孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不満を出せばその上塗り、不安心配も上塗り、欲は欲の上塗りをします。

2012年08月18日 | Weblog
人間界に良い悪いで判断する矛盾意識・不完全意識があるのも宇宙・神の仕組みの必然からしてあるものですから、完全真理を学び知ったからとて、無理に良い悪いで判断しないように心がけて実践するものではありません。

だから不完全意識であってもいいから、まずは過去・現在・未来に執着しない、すなわち後悔しない、欲張り無理しない、思い思惑をもたない、その自然体で生きる事になります。

その自然体で生きる中に自己縮小が言われていますから、そこで自力を多く使い他力をあてにしないことになりますが、その他力を多く使うことで自己拡大してきたことの事実を知ることになり、その苦楽・喜怒哀楽の矛盾で生きることで精神・感情・肉体を酷使して、自他共に、心身ともに「お疲れ」になっている、その事実を気付き知ることになります。

その自己縮小が田舎暮らしの形ではなくして、また質素倹約な形ではなくして、また自給自足の形を目指すものではありません。
しかしその田舎暮らしによって自力を多く使い他力(人様の力や便利な道具)をあてにしなくても生きていけることを学び知ることになります。

だから昔話に出てくるように、山へ芝刈りに行き川で洗濯するようなことも出来る、その「自力の必要性」を知り、それを実際に味わえば、それはそれで味わい深いものがありますから、むやみに他力を使うことが減ってきます。

そして生きていく生活の中に自力で解決できることが多くなりその他力を使わないほどに不平不満になることが減っている事に気付きます。
そしてその不平不満が減るほどに自己満足が必要なくなり趣味嗜好娯楽が必要なくなります。
すなわち不満と満足の裏表の関係にあるのです。

そしていつの間にやら欲張ることも無理することも執着することも無くなり、自分の自力の範囲の中で(私の場合は独自独歩で)生活している事に気付き、自力によって生きていける自信が出てきます。

その欲・無理・執着の無い自力で生きる自信が出来ると成り行き任せの自然体で生きることになり、必然やご縁以外の「自己満足と不平不満」の原因となる事柄からしぜんと離れていくことにもなります。
だから食って寝て糞をしながら生きているだけで十分に思えるようになるのです。

そこで気付いたのが、今は必然としていないことをあえてやる事は趣味嗜好娯楽の類になることです。
だから鶏やヤギや犬猫を飼うことでその苦楽・満足と不満を味わう事になりましたし、簡単便利な道具があるのに無理に手仕事にすることでもないことに気付きましたから、生活費に余裕がある限りにおいて簡単便利で快適になる道具や器具を購入し、それを使い尽くすことにし、貧乏からそれらの物が再購入できなくなればそこで自力でやればいいことなのです。

そこで物品購入や趣味嗜好娯楽のために収入を増やすのではなく、また有る物が無くなっても平気で暮らせれば自己縮小意識につながっていくのです。
そのどうでもいいような趣味嗜好娯楽を減らして、必然とする道具や器具を購入したり業者に依頼することがあってもかまわないのです。
とにかく欲張らない、無理しない、執着しないことから自己縮小はしぜんと進んでいくのです。

ところがそれら必然とする物品や業者に依頼する他力依存よりも、趣味嗜好娯楽・刺激変化で自己満足したいがために他力依存したり不必要な出費が増したり、また必然以上に医科学・薬剤に頼ったり、または宗教や神がかり奇跡に依存することからして、その「良いとこ取り」の裏が出て来て後々にその問題を招き入れることになっているのです。

更に身近な人間関係に依存することでその人間関係をも壊している事実にも気付いていません。

ところで精神世界を学び知ることを意識していない人でも「欲」がすべての問題の原因であることは概ね知っています。
なのに精神世界に係わっていながらも欲から脱却できていない人が殆どなのです。
だから不平不満も出るし困ったことにも思っているのですが、それを自分で解決しないで他力に依存する事になっているのです。

すなわち欲から出たことに欲を重ねて「欲の上塗り」をしている事に気付いていません。
だから信仰宗教・霊力や超能力パワーに頼って更に問題を上塗りすることにもなっているのです。

その不平不満も、困ったも、死にたいのも、自分の中の欲から出ているのです。
それを人様や先祖や霊界や神仏に摩り替えるから、その裏が出て、それらに頼ることにもなっているのに、それさえも気付いていません。

自分の中のものは自分でしか取り除くことは出来ません。

またその先祖や霊界や神仏真理を語る者の自らの不完全意識に気付いていないし、まして自らの持つ能力を人様に見せびらかしたりして収入を得ている形や名声を得ている形になっているくらいですから、この世のことは「もうどうしようも」ないのです。

だから自分で解決するしかないのです。

そのためには「欲」を捨てるしかありません。
その欲を捨てて困った事になれば、それも欲の裏が出ているのです。
すなわち欲を捨てれば「良くなる」と思っていたからです。
良くなる=欲なる=欲になる、のですから上塗りになります。

その欲を捨てることが無理であれば、有るものが失われていく事に執着しなければいいのです。
それさえダメならば、どうせ死ぬ時に手放すのだから、それ以前のその有事の際にも、失われていくことに執着しなければいいのです。
それさえダメならば、その執着を持ったままに死んでいくしかありません。
そして成仏できるか否かが仕組まれるのを待つだけです。

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