孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自己満足の愛・自己満足の幸せvs至福・心の満足

2009年08月16日 | Weblog
自分さえ良ければの個人意識を持っている限り<幸せ>はありません。
自己中心の個人意識を持っている限り<愛>はありません。
だから個人意識の「幸せ」「愛」は自己満足の幸せ・愛になります。

自己満足ではない本物の愛・幸せを知らなければ、自分が<幸せ・愛>の人にはなれません。
その幸せ・愛は自分の中にあるものを「あるがまま」に出すだけで、他力から幸せ・愛を叶えて頂くものではありません。
また、愛を見える形・結果で頂くのではなくて、・・・自分の心・意識で感じて頂くものです。

自然体の「あるがまま」に出ている本当の愛は自分が「出した」と思っていませんから、・・・自己満足にもならないし、もう過去のことだからすっかり忘れます。 ・・・すなわち「感謝されたい」「感謝して欲しい」「喜んで欲しい」と言うような「恩着せ」意識も、返礼・見返りの期待感すらありません。

人様から頂いた愛の「形」は自己満足になりますが、・・・人様から何気なく出されている(あるがままの)愛を自らが「感じて」頂いた愛は至福の満足で心が満たされますから、いつも心の奥に暖かく感じています。
だからそれ以上のもの(価値観)や多く(回数)を欲しがり求めなくても十分に思っています。

しかし自分が「求めた」形の愛が叶えば、それは自己満足になりますから・・・ また次も欲しい、できれば以前より大きい愛が欲しい、(もう慣れ飽きたから)変化に富んだ目新しい愛が欲しいと、依存心・依頼心・おねだりが強くなり、また当然ながら前もって期待するようにもなります。
そしてその期待が外れるとがっかりするだけではなく、そんな相手を責めることも当然のことのように思ってしまいます。

夫や妻や我が子・家族のためにと思い思惑・目的を持って出した結果の愛は自己満足の愛になります。
だからその結果が気になり、その結果を相手から聞きたがります。
その聞き出した内容・結果が自分の思惑と一致していれば自己満足しますが、それと違った結果を聞けば不平不満をあらわにします。
・・・すなわち、自分に都合良く行っている内は自己満足しているが、ちょっとでも都合が悪いことになると・・・自分が愛を出して与えていると(自惚れ慢心)思っているだけに、その相手に「裏切られた」という感情を持ちます。

そんな自己満足の偽善・愛を授受し合っているのが個人意識の我々です。
完全な神・愛に裏切り関係は一切ありません・・・ 愛を満遍なく当たり前に出しているだけです。

愛は形で見聞きするものではなくて感じるものですから、その愛を感じられるような意識力が必要になります。
その意識力を高めるのに邪魔しているのが「自己満足」です。
すなわち自己満足の中に愛は無いのだから、その自己満足を追い求めている内は(目先の自分の事で精一杯だから)愛を感じるだけの意識力・感性は身に付きません。

とは言っても・・・自己満足を否定しているものではありません。 本当の幸せでも愛でも無い自己満足に気付かないでいるその意識が問われているのですから、・・・出来れば・・・その自己満足に自らが気付き、それを素直に認めればそれでいったん終わりますから、後日まで引きずり・こだわり未練執着を持たなくなります。

形では無い満足、心・意識で感じる満足、言葉形で表せない満足・至福は・・・ 大きな特別の中にはありません・・・ 思い願っていることの中にもありません・・・ 理想や目的に達した中にもありません・・・ 頭の中の判断にもありません・・・ 「自己縮小」した意識の中にある・・・ 大切な空気のような存在・・・皆に大切なものなのにそれをいっさい主張顕示誇示しない・・・ 有るようで無いような、無いようで有る「空」が愛と言われています。