完全真理を<知る>ことから始まり、そして実践で<気付く>ことから自覚・悟りになっていきますが、その気付きは人それぞれの実践力・意識力・感性に掛かっていると言ってもいいでしょう。
だから「良い悪い」で判断していていることに自らが気付かなければ実践しているとは言えません。
このブログで完全真理を紹介している私も個人意識丸出しで生きていますから、良い悪いで判断していることも多々あるし、それに気付けずに、時にはそれを正当化して事実を見ているとか事実を言っているだけだと思いたがる勝手なところもありますし、執着していることはないと思っていたのにずーっと以前から執着し続けていたことがあることに気付いたりもしています。
肉牛の飼育のアルバイトに行っていると、その雇用主の後始末の悪さが常に有りますから、その仕事の後を引き継いだ私にそれを片付ける余分な仕事・時間が増えたり、エサを入れて運ぶバケツやの備品や掃除道具などをあちこち探し回っても中々見つからなかったりすることが続くと(気にしないつもりでいても)やはり雇用主の癖の悪さに苛立っこともあります。
と言うことは、私が正しくて雇用主の方が間違っているとして良い悪いで判断したことになります。
しかしその事に私が気付き、そして悔い改めて、執着しなくなれば、その苛立ちも(自分の過ちに気付いたことで)直ぐに治まり、また雇用主の癖の悪さが尚更に気にならなくなり、その内に癖の悪いことを内心で笑い飛ばすことにもなります。
そんな事が板に付いてくると、いつ何処で誰と同じようなことがあっても、私が正しいと否定反発して執着することもなくなり、そのままに終わるようにもなります。
ただそうなるにも足早に一足飛びには何事も無理ですから、やはり執着している事に気付き悔い改めて、そこで執着しなくなるだけの実践力・意識力を養う必要があるようです。
また(雇用主の事例のように)概ね自分が正しくて相手が悪いと思ったことは執着になりやすいのですが、しかしその執着に気付くことが出来れば、自らのことは自分の中で修正できますから大事には至りません。
しかし執着に気付かなければそれがいつまでも不平不満になるのです。
そして面白くない不機嫌が出てきて、またそれに執着することで尚更に不機嫌が長引きますから、その相手ではなくして、自分だけが精神的負担で≪損≫をしている格好・結果になっているのですが・・・その事さえも気付かなければ・・・いつまでも私が正しいと長引かせることになり、己の不機嫌を何時までも引き伸ばし持続させることになって、その<損の上塗り>までしていることになります。
そこで皆と同じ個人意識で生きていても、何かと「気付く」ことが多ければ、その分だけ無理も執着もないことからして、自由勝手気まま・呑気気楽で楽ちんだとも書いているわけです。
そしてまた不完全意識の人間関係を知っているだけに、無理も無駄も執着も無いその必然ご縁の仕組みに任せて、来るものは拒まず去る者は追わずの成り行き任せにもしているから、そのごく限られた人間関係だけになりますが、それだけに私の性格個性・波長と似通っているところもあり、その分だけ否定反発することも少なくて、互いに穏やかに接することが出来るだけに、その限られた人間関係だけで十分だとも書いているのです。
だから何事も「気付き」が必要ですし、その気付きが「無理」や「執着」を無くしてくれるのです。
しかし多くの方々は概ね日々雑多の中であれこれと忙しく繰り広げていますから、その雑多の中で気付かないままに良い悪いで判断していることも多いだろうし、無理や無駄や余計な事に執着している事にも気付けなかったりと、日々の生活の忙しさに意識が酷使されてその分だけ気付きも少ないのではないでしょうか。
だから「気付く」為にも無理や執着のない<素朴>が言われているのです。
その「気付き」が無ければ完全真理は「絵に書いた餅」になり意味を成しません。
だから「良い悪い」で判断していていることに自らが気付かなければ実践しているとは言えません。
このブログで完全真理を紹介している私も個人意識丸出しで生きていますから、良い悪いで判断していることも多々あるし、それに気付けずに、時にはそれを正当化して事実を見ているとか事実を言っているだけだと思いたがる勝手なところもありますし、執着していることはないと思っていたのにずーっと以前から執着し続けていたことがあることに気付いたりもしています。
肉牛の飼育のアルバイトに行っていると、その雇用主の後始末の悪さが常に有りますから、その仕事の後を引き継いだ私にそれを片付ける余分な仕事・時間が増えたり、エサを入れて運ぶバケツやの備品や掃除道具などをあちこち探し回っても中々見つからなかったりすることが続くと(気にしないつもりでいても)やはり雇用主の癖の悪さに苛立っこともあります。
と言うことは、私が正しくて雇用主の方が間違っているとして良い悪いで判断したことになります。
しかしその事に私が気付き、そして悔い改めて、執着しなくなれば、その苛立ちも(自分の過ちに気付いたことで)直ぐに治まり、また雇用主の癖の悪さが尚更に気にならなくなり、その内に癖の悪いことを内心で笑い飛ばすことにもなります。
そんな事が板に付いてくると、いつ何処で誰と同じようなことがあっても、私が正しいと否定反発して執着することもなくなり、そのままに終わるようにもなります。
ただそうなるにも足早に一足飛びには何事も無理ですから、やはり執着している事に気付き悔い改めて、そこで執着しなくなるだけの実践力・意識力を養う必要があるようです。
また(雇用主の事例のように)概ね自分が正しくて相手が悪いと思ったことは執着になりやすいのですが、しかしその執着に気付くことが出来れば、自らのことは自分の中で修正できますから大事には至りません。
しかし執着に気付かなければそれがいつまでも不平不満になるのです。
そして面白くない不機嫌が出てきて、またそれに執着することで尚更に不機嫌が長引きますから、その相手ではなくして、自分だけが精神的負担で≪損≫をしている格好・結果になっているのですが・・・その事さえも気付かなければ・・・いつまでも私が正しいと長引かせることになり、己の不機嫌を何時までも引き伸ばし持続させることになって、その<損の上塗り>までしていることになります。
そこで皆と同じ個人意識で生きていても、何かと「気付く」ことが多ければ、その分だけ無理も執着もないことからして、自由勝手気まま・呑気気楽で楽ちんだとも書いているわけです。
そしてまた不完全意識の人間関係を知っているだけに、無理も無駄も執着も無いその必然ご縁の仕組みに任せて、来るものは拒まず去る者は追わずの成り行き任せにもしているから、そのごく限られた人間関係だけになりますが、それだけに私の性格個性・波長と似通っているところもあり、その分だけ否定反発することも少なくて、互いに穏やかに接することが出来るだけに、その限られた人間関係だけで十分だとも書いているのです。
だから何事も「気付き」が必要ですし、その気付きが「無理」や「執着」を無くしてくれるのです。
しかし多くの方々は概ね日々雑多の中であれこれと忙しく繰り広げていますから、その雑多の中で気付かないままに良い悪いで判断していることも多いだろうし、無理や無駄や余計な事に執着している事にも気付けなかったりと、日々の生活の忙しさに意識が酷使されてその分だけ気付きも少ないのではないでしょうか。
だから「気付く」為にも無理や執着のない<素朴>が言われているのです。
その「気付き」が無ければ完全真理は「絵に書いた餅」になり意味を成しません。