完全真理を学び知れば独自独歩で歩めると書いているのは、皆から「離れ」なさいという意味ではありませんで、わざわざ皆して一堂に集ることがなくても大丈夫なこと、集りたければ集りたい者が集ればいいこと、集りたくなければ集らなくても大丈夫なこと、何の制約も制限も指図も取り決めもないこと、皆が自由で平等で、自分が思うままに実践し学び知りながら一人歩きが出来る事を意味します。
だから、いつ何処で何をしていようが、その生活の中で自らが「気付け」ばそれでいいのです。
だから完全真理の基本・完全を学び知れば、あとは自らの実践意識で、この世やその人間関係の不完全さや自他共に持つその不完全意識に気付いていけばいいのです。
また人それぞれですから、例え耕栄さんを含めたスタッフや仲間内が説明したことであっても、それをそっくり真似ることも、また丸呑み妄信することもなく、また否定反発する事無く、その言われたことに矛盾や妥協や言い訳・正当化が有るか無いか、事実か否か、完全か否かを自分なりに気付き見定め、それが納得確信できるまでになればいいのです。 それが自力・自信になるのです。
・・・だから他者「洗脳」されたり、妄信・自己洗脳になることはありませんから安心安全なのです。
私のブログで判るように(私事が多く)、耕栄さんの説明を鵜呑み丸呑み・丸写しに書いてはいません。
また完全真理の基本説明以外の内容はその人の個の思いになりますから不完全で矛盾や妥協が含まれています。
・・・だから(耕栄さんの説明内容であっても)私なりに完全か否かを明確に書いています。
またこの世は似た者が集りやすい関係から言えば、このブログの愛読者であれば、私と波長が合っている人が多いと思いますし、耕栄さんで無ければならない人達にはこのブログに違和感を持つ場合もあります。
ところで過去に学んでいた霊界・想念の世界のときの霊能者でも完全真理の耕栄さんも言っていることですが、神の声が直接的に聞こえたりすることは絶対にありませんで、その宇宙・神の意識を受け取り・感じ取り・読み取ると言うような感じですが、それはあくまで宇宙・神が出しているエネルギー(光・オーラー・波動の類)をイメージ的に以心伝心のようになってその霊能者や耕栄さんの意識に伝わりそれを感じ取り読み取っているような感じですから、その感じ取り読み取る中にその霊能者や耕栄さんの思い意識が加わることにもなるのも当然ですし、しかもそれを人間の言葉にして説明するとなると、どうしてもその霊能者や耕栄さんが知っている知識・言葉を使うことになります。
だから宇宙・神は「ひとつ」なのに、過去も現在も古今東西にわたって、それぞれに違った神を語る者が現れ出ているのです。
すなわち人それぞれが受け取ったイメージを宗教的感覚・形に偶像化して、我こそ主なり神なり教祖なりと主張したり、また他を批評したり、比較競争することにもなっているのです。
しかも、それらから「完全な神」を知ることにならず、その矛盾や言い訳正当化しているところがあるのに、ただ言われた事を信じるだけ、また言われた事を守るだけ、その中に経典聖書を丸覚えすることがあったり、呪文にように唱えたり、形式にのっとりお祈りしたり祈願したり、金銭の出費が伴ったり、宣伝勧誘布教する事を求められたりと、何かと押し付けられたり制限制約束縛されることが多くあり、すべてが不完全です。
その絶え間なく出ている宇宙・神のエネルギーを(大病がきっかけで)山田耕栄さんの意識で感じ取り読み解くことが出来たのが、あるがままの宇宙・神の完全なる意識だったと言えるわけです。
そしてそれが此れまで誰も説かなかった「完全」なだけに、この世で始めての矛盾も妥協もない完全真理と言い表し、それを耕栄さんの知識・経験・思い・言葉・形でもって説いているのです。
そして「宇宙はひとつ」「すべてはひとつ」「すべては意識」「すべてに感謝」「あるがまま」「平等・自由・調和」「皆が神」などの諸々の言葉は先人達が既に使っていることであり、またその解釈・イメージに大きな違いはありません。
しかし耕栄さんが未だ知らない言葉があったり自らが自覚経験していなければその知らない事を人に説明できませんから、自らが学び知り自覚経験することも必要になりますが、それを補い手助けしてくれる人達も集ってきます。
また耕栄さん自らの創作文字・単語として「愛在」「ファバラ」「神は常温核融合」などがあるりますが、それ以前に使っている人がいても、それもどうでもいいことですし、他にも創作文字や単語・記号が使われているようですが、このワープロでは描き切れません。
