ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

リングサイドで恋をして・第4話/決意

2012年04月24日 | RSで恋をして

ハプニングだらけのWAR中島大会だったが、2号との交流はその後も順調に進んだ。

時には手渡しで、時には郵送で、プロレス絡みのビデオやグッズを交換するうちに、

お互いの自宅の電話番号も覚えた。WAR中島大会の10日後、96年4月29日の

新日本東京ドーム大会で、サスケがライガーを下してIWGPジュニアを初戴冠した時は

夜遅くまでプロレス談義の長電話にふけった思い出がある。

・・・しかし、これらの交流は、この時点では男女交際ではなく、

あくまでも「異性のプロレス仲間同士の付き合い」に過ぎなかった。

ところが、5月に入ると、ワタシはもはやそのレベルでは物足りなくなってきた。

2号を恋人に、そして妻に。すべては中島で味わったバ●トの感触のせいである

だが、この思いを告げるのは「ハイリスク・ハイリターン」の行為だった。

コトが上手く運べば、生涯の伴侶とプロレス仲間を一度に得られるが、

失敗に終われば、その両方をいっぺんに失うおそれがあったからだ。

思いを告げるべきか? 当分はこのままの交流を続けるべきか?

悩むワタシの背中を押した人物は、当時全盛を誇った「四天王」にいた。

というわけで、長い前置きを経て、思い出の中島大会の第2弾として、

今回は96年5月24日の全日本中島大会を語る。


この大会のメーンは、王者・三沢光晴×挑戦者・田上明の三冠ヘビー戦。

大会前の週刊プロレスに載った、田上の煽り文句を今も記憶している。

「三沢ファンは札幌においで。泣かせてあげるから」 

自信にあふれた言葉に、「あの田上が三冠戦かあ」と感慨を覚えた。

・・・田上明。玉麒麟のしこ名で十両を7場所務めた後、87年にプロレス転向。

身長192センチの恵まれた体躯は、馬場さんのお気に入りだった(注1)。

しかし、若手時代は図体ばかりがデカい「ウドの大木」に過ぎず、

特に、角界の先輩でもある天龍からは、対戦のたびにボコボコにされて(注2)、

ファンの嘲笑と罵声を浴び続けていた。

だが、天龍ほかの選手が90年に全日本を大量離脱した後の台頭はめざましく、

96年当時はファンの誰もが「全日本四天王のひとり」と、その実力を認めていた。

・・・田上の成長に感慨を覚えた一方で、ワタシは「待てよ」とふと自問した。

「あのショッパかった田上が、もし全日本最高峰の三冠王者になれたら」

「オレも自分の人生に、もっと自信と夢を持ってもいいんじゃないか?」

こーして、ワタシは三沢×田上の三冠戦に、自分の運命を勝手に託して、

2号を誘って見届けることにした。この一戦、今もフィニッシュをはっきり覚えている。

当時の三沢の切り札だったコーナー上からのジャンピング・ネックブリーカー(注3)。

それを瞬時にカウンターで切り返しての豪快なのど輪落としで3カウント(注4)。

天才・三沢の上を行く田上の鮮やかなひらめきを見せられ、ワタシも腹を決めた。

・・・大会後、人もまばらな幌平橋駅の構内で、ワタシはストレートに2号に切り出した。

「結婚を前提に、オレと付き合って下さい」 さて、2号の返答や如何に?

(第5話につづく)


注1・88年1月の田上のデビュー戦のタッグ戦では、馬場さん自らがパートナーを務めた

注2・天龍の必殺技のパワーボムを食らい、衝撃と恐怖で脱●したというウワサが残る

注3・この技で、94年3月のタッグ戦では馬場さんから3カウントを奪った

注4・ちなみに、田上は96年、三冠王座奪取のほか、春のチャンピオンCの優勝と

世界タッグ王座奪取、冬の世界最強タッグ決定リーグ戦の優勝を果たして、

全日本における「グランドスラム」を達成。年齢も35歳とレスラーとして絶頂期だった


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