ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

リングサイドで恋をして・第20話/そして現在

2012年12月27日 | RSで恋をして

ワタシの転勤に伴い、西小岩に移り住んで、ほぼ3年になる。

この地を選んだのはワタシの気まぐれだが、プオタとしては大正解だったと思う。

理由は二つ。一つは総武線一本で後楽園ホール、両国国技館、

日本武道館(飯田橋から東西線一駅)といった都内の主要会場に行ける交通の便。

もう一つはサスケと縁が深いこちらの店が近所にあること。

定例の「サスケを囲む会」は、ワタシのフトコロが寂しい給料日直前に開かれがちで

なかなか顔を出せないが、各団体の、特に後楽園のチケット購入ではお世話になっている。

また、この3年間、都内に住んでいなくては、おいそれとは見に行けなかった大会も多かった

<昨年8月の武道館の「ALL TOGETHER」や今年3月の後楽園のリングス「再臨」など

一方で、我が家の周りにいる都内のプオタの傾向には少し不満もある。

「○○は見るが、××は見たことがない」「△△は知っているが、☆☆は知らない」

といった偏向が実に多い。プロレスが好きならば、いろいろ見た方が楽しいのに・・・と思う。

しかし、例えば「後楽園開催のプロレスの大会すべてを追いかける」となれば、

ほとんどのプオタは体力面・経済面などの理由で1カ月ともたないことも事実。

この点では、札幌や福岡のような地方都市のプオタの方が恵まれているかもしれない。

テイセンホールやスターレーンといった常打ち会場を「定点観測」していれば、

「全方位」のプロレスを大まかに追いかけられるからだ。

ワタシも2号も子どもたちも、プオタとしての視点は「地方からの全方位」がベース。

結婚から15年。この視点を大切に、

ワタシのような男に「家庭」を与えてくれたプロレスというジャンルを、

そして、プロレスを愛している男女がそろったこの家庭を、ずっと大切にしてゆくつもりだ。

(終わり)


