孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「ありがたい」愛の犠牲、愛のエネルギー

2009年02月06日 | Weblog
愛とは「アリガタイ」感謝の心だと知りました。
だから、そのアリガタイ心が先にあれば全てが愛になります。
だからアリガタイで行動表現すれば、それが愛の犠牲・愛の行為になります。
そうすると仕事や家事や子育ても愛の犠牲ですから、愛の行為・愛を出していることになります。
だから、束縛制限支配したがる恋愛関係や夫婦家族関係にアリガタイがあれば、自由平等で差の無い愛のある人間関係になります。
しかし、自分の思い通りにしたい思惑・欲が先にあればアリガタイが後になるから、そのアリガタイは自分のためのアリガタイになり、自分が良くなりたい自己愛になります。

子育てはアリガタイものですから、そこには喜び感謝があり楽しいものです。 
そのアリガタイが無いから色んな問題がどんどん出ているのです。
しかも、我が子を育てている意識が強いとどうしても自分の思い通りにしたがります。 そして束縛制限支配する形になり、子供の個性を尊重しなくなります。
更に親の老後を子供に託す思惑が子育てにあると、それは自分の老後のための子育てになり、己の老後の道具に子供を必要としている形ですから、その子育てに愛の犠牲・アリガタイはまったくありません。
だから、親が子供に感謝の恩着せを教えたがるのも、自分にアリガタイ心・愛の犠牲を出していないから(自力・自信が無いから)、反対に自分が持っていないアリガタイを求める形になり、「感謝されたい」強い思い思惑が出ているのかもしれません。
ゆえに押し付け恩着せの愛情を出して感謝されることを望むのです。 
そしてその思惑通りにならなければ「感謝」しなさいと言ってみたり、感謝の無い人だと不平不満に思うことにもなるのです。

人様の犠牲で自分が楽をしたい思いであれば、その楽にはアリガタイ心がありません。 それには言うだけのアリガタイ、思うだけのアリガタイがあっても、心から出たアリガタイはありません。
楽をしたアリガタイには自己満足があっても、心からの喜び楽しさが味わえません。 
だから、自分が楽をした時や得をした時に心のこもったアリガトウが言えなくて、スミマセンという言葉をよく使います。
だから謝罪する時もスミマセンを多用してお茶をにごし、心のこもったゴメンナサイ(御免なさい)を言うことが出来ません。

人間が生きるために食するものは全てアリガタイものですから、それぞれの形や味覚に違いがあっても差はありません。 だからマグロのにぎり寿司もおにぎりも同じ美味しさのアリガタイがあります。 だから、マグロのにぎり寿司が美味しくてもおにぎりが美味しくなければ差別していることになり、その差別にはアリガタイはありません。 
ゆえに物の価値や価値観や形や栄養素や味覚などの違いや差を見るのではなくて、食本来の美味しさのアリガタイが人間の生きるエネルギーとなっていることを知る必要があります。

そのアリガタイ心が少ないほど美味しさも違ってくるし消化吸収も違ってきます。
だから、アリガタイが無いから大食いになったり拒食になったり、先に意識するのがカロリーや栄養やダイエットや健康食材の執着になったりして、楽しく美味しく味わうアリガタイの意識が後になるから、食や量の摂取や消化吸収のバランスが崩れて同じ様に体調も崩れることになるから、単に栄養バランスやカロリーの問題だけではありません。 

万物全てに意識・命があり個性役割を持っています。
そして意識にはエネルギーがあります、それがアリガタイ愛の犠牲のエネルギーです。
だから人間がアリガタイ意識で食したり活用消費していればそれらは成仏することできます。 すなわち完全燃焼しますからCO2のような弊害や副作用は出ません。
だから空気や水をアリガタイと使っていれば、アリガタイは愛であり完全ですから、どんなに多く使おうが空気や水が汚染されることはありません。 もちろん化石燃料をアリガタイでどんどん使っても大丈夫です。 しかもアリガタイは愛ですから、アリガタイ意識が高まるほど、既に汚染されたものまでが成仏・浄化再生されます。
すなわち愛が光りであれば、その光によって闇が消えていくことになります

要するに、エコ生活や太陽光発電や風力発電や植林や排出ガス規制の問題ではなくて、人間意識のアリガタイ心の問題なのです。
だから今の科学・技術や医学にはアリガタイがありません。 社会や企業や教育指導にもアリガタイはありません。 だから全てが不完全なのです。 
不完全だから、愛が無いから、アリガタイが無いから、全てが不完全燃焼になって成仏できないでいるのです。 成仏できないから浮遊するのです。 
しかも、宇宙・自然界の愛(光)で再生(生まれ変わり・転生)される質や量よりも浮遊する質や量が多いから、人間界や自然界(意識)が汚染されて(闇に覆われて)いるのです。

此れまでの宗教・科学・医学や諸々の形には愛はありません。 それらに愛が無いから愛が証明できなかったのです。 だから神や愛が神秘的・抽象的にされ、あいまいで、中途半端で矛盾したりもしています。 
しかし、良い悪いを持たない完全真理・完全意識によって、此れまでとは違うまったく新しい「愛の科学」常温核融合で神や愛を科学的に実在で証明しています。
それが山田耕栄さんの「神は常温核融合」の著書で書かれているし、「人類には早すぎたかもしれない」ファバラ・常温核融合エネルギーの実在する形・商品で証明されています。
(その事例として)人間の食の犠牲となっている肉や魚や野菜たちの意識・意識体もその役割を完全に果たそうとしているのに、肝心の人間にアリガタイ心・意識が無いから、その人間の不完全な意識ストレス・集合意識の影響で食材本来の味・エネルギーを出し切れていません。 
そこで完全意識エネルギーのファバラ「味かくし」を使えば食材本来の持っている味・役割が出てきて、それらが美味しくなったと感じることができているのです。

だから、すべてが意識であり、すべてが命であり、すべてが愛であり、すべてがエネルギーである事を知り、それらのお蔭様やお互い様のアリガタイを知ることになります。

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