その宇宙・神のエネルギーは万物皆が等しく受けているものですから、いつ何処で神を語る者が現れても不思議ではありませんし、また神を語るほどでなくても、生きている限りにおいて(自らの意識力によって)直感・感性・閃きのように感じ気付きが起きている筈です。
それが「すべてはひとつ」の宇宙・神の<意識の世界>が原因で仕組まれ起きている「必然」「ご縁」の<お仕組み>「気付き」でもあります。
それを宇宙の法則&自然の法則とも言っていますし、また「すべてがひとつ」につながって(網羅されて)いるから、その万物皆の意識エネルギー・情報伝達エネルギーが互いに絡み合って起きているとも言われる訳です。
だから偶然・奇遇・奇跡ではなくして、原因あっての結果、成るものは成る、成らないものは成らない、その原因と結果は同じで完全ですから、その宇宙の歯車どおりに仕組まれ成るように成っているだけです。
と言うことは偶然のように起きている<必然ご縁のお仕組み>が世間で言う「奇跡」でもあるのです。
そして人様が成す(他力型)奇跡で見える形・結果が変化することよりも、宇宙・神の仕組みの「奇跡」とも言える、その必然ご縁のお仕組みによって生きていく方向性・原因が変化するほうが(自力型)アリガタイことになるわけです。
そして宇宙・万物皆が命ある意識で生きていることからしてこの世は「意識の世界」ですから、その意識が原因でその結果が出ていると言われる訳です。
だから「意識力」「実践力」(原因)次第でその必然ご縁のお仕組みが起きていることだし、またそのお仕組みに気付けるか否かの意識力にも関わることなのです。
だから「すべてはひとつ」で「すべては意識」にあるのです。
ところでその意識は一つしかありませんから、諺のように「二兎追うものは一兎も得ず」の中途半端な結果になるのです。
だから生活そのものを意識しているのか、精神世界・意識の世界を意識して生きているのかでその結果も違ってくるのです。
すなわち見える結果が大事なのか、それとも見えていない原因「意識」を知ることが大切なのかが問われているとも言えるのです。
また生きる事に不自由していないこの地球であるがままにその地上の天国を味わうのか、それが満足できずに欲を出してその不平不満とその自己満足で生きていくのかが、今の私達に問われているとも書いているのです。
そこで欲のない者同士が集まれば、自らが自己縮小した者同士が集まれば(不完全意識であっても)その調和意識・自由平等意識でもって(今まで味わったことが無いような)人間関係の醍醐味を味わえることにもなると書いているのです。
だから、いつ何処で何をしていようが、その生活の中で自らが「気付け」ばそれでいいのです。
だから完全真理の基本・完全を学び知れば、あとは自らの実践意識で、この世やその人間関係の不完全さや自他共に持つその不完全意識に気付いていけばいいのです。
また人それぞれですから、例え耕栄さんを含めたスタッフや仲間内が説明したことであっても、それをそっくり真似ることも、また丸呑み妄信することもなく、また否定反発する事無く、その言われたことに矛盾や妥協や言い訳・正当化が有るか無いか、事実か否か、完全か否かを自分なりに気付き見定め、それが納得確信できるまでになればいいのです。 それが自力・自信になるのです。
・・・だから他者「洗脳」されたり、妄信・自己洗脳になることはありませんから安心安全なのです。
私のブログで判るように(私事が多く)、耕栄さんの説明を鵜呑み丸呑み・丸写しに書いてはいません。
また完全真理の基本説明以外の内容はその人の個の思いになりますから不完全で矛盾や妥協が含まれています。
・・・だから(耕栄さんの説明内容であっても)私なりに完全か否かを明確に書いています。
またこの世は似た者が集りやすい関係から言えば、このブログの愛読者であれば、私と波長が合っている人が多いと思いますし、耕栄さんで無ければならない人達にはこのブログに違和感を持つ場合もあります。
ところで過去に学んでいた霊界・想念の世界のときの霊能者でも完全真理の耕栄さんも言っていることですが、神の声が直接的に聞こえたりすることは絶対にありませんで、その宇宙・神の意識を受け取り・感じ取り・読み取ると言うような感じですが、それはあくまで宇宙・神が出しているエネルギー(光・オーラー・波動の類)をイメージ的に以心伝心のようになってその霊能者や耕栄さんの意識に伝わりそれを感じ取り読み取っているような感じですから、その感じ取り読み取る中にその霊能者や耕栄さんの思い意識が加わることにもなるのも当然ですし、しかもそれを人間の言葉にして説明するとなると、どうしてもその霊能者や耕栄さんが知っている知識・言葉を使うことになります。