  •  JPFAチャリティーマッチ

「ラスト・ゴンゴール」に身震い。そして、ゴンに絡んで

芳賀や岡山がチラチラとテレビに映っていたのが妙にうれしかった。

  • つば九郎

結局は年俸据え置きでヤクルト残留。まあ、誰もが予想したオチではあった。

  • ルーラーシップ引退

今年1月のAJCCでは、3連単の的中馬券をありがとう。

父・キングカメハメハ、母・エアグルーヴ、母の父・トニービンの良血馬である一方、

サンデーサイレンスの血が入っていないので、きっと大人気の種牡馬になるだろう。

できるだけ早い時期に走る仔を出してほしい。種付けレースでは出遅れするなよ


リングサイドで恋をして・第19話/悲しみの博多

2012年12月09日 | RSで恋をして

本日はNOAH両国大会。団体が大きな岐路を迎えようとしている。

複雑な悲しい思いを抱いて、会場に足を運ぶファンも多いと察する。

今回は「NOAHの悲しい一日」と言えば、否応なく思い出される

三沢急逝の翌日に開かれた09年6月14日の博多大会を振り返る。


前回は九州在住の6年半を「楽しかった」と振り返ったが、

05年に橋本真也やエディ・ゲレロ、07年にクリス・ベノワと

多くの第一線のレスラーとの突然の別れを体験した時期でもあった。

特に、三沢の死は「試合中の事故死」という衝撃もあって、にわかには信じられなかった。

スターレーンに赴く前に博多駅の構内で弔花を買った時も、

そのスターレーンで2号がワイドショーの取材を受けた時もどこか上の空。

しかし、会場の献花台の遺影に向かい合った時、悲しみが一気にあふれ出した。

献花台の前で泣き崩れながら、思ったことが二つある。

一つは「オレはこんなに三沢を慕っていたのか」という驚き。

赤のパンツ姿で極道コンビにいたぶられた83年3月の全日本釧路大会。

テリー・ゴディの場外パワーボムを食らった91年2月の全日本仙台大会。

そして、ワタシと2号を結び付けた96年5月の全日本札幌大会。

実はワタシの印象に残っている「ナマの三沢」は、失神KOを食らったり、

3カウントを取られたりという姿が多く、三沢の勝利に熱狂した思い出は乏しい。

「好きかと言えば好き」「武藤よりは三沢」という程度のレスラーとばかり

考えていたが、失って初めて存在の大きさに気づかされた感があった。

もう一つは周りにいたメディアへの思い。

断っておくが、この時のワタシの悲しみや慟哭に、全くウソも演技もない。

しかし一方で、心の片隅にこんな思いがあったことを否定しない。

「行儀よく花を手向けている画よりも、こんな画がほしいだろ?見たいモノ見せてやるよ」

これはある意味、リング上のレスラーに近い感覚ではないか。

この奇妙な感覚を味わったのは、後にも先にもこの時のみ。三沢の贈り物だったのかも。

ちなみに、そんなワタシの思いに反応したのが日刊だった<翌15日紙面の一面

泣き続けるワタシを助け起こしてくれたのは、自身も大泣きに泣いていた2号。

言い換えると、2号がいてくれたおかげで、心ゆくまで泣き崩れることができた。

二人というのはいいものだ。楽しい時は二倍楽しめる。そして苦しい時は半分で済む

ブロッケンJrの言葉を借りるまでもなく、不幸な出来事ではあったが、

同じ悲しみを分かち合える伴侶のありがたさを改めて実感した場でもあった。

(最終20話に続く) 


リングサイドで恋をして・第18話/九州時代

2012年11月28日 | RSで恋をして

九州に住んでいたのは、03年9月から10年3月までの6年半に及ぶ。

福岡県豊前市、熊本県人吉市、福岡県志免町の3市町を渡り、

3号も4号も小学生になった。

東→南→北と遊び歩き、九州の食・温泉・スポーツを満喫した楽しい6年半だった。

この時期のプロレスの主な観戦会場と言えば、「西の聖地」博多スターレーンが筆頭。

「ここはホントはボーリング場なの? 一度もボーリングをしたことがないよ」

4号がそう言って呆れるほどに、いろんな団体を観戦した。

ただ、4号の初めてのプロレス生観戦は博多スターレーンではなく、

04年7月23日のドラゴンゲート久留米大会と記憶している。

この7・8月のシリーズは、闘龍門JAPANがドラゴンゲートに改称した後の

最初のシリーズで、大会パンフの表紙には当時の所属選手全員の似顔絵が並んでいる。

悪冠一色(注1)やSUWA(注2)の似顔絵も載っており、現在では貴重品になった。

当時の4号はまだ1歳半だったが、この頃から一貫してドラゴン・キッドが大好きである。

どのぐらい好きかと言えば、後年のドラゲーの大会でパンフを買った時に

「大変だ! ドラゴン・キッドの背が伸びた!」と騒いだことがあった。

聞けば、そのパンフでの身長の表記は「162センチ」だったが、

以前に買ったパンフでの表記は「161センチ」だったという。

「オマエ・・・それは普通、背が伸びたとは言わんぞ」と大笑いしながらも、

帰宅後に調べたら、4号の記憶通り。「こんな細かいところまで覚えているのか」と

驚くと同時に、間違いなくワタシと2号のDNAを受け継いでいると確信した。

この大会パンフというヤツは、プロレスラーが派手なコスチュームをまとい、

時にはカッコよく、時にはコミカルにカラー印刷されているので、

4号には格好の落書き帳にもなった。最近になって、それらのパンフを見返したところ、

参戦当初のKAGETORA(注3)を矢印付きで「ジミ」とからかっていた

現在のリングネームと所属ユニットを考えると、恐るべき慧眼と言える<親馬鹿

そんな4号のプロレス熱は今なお増すばかり。PAC(注4)のWWEデビューと

「キン肉マン」の最新41巻の発売を、愚父といっしょに心待ちにしている。

(19話に続く)


