私の過去・足跡<しがらみ>から離れて自由勝手気ままに暮らし始めて10年が過ぎましたが、ただ食って寝て糞をしているだけの生産性の低い生活に馴染んだおかげもあって、過去の贅沢三昧の生活が如何に馬鹿げたことかを知り、その自己満足と不平不満の繰り返しで生きてきたことの虚しさにも気付きました。
しかしその贅沢三昧の満足と不満の繰り返しで生きている時は、それが当然のように思っていたのだから、それが馬鹿げたことで虚しいとは気付いていなかったと言う事になるわけです。
すなわち表の一面だけを味わっているときは、それしか知らないから、それが当然のことのように思えるわけです。
※それだから自らの意識を改革変革するには、完全意識と不完全意識の両面・矛盾を学び知り味わうことが必要なわけです。
それだからこそ、此れまでの自己拡大から反対の自己縮小に向けた実践が言われているわけです。
そして実際に自己縮小している者だけに味わい気付くことにあるのが、自己拡大していた当時の苦楽・喜怒哀楽が「どうでもいい」ことだと思い気づくことです。
そうなればもう二度と過去のような自己満足と不平不満の繰り返しで生きるような馬鹿げたことはしたく無くなるわけです。
だから自己縮小を「味わい知る」ことから<意識改革>が始まるのです。
しかしその自己縮小の実践が我が身だけなら何とかできそうだが、身近な恋人や家族を巻き込む心配やそれを無理押しして離別別居・離縁離婚に至ることになるかもしれませんし、また生活に貧したり、自力・自信の無さが重なって、気楽どころか苦になるかもしれません。
だから急ぎ慌てる自己縮小の実践には問題が多く出てくるでしょうから無理なわけです。
そこで肝心になってくるのが実践意識を持ち続けることです。
そしてこの世の矛盾を多く学び知り気付き、それらがどうでもいい事に思えるようになることです。
そして必然ご縁の成り行きに任す自信を持つことです。
しかし一般世間の中で暮らしていれば実践意識も薄らぎ、成り行き任せどころか欲さえも持って目指すことにもなりやすいのです。
だから先ずは完全真理を深く学び知ることだと書いているのですが、それにもやはり学び知った事を実践しなければ深く気付き知ることにもなりません、だから常々から実践意識で暮らす事を書いているのです。
すなわち今の生活・結果を意識するのではなくして、原因である「意識・命」を学び知る実践意識が必要なわけです。
とわ言っても一般世間や家族の中にいれば、やはり目の前の生活に意識がいきますから実践意識は二番手になり、実践しているようだが中身の無い実践になっていて、ただ言うだけ聞くだけの真理になるのです。
だから無理しないで素朴に生きて、意識を開放し自由に生きて、心静かな余裕で生きることが重要になってくるのです。
・・・執着し気疲れしている人には宇宙の仕組み・必然ご縁に気付かずに見逃す場合が多いようです。
何を「意識」しているのか、その意識に「すべて」がかかっているのです。
だからこの世の不完全で矛盾のある「どうでもいい、どうしようもない」結果・形を気にしないで(執着しないで)、個性のままに呑気気楽に暮らせる自由意識と素朴に生きることが先だとも書いているのです。
そして(どうでもいい事に)<欲>を持つから、人間に必要な「自由」が失われている事を知るべきだとも書いているのです。
その欲のない・執着のない意識の開放・自由によって、今までとはまったく違った生き方になり(自己縮小になり)、その思うがままの自由とゆとりのある実践・素朴な生き方からして、学び知った完全真理が説くところの(何ら特別のない)宇宙・神・万物の「意識・命」の実在を学び知り納得確信・悟ることにもなり、此れまで(誰もが)知らなかった<完全>な「宇宙・神」の(信じるか否かではない)真実を<知る>事にもなり、それが「鬼に金棒」の自信・自力に満ち、その無理のない、余計な事を気にしない、独自独歩の揺るぎない、意識改革への一本道の生き方にも変わっていくのです。
しかしその贅沢三昧の満足と不満の繰り返しで生きている時は、それが当然のように思っていたのだから、それが馬鹿げたことで虚しいとは気付いていなかったと言う事になるわけです。
すなわち表の一面だけを味わっているときは、それしか知らないから、それが当然のことのように思えるわけです。
※それだから自らの意識を改革変革するには、完全意識と不完全意識の両面・矛盾を学び知り味わうことが必要なわけです。
それだからこそ、此れまでの自己拡大から反対の自己縮小に向けた実践が言われているわけです。
そして実際に自己縮小している者だけに味わい気付くことにあるのが、自己拡大していた当時の苦楽・喜怒哀楽が「どうでもいい」ことだと思い気づくことです。
そうなればもう二度と過去のような自己満足と不平不満の繰り返しで生きるような馬鹿げたことはしたく無くなるわけです。
だから自己縮小を「味わい知る」ことから<意識改革>が始まるのです。
しかしその自己縮小の実践が我が身だけなら何とかできそうだが、身近な恋人や家族を巻き込む心配やそれを無理押しして離別別居・離縁離婚に至ることになるかもしれませんし、また生活に貧したり、自力・自信の無さが重なって、気楽どころか苦になるかもしれません。
だから急ぎ慌てる自己縮小の実践には問題が多く出てくるでしょうから無理なわけです。
そこで肝心になってくるのが実践意識を持ち続けることです。
そしてこの世の矛盾を多く学び知り気付き、それらがどうでもいい事に思えるようになることです。
そして必然ご縁の成り行きに任す自信を持つことです。
しかし一般世間の中で暮らしていれば実践意識も薄らぎ、成り行き任せどころか欲さえも持って目指すことにもなりやすいのです。
だから先ずは完全真理を深く学び知ることだと書いているのですが、それにもやはり学び知った事を実践しなければ深く気付き知ることにもなりません、だから常々から実践意識で暮らす事を書いているのです。
すなわち今の生活・結果を意識するのではなくして、原因である「意識・命」を学び知る実践意識が必要なわけです。
とわ言っても一般世間や家族の中にいれば、やはり目の前の生活に意識がいきますから実践意識は二番手になり、実践しているようだが中身の無い実践になっていて、ただ言うだけ聞くだけの真理になるのです。
だから無理しないで素朴に生きて、意識を開放し自由に生きて、心静かな余裕で生きることが重要になってくるのです。
・・・執着し気疲れしている人には宇宙の仕組み・必然ご縁に気付かずに見逃す場合が多いようです。
何を「意識」しているのか、その意識に「すべて」がかかっているのです。
だからこの世の不完全で矛盾のある「どうでもいい、どうしようもない」結果・形を気にしないで(執着しないで)、個性のままに呑気気楽に暮らせる自由意識と素朴に生きることが先だとも書いているのです。
そして(どうでもいい事に)<欲>を持つから、人間に必要な「自由」が失われている事を知るべきだとも書いているのです。
その欲のない・執着のない意識の開放・自由によって、今までとはまったく違った生き方になり(自己縮小になり)、その思うがままの自由とゆとりのある実践・素朴な生き方からして、学び知った完全真理が説くところの(何ら特別のない)宇宙・神・万物の「意識・命」の実在を学び知り納得確信・悟ることにもなり、此れまで(誰もが)知らなかった<完全>な「宇宙・神」の(信じるか否かではない)真実を<知る>事にもなり、それが「鬼に金棒」の自信・自力に満ち、その無理のない、余計な事を気にしない、独自独歩の揺るぎない、意識改革への一本道の生き方にも変わっていくのです。