孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

幸せに思える条件

2009年01月17日 | Weblog
浮世離れしたかのような過疎地に単身で移り住み、そして良い悪いを持たない完全真理を学び知り、そしてテレビで流れる歴史物語や、ドキュメンタリーで紹介される海外の少数民族の明るい暮らしぶりを見て、幸せに思える価値観が大きく違ってきました。 

湯水の如くに天然資源を使い続け、その生産力による大量生産と使い捨て文化、そして競争主義で差別格差が広がり、勝ち残らなければ使い捨てにされる社会、そんな中で金さえあれば何でも出来るような先進国・経済国家になりましたが、そんな暮らしぶりが決して幸せとはいえません。

幸せに思える条件にあるのが、差の無い平等と束縛支配されない自由が無ければなりません。 ところが皆と同じでは幸せに思えないようになって、他と差をつける比較競争をして見栄や世間体を張ったり、人とは違う特別な肩書き名称や名声名誉や権威権力を欲しがったのがそもそも間違っていたのです。
差があるところに幸せは絶対にありません、それなのに差を持つことで幸せになれると思い考えるから、それが矛盾して思い悩み考え迷うことになるのです。

他の人と差を持ったことで幸せに思っている人は、自分の心を嘘で偽っていることなのか、単なる自己満足や錯覚勘違いや自己欺まんの幸せでしかありません。
もしも、他との差を付けたことが自分の幸せに思えているのなら、欲張ることばかり熱中し過ぎて、何処にでもあるような小さな幸せを自覚した事がないからです。

欲で得た差を持って一度握り締めればそれを守らなければなりません。
差を手離せば差が差ではなくなるから、必ず守りに入ります・・・差を守っているから差を持ておれるのです。
そして良い悪いの裏表の世界ですから、表の守り意識の裏に攻撃意識があります。 すなわち、守るためには先んじて攻めることが必要になってくるのが道理なのです。
だから、そんな攻守のある差・矛盾を持っていて幸せといえば嘘八百になります。

差が無くて皆が同じであれば、どんなに貧しい生活であっても共に支えあって協調しながら楽しく生きていく事が出来ます。 
差が無ければ、皆が寄り集まって助け合ったり、大勢で共同作業するところに互いの喜び感謝を分かち合えます。
差が無ければ、年齢や男女の違いや能力や性格の違いがあっても、その多様性と調和を皆で楽しむ事が出来ます。

とは言っても残念なことに現代社会ではなかなか通用しません。
また、差を無くする事が大切だと理解できたところで、自分から進んで差を無くしていく自己縮小の実践が出来る人は何人いるでしょうか・・・ 
また、確かに自分の中の差別意識が無くなれば自分が幸せになれると自覚できても、その実践はなかなか出来ません。 すなわち手離せないで守る事柄が多いからです。
世間の常識やその伝統風習や道徳やしがらみと言った形に意識が縛られてなかなか抜け出せないのです。 差のある形の世間の目や身近な人の目が気になるのです。
そこで、有るものは有って当然なのだから気にしなければいいのです。 過ぎた執着さえしなければ何とかなっていきます。 他に巻き込まれないで、急ぎ慌てないで、諦めないで、ゆっくりでもいいから意識だけ確り持っていれば何とかなっていきます。

しかし・・・悩んだり迷ったりするのであれば・・・差を持っている証しです。
不平不満になったり、迷ったり悩んだりするのは、自分の判断に良い悪いの裏表の差を持っているからです。
そして、思惑・理想・目的意識は自分の都合から出た欲な思いですから、失敗失意で逆恨みにすることになったり、思い道理にならないで苛立ち迷い悩むことになるのです。
・・・もしも逆恨みで逆キレするようであれば余程の自己縮小が必要になります。

今の自分にあたり前に出来る事が、差の無い役割を果たしていることになります。 
その役割の質や量にそれぞれの違いがあっても、いっさいの差はありません。
それ以外は思い考え思考錯誤した結果である特別なことを目指す形になり、それは他と差を付けたがる特別意識や救世主意識になります。

荷車で遠くまで移動するような暮らしぶりであっても、テレビに明るい笑顔で映り、今の普通の生活が長く続く事が幸せだといった現地の人がいました。
皆が同じような格好で集まり、皆で喜びの唄を歌いながら収穫をしている様子がとても幸せそうに見えました。
最後の最後まで何一つ無駄にしない自給自足の山岳民族や、その日暮のジャングル民族や孤島の民族がいかにも幸せそうに暮らしているのが印象的でした。
そられ住民や民族には先進国ほどの格差差別はありません。 だから皆が同じ様な仲間であれば差が気にならないで皆が仲良く楽しく暮らしていけるのです。

衣食住や財・名を競い合う差別意識に幸せ・至福の時はありません。
喜怒哀楽や生老病死に執着すれば幸せ・至福の時は来ません。
世界各国の人々の環境や価値観の違いや持つものの質や量の違いが大きく違っていても、それぞれに与えられ恵まれ持っている中にある、その小さな喜び感謝の心の中に幸せが宿り、神や愛を自覚することになる原因があるようです。


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