*注1・「アーガンイーソー」と読む。闘龍門JAPAN時代に結成されたヒール・ユニット。

現GHCジュニア王者の近藤修司(全日本)らが所属していたが、04年末に全員解雇。

*注2・闘龍門一期生。同期のCIMAやフジイとユニット「クレイジーMAX」を結成し、

みちのくや闘龍門JAPANで大暴れした。04年8月にドラゲー退団。

フリーを経てNOAHに所属後、07年5月に引退。最近は復帰のウワサがちらほら。

*注3・昨年12月に「ジミー・カゲトラ」に改名。ユニット「ジミーズ」の古株メンバーである。

*注4・一回転の横ひねりを加えたシューティング・スタープレスを主武器に、

ブレイブゲート戦V11や今年の新日本スーパーJrで4強入りを成し遂げた「鳥人」。

今年7月の神戸大会でドラゲー卒業。現在はWWEのファーム団体NXTに所属。


リングサイドで恋をして・第17話/青森時代

2012年11月10日 | RSで恋をして

青森に住んでいたのは、01年9月から03年8月までの2年間。

プライベートでは、3号の幼稚園入園&03年2月の4号誕生が大きな出来事だった。

ジム一家の完成を見たのが青森の地だったと言える。

振り返ると、青森も格闘技が盛んな土地柄だった。

相撲は若乃花・貴ノ花の兄弟をはじめ、数多くの人気力士を生んだ。

柔道にはロス&ソウル五輪連覇の斉藤仁、レスリングには伊調姉妹、

ボクシングにはWBA二階級王者の畑山隆則、キックには小比類巻貴之がいた。

プロレスをみても、船木誠勝&柳澤龍志のパンクラス創設時のメンバー2人に、

問題児ケンドー・カ・シンといった個性派が並ぶ。

「グレイシー柔術の祖」「コンデ・コマ」前田光世の生誕地ということも忘れてはならない。

とはいえ、この時期の生観戦はみちのくプロレスがほとんど。

特に、02年10月20日のみちのく青森大会が思い出に残っている。

ライガー見たさに遠征してから約6年。青森県民体育館の最後のプロレス大会だった

<青い森アリーナ(注1)が完成し、この年限りで閉館したため

この大会のメーンは、秋恒例のタッグリーグ戦「みちのくふたり旅」の優勝決定戦。

サスケ・TAKA組、人生・湯浅組、カレーマン・ハヤシライスマン組による

壮絶な巴戦が今も思い出に残っている。その展開は以下の通り(左が勝ち残り)。

  1. カレー・ハヤシ(スパイシー・ドロップ)人生・湯浅
  2. サスケ・TAKA(ジャスト・フェイスロック)カレー・ハヤシ
  3. 人生・湯浅(念仏パワーボム)サスケ・TAKA
  4. カレー・ハヤシ(パワースラム)人生・湯浅
  5. カレー・ハヤシ(スパイシー・ドロップ)サスケ・TAKA~カレー・ハヤシ組が優勝

巴戦はプロレスでもしばしばあることだが、ここまでもつれることはそうはない。

今年8月の「サスケを囲む会」でも、10年前のこの巴戦をサカナに話が弾んだ

4代目タイガーマスク(注2)をエサに、「しまじろうを見に行こう」と連れて来られた3号も

大会終了時にはカレーマンにすっかり魅せられていた。

もうひとつ、3号が魅せられたのが「はやて・こまち」の新幹線タッグ。

この年の12月のホンモノのはやての八戸延伸に先駆けた青森上陸だった。

このように本場・東北で経験したみちのく生観戦を経て、

幼少期の3号はプオタの両親から受け継いだDNAを徐々に覚醒させて、

プロレスへの「耐性」を身につけていった(注3)。

もう一つ、プオタとして青森に住んでよかったと思ったのは、

闘龍門JAPANの大会を定期的にテレビで見ることができたことだ。

青森はフジの系列局がなかったため(注4)、

我が家はUHB(北海道文化放送)を放送するケーブルテレビと契約していた。

このUHBが当時、福岡のTNC(テレビ西日本)の「ウノ・ドス・トレス闘龍門」(注5)を

買い取って、毎月流していたのである。

もし青森にフジの系列局があったら、かえって見られなかったかも。

メキシコ帰りの直後にみちのくに上がっていたマグナムTOKYOや

クレイジーMAXに魅せられた我が家にとって、新たなお気に入りの団体の誕生だった。

そして、この団体が後に4号のDNAを覚醒させることになる。

(18話に続く)


