過去のことは既に終わっていますからそれが記憶に残っているだけになります。
だから既に本物では無くして実在しない夢の如くになります。
然るに皆さんの生活がこのままにずーっと続けば何ら問題ありませんが、もしも有事によってその生活が一変したら、その一変した生活を味わい続けることになりますから、それまでの過去は無かったこと(無駄なこと)同然になります。
そして(それを感覚的に言えば)過去がどんなに良くてもそれは仮の姿&偽物だったことになります。
然るに自己満足して喜んでいてもそこで不満が出るとその自己満足が消えて不平不満が現実になるのと同じです。
然るに過去の自己満足は偽物になり不平不満が本物に早や変わりするわけです。
然るにその自己満足と不平不満の繰り返しで生きているのが私たちです。
そして健康だったのが闘病生活に変われば、然るに過去の健康が闘病生活をするための仮の姿&偽物だったことになり、然るにその現在の闘病生活が本物になりその苦をし切りに味わうことになります。
しかしそれでも生きていればそれでいいと言う心持からして悔やまずにその闘病生活を素直に味わうならばその苦を味わうことにはなりません。
また前もって健康に生きることを悟りその実践をし続けて死に至ればその健康が(矛盾のない)本物のままにずーっと味わい続けて死んだ事になります。
然るにその健康のアリガタサに悟りを開きます。
然るに不自由を味わい続けていたのが自由を味わい知れば、然るにその自由のアリガタサに悟りを開きます。
しかし不自由のままに終われば自由のアリガタサに気付かずにして終わります。
然るに欲張らないで生きてきたことからして楽に生きることができれば、その過去の苦楽&喜怒哀楽で生きていたそのお粗末さに気付き悟りを開きます。
しかし欲張り続けているならばその苦楽を味わい続けることになります。
また有事が起きても、それを有事に思えないそれだけの自力自信精神力があればその有事に動揺することも無く大して気になりません。
然るに有事が起きたのにそれが平常心のままに続くことにその悟り開きます。
然るに(過去がどうであれ)今が本物ですから、然るに「終わり良ければすべて良し」の結果になります。
だから既に本物では無くして実在しない夢の如くになります。
然るに皆さんの生活がこのままにずーっと続けば何ら問題ありませんが、もしも有事によってその生活が一変したら、その一変した生活を味わい続けることになりますから、それまでの過去は無かったこと(無駄なこと)同然になります。
そして(それを感覚的に言えば)過去がどんなに良くてもそれは仮の姿&偽物だったことになります。
然るに自己満足して喜んでいてもそこで不満が出るとその自己満足が消えて不平不満が現実になるのと同じです。
然るに過去の自己満足は偽物になり不平不満が本物に早や変わりするわけです。
然るにその自己満足と不平不満の繰り返しで生きているのが私たちです。
そして健康だったのが闘病生活に変われば、然るに過去の健康が闘病生活をするための仮の姿&偽物だったことになり、然るにその現在の闘病生活が本物になりその苦をし切りに味わうことになります。
しかしそれでも生きていればそれでいいと言う心持からして悔やまずにその闘病生活を素直に味わうならばその苦を味わうことにはなりません。
また前もって健康に生きることを悟りその実践をし続けて死に至ればその健康が(矛盾のない)本物のままにずーっと味わい続けて死んだ事になります。
然るにその健康のアリガタサに悟りを開きます。
然るに不自由を味わい続けていたのが自由を味わい知れば、然るにその自由のアリガタサに悟りを開きます。
しかし不自由のままに終われば自由のアリガタサに気付かずにして終わります。
然るに欲張らないで生きてきたことからして楽に生きることができれば、その過去の苦楽&喜怒哀楽で生きていたそのお粗末さに気付き悟りを開きます。
しかし欲張り続けているならばその苦楽を味わい続けることになります。
また有事が起きても、それを有事に思えないそれだけの自力自信精神力があればその有事に動揺することも無く大して気になりません。
然るに有事が起きたのにそれが平常心のままに続くことにその悟り開きます。
然るに(過去がどうであれ)今が本物ですから、然るに「終わり良ければすべて良し」の結果になります。