宇宙・神の意識・命から生まれた私達人間の意識・命に「肉体」を持ったことから、先ずは衣食住が必要になりました。
そしてその肉体を生かし続けるために病気や怪我や死を恐れていますから、その体調管理や危機管理にも気を使っています。
また「良い悪い」で分離判断・比較競争・評価していることからも、その肉体の見掛けを整えることや衣食住などの魅せ掛けをよくすることに相当気遣っています。
・・・だから(気付いていないかもしれないが)皆さん相当に気疲れしているはずです。
その「肉体」の次に「感情体」を持っているがためにその<好き嫌い>で判断することにもなりました。
だから、その肉体自体に関わることから外見上の見掛けや衣食住なども好き嫌いで判断しているし、見えていないはずの内面的・精神的なことまでも自分勝手な思い込み・先入観や噂話の丸呑みや見掛けだけで勝手に好き嫌いの判断をしている場合もあります。
だから姿形で見える「肉体」関係よりも、内面的で計り知れない裏表のある「感情」が伴うほうがもっと難解で厄介になります。
・・・その難解で厄介な事に意識・精神が相当酷使され疲れています。
その次に「精神体」でもって不平不満や自己満足の苦楽・喜怒哀楽を表す事にもなっています。
だからその確信・自信と不信・疑心暗鬼とが入り混じり精神不安定です。
またそれが原因で思い悩む苦悩や思考錯誤や葛藤にもなったりして精神が乱れ疲れてもいます。
どうやら疲れることばかりですね。
そこで「肉体」を気にしなくなればどうでしょう。
また「感情体」「精神体」が穏やかになったらどうでしょう。
・・・その自己縮小のことは何度も書いているので省略します・・・
だからそれらの事を完全真理で学び知りそして実践すれば自ずと答えが出てきます。
ところが多くの場合、学び知り知識にはなっているが実際の実践が出来ない状況下にあるのは確かなようです。
それが此れまで築いてきた形でありその人間関係です。
だから自己縮小できないままに止まっているということは、まだまだ完全真理を理解し切っていないとも言えます。
例えばあなた方の夫なり妻が、我がままで分からず屋でどうしようもない人なら、あなた方はどうしますか?
中にはそれでも何とかしようと試みるかもしれませんが、そんなに簡単には相手は変わりません。
それでも20年40年60年80年と死ぬまで頑張っても、その相手の意識は大して変わらずに大部分は無駄に終わります。
すなわち宇宙・神仏でも奇跡を成す人でも賢い人様であっても、他人の意識(原因)までは根本的に変えられないのです。
そこで相手の意識を変えられないのならば、そこで自分の意識を変えるしか無いのです。
その自分の意識なら、その本人の意識でもってその意識を変えることも可能になるわけです。
そして、我がままで分からず屋の相手のことを良い悪いで判断しなければ、それが気にならなくなり(問題もなくなり)、そこに何んもなかった事になります。
だから人は人、私は私なのです、だから私の意識・原因が変わらない限り「どうしようもない」のです。
その私の意識(原因)を変えるためには自己縮小の実践が必ず必要となります。
そうなると先程のように実践できる状況下でなければなりません。
しかしその状況が前と同じであれば、その我がままで分からず屋の相手のご機嫌を伺いながら自分だけの実践をしなければなりませんから、ある意味ではそれが真の実践や精神修行しているようなものですが、それを無理とも苦労とも思わずに聖人のようにやり遂げることが果たして凡人に出来るでしょうか(今は聖人でない者がその聖人の真似が出来るでしょうか)、だから途中で挫折したりあきらめたりして元の木阿弥に戻るかと思います。
・・・だから宇宙・神の仕組みの必然ご縁のお仕組みに任せた成り行き任せの楽ちんな実践を書いているのです。
何はともあれ先ずは「意識改革」することが先決なのですが、その実践が出来る状況下ではないという問題があります。
だから私は「自由」意識の必要性を何かと書いているのです。
・・・中には人間関係を壊さなければ自由になれない場合もあります。
そこでまた出てくる言葉が・・・人は人、私は私なのです。
だから人を大事にすることも必要ですし、また自分を大事にすることも必要ということになりますが・・・自他共に不完全意識だけに・・・その「二兎追うものは一兎も得ず」の無駄な結果になる事を学び知っていれば、(自由か否かの)いずれか一方を選択することになりますが、その選択も個人の自由ですし、どっちつかずの中途半端なままを選択するのも自由です。
・・・己に自由意識が無ければ平等も調和の意識になるのも到底無理です。
そして、この世で人間として生きている事がすべてではなくして、その「この世」の原因が<あの世>にあることも知らなければなりません。 すなわち、この世の人間の意識・命があの世の意識・命につながっている事を知ることです。
そしてこの世の命・意識は地球時間で終わりますが、あの世の意識・命となれば(昼夜・季節の時間の変化がない)「宇宙の時」で過ごすことになり、しかも永遠にその意識・命は続きますから、その「意識」が最も重要になるわけです。
すなわち、結果であるこの世を見て味わい感じ知り、その原因である「意識」を学ぶために地球があり人間が住んでいるのです。
だからこの世の結果を大いに味わい知ることも無駄にはなりませんが、それには「完全真理」を学び知りそれを実践して始めてそれが活かされることになるのです。
だから完全真理を学び知らないものやその実践が伴わずに終われば、この地球に悪さばかりして生き長らえ、それを無駄にした、宇宙で「落ちこぼれ」の意識体(命・意識)のままに人間を終える事になります。
