ハプニングだらけのWAR中島大会だったが、2号との交流はその後も順調に進んだ。
時には手渡しで、時には郵送で、プロレス絡みのビデオやグッズを交換するうちに、
お互いの自宅の電話番号も覚えた。WAR中島大会の10日後、96年4月29日の
新日本東京ドーム大会で、サスケがライガーを下してIWGPジュニアを初戴冠した時は
夜遅くまでプロレス談義の長電話にふけった思い出がある。
・・・しかし、これらの交流は、この時点では男女交際ではなく、
あくまでも「異性のプロレス仲間同士の付き合い」に過ぎなかった。
ところが、5月に入ると、ワタシはもはやそのレベルでは物足りなくなってきた。
2号を恋人に、そして妻に。すべては中島で味わったバ●トの感触のせいである
だが、この思いを告げるのは「ハイリスク・ハイリターン」の行為だった。
コトが上手く運べば、生涯の伴侶とプロレス仲間を一度に得られるが、
失敗に終われば、その両方をいっぺんに失うおそれがあったからだ。
思いを告げるべきか? 当分はこのままの交流を続けるべきか?
悩むワタシの背中を押した人物は、当時全盛を誇った「四天王」にいた。
というわけで、長い前置きを経て、思い出の中島大会の第2弾として、
今回は96年5月24日の全日本中島大会を語る。
この大会のメーンは、王者・三沢光晴×挑戦者・田上明の三冠ヘビー戦。
大会前の週刊プロレスに載った、田上の煽り文句を今も記憶している。
「三沢ファンは札幌においで。泣かせてあげるから」
自信にあふれた言葉に、「あの田上が三冠戦かあ」と感慨を覚えた。
・・・田上明。玉麒麟のしこ名で十両を7場所務めた後、87年にプロレス転向。
身長192センチの恵まれた体躯は、馬場さんのお気に入りだった(注1)。
しかし、若手時代は図体ばかりがデカい「ウドの大木」に過ぎず、
特に、角界の先輩でもある天龍からは、対戦のたびにボコボコにされて(注2)、
ファンの嘲笑と罵声を浴び続けていた。
だが、天龍ほかの選手が90年に全日本を大量離脱した後の台頭はめざましく、
96年当時はファンの誰もが「全日本四天王のひとり」と、その実力を認めていた。
・・・田上の成長に感慨を覚えた一方で、ワタシは「待てよ」とふと自問した。
「あのショッパかった田上が、もし全日本最高峰の三冠王者になれたら」
「オレも自分の人生に、もっと自信と夢を持ってもいいんじゃないか?」
こーして、ワタシは三沢×田上の三冠戦に、自分の運命を勝手に託して、
2号を誘って見届けることにした。この一戦、今もフィニッシュをはっきり覚えている。
当時の三沢の切り札だったコーナー上からのジャンピング・ネックブリーカー(注3)。
それを瞬時にカウンターで切り返しての豪快なのど輪落としで3カウント(注4)。
天才・三沢の上を行く田上の鮮やかなひらめきを見せられ、ワタシも腹を決めた。
・・・大会後、人もまばらな幌平橋駅の構内で、ワタシはストレートに2号に切り出した。
「結婚を前提に、オレと付き合って下さい」 さて、2号の返答や如何に?
(第5話につづく)
注1・88年1月の田上のデビュー戦のタッグ戦では、馬場さん自らがパートナーを務めた
注2・天龍の必殺技のパワーボムを食らい、衝撃と恐怖で脱●したというウワサが残る
注3・この技で、94年3月のタッグ戦では馬場さんから3カウントを奪った
注4・ちなみに、田上は96年、三冠王座奪取のほか、春のチャンピオンCの優勝と
世界タッグ王座奪取、冬の世界最強タッグ決定リーグ戦の優勝を果たして、
全日本における「グランドスラム」を達成。年齢も35歳とレスラーとして絶頂期だった