だから宇宙・神は「ひとつ」なのに、過去も現在も古今東西にわたって、それぞれに違った神を語る者が現れ出ているのです。
すなわち人それぞれが受け取ったイメージを宗教的感覚・形に偶像化して、我こそ主なり神なり教祖なりと主張したり、また他を批評したり、比較競争することにもなっているのです。
しかも、それらから「完全な神」を知ることにならず、その矛盾や言い訳正当化しているところがあるのに、ただ言われた事を信じるだけ、また言われた事を守るだけ、その中に経典聖書を丸覚えすることがあったり、呪文にように唱えたり、形式にのっとりお祈りしたり祈願したり、金銭の出費が伴ったり、宣伝勧誘布教する事を求められたりと、何かと押し付けられたり制限制約束縛されることが多くあり、すべてが不完全です。
その絶え間なく出ている宇宙・神のエネルギーを(大病がきっかけで)山田耕栄さんの意識で感じ取り読み解くことが出来たのが、あるがままの宇宙・神の完全なる意識だったと言えるわけです。
そしてそれが此れまで誰も説かなかった「完全」なだけに、この世で始めての矛盾も妥協もない完全真理と言い表し、それを耕栄さんの知識・経験・思い・言葉・形でもって説いているのです。
そして「宇宙はひとつ」「すべてはひとつ」「すべては意識」「すべてに感謝」「あるがまま」「平等・自由・調和」「皆が神」などの諸々の言葉は先人達が既に使っていることであり、またその解釈・イメージに大きな違いはありません。
しかし耕栄さんが未だ知らない言葉があったり自らが自覚経験していなければその知らない事を人に説明できませんから、自らが学び知り自覚経験することも必要になりますが、それを補い手助けしてくれる人達も集ってきます。
また耕栄さん自らの創作文字・単語として「愛在」「ファバラ」「神は常温核融合」などがあるりますが、それ以前に使っている人がいても、それもどうでもいいことですし、他にも創作文字や単語・記号が使われているようですが、このワープロでは描き切れません。
その宇宙・神のエネルギーは万物皆が等しく受けているものですから、いつ何処で神を語る者が現れても不思議ではありませんし、また神を語るほどでなくても、生きている限りにおいて(自らの意識力によって)直感・感性・閃きのように感じ気付きが起きている筈です。
それが「すべてはひとつ」の宇宙・神の<意識の世界>が原因で仕組まれ起きている「必然」「ご縁」の<お仕組み>「気付き」でもあります。
それを宇宙の法則&自然の法則とも言っていますし、また「すべてがひとつ」につながって(網羅されて)いるから、その万物皆の意識エネルギー・情報伝達エネルギーが互いに絡み合って起きているとも言われる訳です。
だから偶然・奇遇・奇跡ではなくして、原因あっての結果、成るものは成る、成らないものは成らない、その原因と結果は同じで完全ですから、その宇宙の歯車どおりに仕組まれ成るように成っているだけです。
と言うことは偶然のように起きている<必然ご縁のお仕組み>が世間で言う「奇跡」でもあるのです。
そして人様が成す(他力型)奇跡で見える形・結果が変化することよりも、宇宙・神の仕組みの「奇跡」とも言える、その必然ご縁のお仕組みによって生きていく方向性・原因が変化するほうが(自力型)アリガタイことになるわけです。
そして宇宙・万物皆が命ある意識で生きていることからしてこの世は「意識の世界」ですから、その意識が原因でその結果が出ていると言われる訳です。
だから「意識力」「実践力」(原因)次第でその必然ご縁のお仕組みが起きていることだし、またそのお仕組みに気付けるか否かの意識力にも関わることなのです。
だから「すべてはひとつ」で「すべては意識」にあるのです。
ところでその意識は一つしかありませんから、諺のように「二兎追うものは一兎も得ず」の中途半端な結果になるのです。
だから生活そのものを意識しているのか、精神世界・意識の世界を意識して生きているのかでその結果も違ってくるのです。
すなわち見える結果が大事なのか、それとも見えていない原因「意識」を知ることが大切なのかが問われているとも言えるのです。
また生きる事に不自由していないこの地球であるがままにその地上の天国を味わうのか、それが満足できずに欲を出してその不平不満とその自己満足で生きていくのかが、今の私達に問われているとも書いているのです。
そこで欲のない者同士が集まれば、自らが自己縮小した者同士が集まれば(不完全意識であっても)その調和意識・自由平等意識でもって(今まで味わったことが無いような)人間関係の醍醐味を味わえることにもなると書いているのです。