*注1・03年2月の青森冬季アジア大会に合わせてオープン。現在のマエダアリーナ。

*注2・この02年を最後に、みちのくと契約満了。新日本に移籍した。

*注3・現在では新日本のライオンマークのTシャツを林間学校に着て行って、

男子に「お~い、ワールド・プロレスリング~」とからかわれる有り様に。

*注4・八戸出身の田中義剛が「笑っていいともが夕方に流れる」とよくネタにしていた。

*注5・現在も「龍の扉」と改題して月イチ放送中。番組MCはずっと博多大吉。

このため、我が家ではモノマネで全国区になった華丸より大吉の方が身近な存在だった。

ただし、2号は芸人としばらく認識せず、「九州ローカルのフリーアナと思っていた」らしい。


リングサイドで恋をして・第16話/群馬時代

2012年10月23日 | RSで恋をして

97年3月の披露宴からの2年間は、激動の2年間だった。

2号の父の死去、3号の誕生、日本のW杯初出場、そして札幌のJ昇格&J2降格。

そして99年春、ワタシは初めて内地に異動になって、我が家は北海道を去った。

赴任地は群馬県太田市・・・って、どこだ? それが正直な第一印象だった。

しかし、現地に赴いて知ったのは、太田・館林・桐生といった群馬県東部、

いわゆる「東毛地域」はアマ・プロともにレスリングと非常に縁深い土地だった。

76年モントリオール五輪金の高田裕司(太田市出身)や

80年モスクワ五輪の幻の代表で後にプロレスに転向した谷津嘉章(明和町出身)、

最近ではロンドン五輪銅の松本隆太郎(千代田町出身・館林高校卒)といった

名レスラーを輩出している<なお、我が家が群馬に住んでいた時期は、

白血病との闘病でも知られる長島ツインズが強豪・館林高校の有望株だった

そして、プロレス好きが忘れてはいけないのが、桐生の樹徳高校の柔道部

グラン浜田、吉江豊と全くタイプが異なるプロレスラーを生み出している。

変わり種では、あの世出身で太田市の墓地から生まれた怨霊というプロレスラーもいる。

この浜田や怨霊が出場し、1回戦8戦を仙台で開催した2000年の第3回スーパーJカップを

仙台×札幌戦とハシゴするため、太田から出かけたことは群馬時代のいい思い出だ。

また、99年のみちのく前橋大会では、浜田&文子の日本初の父娘タッグを

見ることもできた。ただ、3号がまだ幼かったので、生観戦は抑え気味だったと思う。

プロレスがらみで生観戦よりも思い出になっているのは、

01年夏に新しい異動が決まった時の2号の言葉だった。

群馬と言えば、草津や片品といった山間部は有名なスキー場を抱える豪雪地だが、

平野部の東毛地域の冬は、いわゆる「からっ風」こそ強いが降雪はほとんどなく、

倶知安で生まれ育った2号は「雪にわずらわされない冬」をそれは気に入っていた。

ところが、新しい赴任地は青森市

豪雪が再び待ち受ける地への異動に、2号はさぞがっかりするのでは・・・と気が重かった。

しかし、青森への異動を告げた時の2号の反応は意外なものだった。

「やったあ☆ これで本場・東北のみちのくプロレスが見られるね」

救われた思いがした。この女性と結婚してよかったと感じた出来事の一つである。

(17話に続く)


  • セリーグ

CSファイナルを制したのは、3連敗から3連勝を遂げた読売。

高木守道は、94・10・8に続いて「読売に勝てば日本シリーズ」の大一番を落とした。

まあ、セ・パの1位が対決する「本当の日本シリーズ」になってよかったのでは。

ホールトンがホークス時代の「ハムキラー」のままかどうか、注目している。