人が少ないように・・・です。

また、我が身に起きた結果、「救われ助かった」結果があったから信じていたり、我が身の欲から「救って欲しい、助けて欲しい」の強い思い思惑があってのことで信じているのであれば、それら欲得がらみの見せ掛けの信仰で信じている振りをしているだけになります。
すなわち、何らかの結果を期待する思い思惑がらみの(自分に都合が良いだけの)、実在する神の愛と離れた別格の真理・宗教・信仰の特別な形になってしまうのです。

・・・完全なる神の世界・次元が人間には絶対に見えないだけに・・・それが証拠に世界中で想像神・偶像が崇拝されているように・・・その元となるイエスや釈迦らを含めて、すべて100㌫完全に神を信じ切っていた人が誰一人も居なかったかも知れません・・・
勿論のこと、強い思い込みや妄信による自己暗示や他社暗示や洗脳を受けている場合であれば・・・それは錯覚勘違いの非実在を実在に思い込んでいるだけだから、本当の神を信じていることにはなりません。

ところで・・・修行と言える行為行動を・・・「良い悪い」で判断しない「あるがまま」の完全真理で言えば、その修行となるのが日々の暮らしに当てはまります。
だから例えば・・・此れまでの自己拡大をやめて自己縮小を実践することを説き教えていますが・・・その無駄な修行が「自己拡大」にあたります。
すなわち此れまでの生き方、人と差を付けたがる生き方から成り立っている生活そのものの発展、すなわち衣食住や財産といった物質経済発展や人と差を付ける特別な資格や権威権力・肩書きを持つことを目指していたのが自己拡大になりますから、我々は日々無駄な修行を繰り返しながらその結果の自己満足に酔いしれていたことになります。
そしてその結果が現在の比較競争社会・差別・格差社会、争い戦い奪い合い破壊し合う人間・国家社会、自由平等平和のない地球・人類という結果に現われています。

その自己拡大という無駄な修行を・・・無駄にさせない為にも・・・「自己縮小」の実践が必要になります。
すなわち人類の自由平等平和を失ってまでも自己拡大を続けてきた此れまでの経験体験(修行)を生かす為にも、ここで自己縮小を実践することが必要になると言うことです。

すなわち裏表の世界ですから・・・(表の)自由平等の宇宙・神の愛を知るためにも、(裏の)比較競争・差別する自己拡大が必要だったと言うことかも知れません。
そうすれば・・・此れまでの自己拡大をしてきた生き様、すなわち喜怒哀楽・生老病死などで思考錯誤したり、愛とは違う自己満足の繰り返しで苦労している中での「自己縮小」の実践になることから・・・裏を経験した上での表の実践になるから・・・ その自己縮小の実践で実際に得られる至福の時を経験体験で知ることになり、(自己拡大で心を乱すことよりも)心の満足・安心安定が人間にとって大切なことだと言うことに実感を持って気付き学び知り会得することになり、二度と自己拡大や自己満足に意識が戻ることはありません。

言い換えれば・・・此れまでの結果を無駄にしないためにも・・・自己縮小が必要なのです。
すなわち、此れまでの(前世を含めて)色々とあったことが・・・「終わり良ければすべて善し」の結果になるのです。
・・・更に言い換えれば・・・
自己縮小することで自己拡大の過ちに始めて気付くわけだから、このまま自己拡大を続けて地球・人類の破壊・崩壊(人間失格)になっていくのか、それとも自己縮小したお陰で自由平等の至福の時を味わえる新たな地球人類になるのか、その選択・生き様を問われているのが・・・今・現在ということです。

今まで通りに比較競争し差別するように・・・他と比べて己をより上に位置づけようとして自己拡大を続けている限り、それを成しても自己満足で終わるから直ぐにまた欲しくなり(絶え間ない欲望が続き)、今までと同じ喜怒哀楽・生老病死を意識した生き方・生き様から離れることは出来ません。
しかも比較競争・差別社会からも抜け出せませんから、山・谷・坂・壁ありの苦汁の人生しか味わえません。
更に、あらゆる有事に対処できる精神力・自力の欠乏はもちろんのこと、この先に待ち構えている予期せぬ真坂の有事によって二度と立ち上がれないほどの精神状態に陥り、自らが破滅・破壊の道を辿ることにもなるのです。

ところが自己縮小を実践していれば・・・此れまでの自己拡大・自己満足が本当に馬鹿らしいことに思えてくるのは事実なのです。
そして実際に実践していれば高望みすることもなくなり・・・喜怒哀楽や生老病死を意識しすぎての悩み苦しみや迷い混乱することも次第に無くなりますから、常に心が安らぐようになるのです。
だから実践することが落ち着きのある楽しいことになり、苦悩・苦渋とその自己満足の自己拡大に戻ることもありません。

有史以来「自己拡大」することしか意識してこなかっただけに・・・「自己縮小」という内容に違和感を持つのも当然ですが・・・ 原因・事の始まりから間違っていたことを学び知れば簡単に分かってくるのです。
それを教えてくれているのが・・・良い悪いを持たない(山田耕栄さんの)「完全真理」なのです。
そして「信じ」切れるのか・・・ 中途半端で止まるのか・・・ 否定反発するのか・・・ 知らぬ存ぜぬで通り過ごすのか・・・ それはその人の意識次第です。