そしてその肉体を生かし続けるために病気や怪我や死を恐れていますから、その体調管理や危機管理にも気を使っています。
また「良い悪い」で分離判断・比較競争・評価していることからも、その肉体の見掛けを整えることや衣食住などの魅せ掛けをよくすることに相当気遣っています。
・・・だから(気付いていないかもしれないが)皆さん相当に気疲れしているはずです。
その「肉体」の次に「感情体」を持っているがためにその<好き嫌い>で判断することにもなりました。
だから、その肉体自体に関わることから外見上の見掛けや衣食住なども好き嫌いで判断しているし、見えていないはずの内面的・精神的なことまでも自分勝手な思い込み・先入観や噂話の丸呑みや見掛けだけで勝手に好き嫌いの判断をしている場合もあります。
だから姿形で見える「肉体」関係よりも、内面的で計り知れない裏表のある「感情」が伴うほうがもっと難解で厄介になります。
・・・その難解で厄介な事に意識・精神が相当酷使され疲れています。
その次に「精神体」でもって不平不満や自己満足の苦楽・喜怒哀楽を表す事にもなっています。
だからその確信・自信と不信・疑心暗鬼とが入り混じり精神不安定です。
またそれが原因で思い悩む苦悩や思考錯誤や葛藤にもなったりして精神が乱れ疲れてもいます。
どうやら疲れることばかりですね。
そこで「肉体」を気にしなくなればどうでしょう。
また「感情体」「精神体」が穏やかになったらどうでしょう。
・・・その自己縮小のことは何度も書いているので省略します・・・
だからそれらの事を完全真理で学び知りそして実践すれば自ずと答えが出てきます。
ところが多くの場合、学び知り知識にはなっているが実際の実践が出来ない状況下にあるのは確かなようです。
それが此れまで築いてきた形でありその人間関係です。
だから自己縮小できないままに止まっているということは、まだまだ完全真理を理解し切っていないとも言えます。
例えばあなた方の夫なり妻が、我がままで分からず屋でどうしようもない人なら、あなた方はどうしますか?
中にはそれでも何とかしようと試みるかもしれませんが、そんなに簡単には相手は変わりません。
それでも20年40年60年80年と死ぬまで頑張っても、その相手の意識は大して変わらずに大部分は無駄に終わります。
すなわち宇宙・神仏でも奇跡を成す人でも賢い人様であっても、他人の意識(原因)までは根本的に変えられないのです。
そこで相手の意識を変えられないのならば、そこで自分の意識を変えるしか無いのです。
その自分の意識なら、その本人の意識でもってその意識を変えることも可能になるわけです。
そして、我がままで分からず屋の相手のことを良い悪いで判断しなければ、それが気にならなくなり(問題もなくなり)、そこに何んもなかった事になります。
だから人は人、私は私なのです、だから私の意識・原因が変わらない限り「どうしようもない」のです。
その私の意識(原因)を変えるためには自己縮小の実践が必ず必要となります。
そうなると先程のように実践できる状況下でなければなりません。
しかしその状況が前と同じであれば、その我がままで分からず屋の相手のご機嫌を伺いながら自分だけの実践をしなければなりませんから、ある意味ではそれが真の実践や精神修行しているようなものですが、それを無理とも苦労とも思わずに聖人のようにやり遂げることが果たして凡人に出来るでしょうか(今は聖人でない者がその聖人の真似が出来るでしょうか)、だから途中で挫折したりあきらめたりして元の木阿弥に戻るかと思います。
・・・だから宇宙・神の仕組みの必然ご縁のお仕組みに任せた成り行き任せの楽ちんな実践を書いているのです。
何はともあれ先ずは「意識改革」することが先決なのですが、その実践が出来る状況下ではないという問題があります。
だから私は「自由」意識の必要性を何かと書いているのです。
・・・中には人間関係を壊さなければ自由になれない場合もあります。
そこでまた出てくる言葉が・・・人は人、私は私なのです。
だから人を大事にすることも必要ですし、また自分を大事にすることも必要ということになりますが・・・自他共に不完全意識だけに・・・その「二兎追うものは一兎も得ず」の無駄な結果になる事を学び知っていれば、(自由か否かの)いずれか一方を選択することになりますが、その選択も個人の自由ですし、どっちつかずの中途半端なままを選択するのも自由です。
・・・己に自由意識が無ければ平等も調和の意識になるのも到底無理です。
そして、この世で人間として生きている事がすべてではなくして、その「この世」の原因が<あの世>にあることも知らなければなりません。 すなわち、この世の人間の意識・命があの世の意識・命につながっている事を知ることです。
そしてこの世の命・意識は地球時間で終わりますが、あの世の意識・命となれば(昼夜・季節の時間の変化がない)「宇宙の時」で過ごすことになり、しかも永遠にその意識・命は続きますから、その「意識」が最も重要になるわけです。
すなわち、結果であるこの世を見て味わい感じ知り、その原因である「意識」を学ぶために地球があり人間が住んでいるのです。
だからこの世の結果を大いに味わい知ることも無駄にはなりませんが、それには「完全真理」を学び知りそれを実践して始めてそれが活かされることになるのです。
だから完全真理を学び知らないものやその実践が伴わずに終われば、この地球に悪さばかりして生き長らえ、それを無駄にした、宇宙で「落ちこぼれ」の意識体(命・意識)のままに人間を終える事になります。