孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

善悪優劣損得で判断した良いとこ取りには「ありがとう」があっても「アリガタイ・お陰様」が無い

2010年09月10日 | Weblog
自分の都合が良いことばかりを取る「良いとこ取り」には善悪優劣損得で判断したその差を欲しがったことですから、その差を得て喜ぶ自己満足の「ありがとう」の感謝はあっても、心からしぜんと出る無差別な「アリガタイ」の気持・感謝の心はありません。

ところで人が死にそうになると最高の医療や延命処置で少しでも長く生きていたいと思うように・・・
だから死が身近になると重病人であっても「生きていることをアリガタイ」と思うようになりますが、健康で生きているときは生きていることをそんなにアリガタイとは意識していません。

それと同じく病気になったときに健康のありがたさを知りますが、その健康なときにその健康がアリガタイ事に思っていませんから何かと不健康・不完全意識で生きています。 そして病気になれば医者や薬に頼れば良いと軽々しく思っていると、それが他力依存心だけに尚のこと自力である健康のありがたさを自覚していません。

ところが内心では病気や怪我をしたくない、まして死にたくないから病気や怪我や死を不安がって恐れています。
それなのに一方では私は大丈夫と思って無茶もしていますから(相反する矛盾で生きていますから)、現実に怪我や病気や死にそうになるとその結果と原因を悔やむ後悔や未練執着で意識が縛られて支配されていることからも、今生きている事がアリガタイことだと思えませんから、何かと不足・不平不満も出るしその先々の不安心配が出てきます。

ところが本当に生きているだけでも「アリガタイ」ことだと気付けば(アリガタイに良いとこ取り意識は働いていませんから)・・・その生きるために関わる諸々すべてが「アリガタイ・お陰様」になります。 だからたとえ死にそうになっていても、生きている限りはアリガタイ・お陰様に接し触れ合っていますから当然「すべてがアリガタイ」ことになり、そのアリガタイ・お陰様で人は生きていることになります。

とは言っても「良いとこ取り」したがる個人意識を持った私ですから人様に対するありがとうがあってもすべてがアリガタイとはなかなか出てきません。
それでも生きていることのありがたさや健康のありがたさや、その生きるのに必要な衣食住にも何とか恵まれていることのありがたさや、余計なことで人様に干渉されない自由気ままな孤独のありがたさも味わっていますから(それだけで十分満足していますから)、あれこれと欲しがる事もどんどん減ってきたおかげで金銭物質や人間関係にあまり頼らななくても気楽に暮らせる「呑気な」生き方になっています。

その呑気さゆえに先々の怪我や病気や老後や死もその死後のことさえも(余計なことを)あまり考えていませんし、(完全真理のお陰様で)それらから守り戦う必要性も無くなったので、それらに関わる多くの他力を必要としない生き方を決心することもできました。
またそれだけに自力を多く使うことにもなるので健康に生きていることにはアリガタイの気持ちがありますし、この先死に至ることになっても不完全なこの世の形やその人間関係に思いを残すような未練・執着・後悔も無くて、いたって気分はさっぱりしていますから・・・(現時点では)あの世の意識の世界に不安も恐れもありませんし、それよりも知り尽くした不完全なこの世とは違う「まだ知らない」死後の意識の世界を実在で知る事が出来ることに関心・意識があります。

そして私が不完全意識のままに人間の肉体を終える事になれば、その意識はそれ相当の相応しいところの意識次元でいることになるが、宇宙の法則(終りと始まりの)リセットによって完全意識(概ね8次元)の地球が新たに創造されたときになれば、私はその完全も相反する不完全意識のことも熟知していることから思うには、(もしかしての捕らぬタヌキの皮算用ですが)その新たな地球人類として転生する事が出来るかもしれないと、完全意識エネルギーのファバラ愛用と併せて一部の望みを持っています。

その為にも・・・わが身の死に至るまでファバラを愛用しつつ完全真理の実践意識ですごしていたいと思っているのですが・・・
自他共に不完全な世の中人間関係だけに私の自力に似合った確かな思いをもって動いても(例え真理やファバラの口コミ働きかけであっても)(またそれが妻や肉親家族や身近な人であっても)他の人様の意識のことは(釈迦やイエスや耕栄さんといえども)「どうすることも出来ない」ことを熟知しているし、それなりに体験経験を積み重ねているだけに「来るものは拒まず去るものは追わず」の成り行き任せに生きることで平穏無事に過ごしていますから、対外的な事と言えば一日二回の計四時間の牛のエサやり20日間のバイトとブログ書き込み以外あまり余計なことは差し控えております。

だから何せ暇で退屈な時間が多いだけに、その時間を(生産性の高い)如何に生きるかではなくて、(生産性の低い)その時間を如何にして過ごすかにかかっています・・・だからこのブログ書き込みがその時間つぶしにあたります。

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