96年当時、ワタシは真駒内に、2号は麻生に住んでいた。
札幌市営地下鉄・南北線のそれぞれ南と北の端である。
そして、およそ中間に中島体育センターの最寄り駅だった幌平橋駅(注1)があった。
今はなき「北の聖地」は、お互いにとって、とても行きやすい場所だったと言える。
加えて、当時のプロレス界は「多団体時代」とは言われていたが、
現在ほど細分化は進んでおらず、各団体とも年1、2回は中島大会を開くパワーがあった。
札幌のファンにとっては、少なくとも月1回は中島で生のプロレスを楽しめた時代だった。
よって、ワタシと2号は、幌平橋駅で待ち合わせ→プロレス観戦&試合ビデオ・グッズ交換
→すすきので食事→すすきの駅で「また来月」という交遊を重ねていた。
籍を入れる9月までの間、特に印象に残っている中島大会が2つある。
今回はそのひとつ、96年4月19日のWAR(注2)の大会を語る。
・・・って、みちのくで出会った2人が、なぜにWARに足を運んだのか?
理由はひとつ。後にWWEのスーパースターとなるレイ・ミステリオ(注3)が
来日第2戦を予定していたから。前年のスーパーJカップ2ndを両国で観戦し、
来日第1戦を見たワタシは、その華麗な空中技にすっかり魅せられた。
「みちのく好きの2号ならば、絶対に気に入る」と考えて誘ったのである。
この日は中島に向かう直前、腕時計の時刻合わせに見たテレビが
「うお座(ワタシ)の人・ラッキーカラーは黄色」
という星占いのお告げを流していたのが、妙にアタマに引っかかった・・・
さて大会は、2号にはトラブル続きだった。
レイレイの試合には予想どおり大満足していたが、セミがよりによって天龍×ポーゴorz
しかも、ポーゴが戦意喪失&敵前逃亡をかまし、天龍が空回りという最悪の結果に。
中島での相次ぐ狼藉で、2号はポーゴに「もうくるな。ゆるさん」(注4)という烙印を押した。
さらに、メーンの世界6人タッグのタイトル戦。
冬木弘道・邪道・外道に蝶野正洋・天山広吉・ヒロ斉藤が挑んだ試合では、
冬木軍が凶器に大量のバナナ(注5)を持ち出し、場外で振り回したから、さあ大変。
観客席のあちこちにつぶれたバナナの中身が飛び散り、2号の胸にもベットリ。
泣き怒り状態の2号の上着を、慌ててハンカチを出してふいてあげたが、
その時、ワタシはあるコトに気が付いた。
2号のバ●トに初めて、かつ紳士的にタッチできた!! うは【以下自粛】
瞬間、出かける間際の「うお座のラッキーカラーは黄色」というお告げがよみがえった。
黄色いコスチュームの冬木軍が黄色いバナナを振り回して、本当にラッキーが来た!!
・・・試合は冬木軍の勝利に終わり、歓声とブーイングが入り交じる中で、
冬木は花道を下がっていった。ワタシの眼には、その背中にキューピッドの翼が見えた。
エライ太ったキューピッドだったが、今でも冬木には深く感謝している。
それから、およそ7年後の2003年3月。
冬木は大腸がんとそれに伴う腹膜炎でこの世を去った。42歳の若さだった。
そして現在、ワタシと2号は、そろって冬木よりも長生きになった。
2人でなおプロレスを楽しめているのはありがたいことである
・・・まあ、ワタシの体型はどんどん冬木に近づいているのだが(汗)
(第4話に続く)
注1・最寄り駅は駅名から「中島公園駅」と思われがちだが、歩き比べた感じでは
幌平橋駅の方が行きやすいというのが、ワタシと2号の見解である
注2・92年に天龍源一郎が旗揚げした団体。98年に事実上解散。
主力は天龍や冬木、ウルティモ・ドラゴンら。WWEスーパースターのクリス・ジェリコが
「ライオン道」を名乗り、冬木軍のメンバーだったことが懐かしい
注3・当時のリングネームはレイ・ミステリオ・ジュニア<2世ルチャドールだから
注4・このネタが理解できる人は、WINGと同じ時代を生きた人
注5・冬木曰く「(蝶野軍の)あいつらサルみたいなツラしてやがるから」という理由