ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

火刑都市30年⑪あとがき

2016年12月08日 | 火刑都市30年

30年前に刊行された推理小説をもとに東京の掘割や水路を語る

・・・という目論見で始めた連載だったが、

ただの東京お散歩ブログに終わったという反省がないでもない。

乱歩作品を下敷きに1920年代の東京の都市文化をひも解いた

松山巌氏の名著「乱歩と東京」を目指したが、むろん遠く及ばない。

ただ、「火刑都市」文庫版の巻末にある評論家・新保博久氏の解説文には

以下のような趣旨の一文がある。

ここに記された東京も一時期のもの。やがては東亰と同じく幻になるのかも

確かに、浅草から仁丹塔や東京クラブが消え、飯田堀にはラムラが建ち、

日本橋の水天宮は地下鉄半蔵門線と直結し、社殿も建て直された。

連載を通して、80年代からの東京の変貌ぶりを少しは紹介できたかなと思う。

一方で、この連続放火が起きることに現在の東京で現実味を感じるかと問われたら、

答えはノーになる

ビルやマンションへのオートロックの普及で、侵入自体が大変になったうえ、

都心の建物や路地には防犯カメラが増えた。

この小説において、菱山は「密室への放火」を実行するため、

ある特徴的な格好を強いられている。映像の照合で足がつくおそれが高い。

少なくとも、都心で10カ所もの連続放火は難しいだろう。

「地の水を取り戻せ」という勇ましい「火刑宣言」

「江戸時代もお堀の水で消火なんかしてねーよ」とネットで「炎上」しそうだ

<江戸の消火は火消しによる家屋破壊&延焼防止というのが防災史の常識(注)

注・竜吐水という手押しポンプはあったが、水鉄砲に毛が生えたようなシロモノ。火事場装束を濡らす道具だったらしい

ただ、大地震やテロの危険が増す一方で、築地市場移転や五輪会場の諸問題と、

どんなに迷走を続けても、東京は変貌を止めない。

同時に、東京は「火刑都市」とはまた違った都市犯罪小説を生み出すことも

止めはしないだろう。そのように感じた今回の連載だった。(おわり)


火刑都市30年⑩隅田川

2016年11月16日 | 火刑都市30年

話は少し戻る。菱山源一の母親は錦糸町に流れ着いた2、3年後、

1965(昭和40)年前後に持病と過労で倒れ、将来を悲観して焼身自殺を遂げる。

作中には「隅田川の河岸んとこ」という以外に、自殺現場の詳しい記述はない(注1)。


隅田川の上から東京スカイツリーを望む。清洲橋と織りなすシンメトリーな構図が美しい

隅田川と言えば、日本人はどんなイメージを持つだろう。

「春のうららの隅田川」で始まる「花」に歌われる桜の季節か。夏の花火の季節か。

蔵前橋のたもと。春は東京スカイツリーと満開の桜を同時に楽しめる

それらのイメージは決して間違いではない。

しかし一方で、江戸開府以来、この川は多くの人々の生命を飲み込んできた。

古くは明暦の大火。大正の関東大震災。昭和の東京大空襲。

ミステリー小説の世界でも、この川は舞台として書き手をひきつけるのか、

江戸川乱歩は「陰獣」では小山田夫妻の亡骸を浮かべて、

「魔術師」では生首が乗った獄門舟を白髭橋界隈に流してみせた。

島田荘司氏も「ひらけ!勝鬨橋」「ギリシャの犬」といった作品を著している。

さて「火刑都市」。菱山の母親は隅田川のほとりのどの辺りで生命を絶ったのか。

ワタシは両国橋のたもとの東岸と推測している

理由は三つ。一つ目は、墨田区錦糸3丁目のそば屋から最短の場所であること

北斎通り&京葉道路を西に向かえばたどり着く。

これから自殺する病弱な女性が灯油を抱えて、あまり長くはウロウロするまい。

両国橋のたもとの隅田川河畔。現在は公園として整備されている

二つ目は、この界隈は「死と弔い」の匂いに満ちていること

JR両国駅を挟むように、南に回向院が、北に東京都慰霊堂がある。

片や明暦の大火で、片や関東大震災・東京大空襲で火にまかれた犠牲者を供養している。

つまり、非科学的な物言いだが、菱山の母親は「呼ばれた」ような気がする。

墨田区両国2丁目の回向院。1657(明暦3)年の明暦の大火の後に幕府が創建した

境内に残る明暦の大火の供養塔。回向院は10万人超の焼死者を幕命で弔った万人塚を始まりとする

宗派を問わず、さまざまな横死者や動物が葬られた回向院には著名人の墓も多い

その中でも異色なのは、1832(天保3)年に刑死した「鼠小僧次郎吉」の墓

「金運」「勝負運」のお守りとして、墓石を削り取る人々が絶えず、

現在は墓の「お前立て」の石を削り取らせるようになった

余談だが、福本伸行「天」の最終話に出てくる赤木しげるの墓のモデルになったと思われる

回向院の境内では、江戸時代後期の天明年間から勧進相撲が催されるようになった

これが現在の大相撲の源流とされており、1936(昭和11)年には

日本大相撲協会が境内に「力塚」を建立し、亡くなった力士・年寄を供養している

ワタシが「追悼ウオーク」で毎春立ち寄っている墨田区横網の東京都慰霊堂

1930(昭和5)年建造の震災慰霊堂が前身で、

1948(昭和23)年から東京大空襲の犠牲者を合祀するようになった

毎年3月10日に春季の、9月1日に秋季の大法要を営んでおり、

近年の春季大法要では「3・11」東日本大震災の犠牲者も合わせて追悼している

三つ目は、両国橋からは、いやでも神田川の河口が、

つまり、江戸城の外堀の終点がおがめること

両国橋から神田川河口を望む。柳橋や屋形船もおがめる

菱山は幼少期に何度も、少なくとも祥月命日には

母親が亡くなった場所に線香や花を手向けただろう。

そのたびに目にする神田川の河口が、その奥にある外堀に、

飯田堀埋め立て闘争に、連続放火の企みに菱山を誘ったのではないか。

「都市は川を挟み、光を西に、闇を東に抱く」

今回の連載を始めるに当たり、上記の島田都市論の概念を紹介し、

「火刑都市」での刑事対放火犯の構図を、隅田川を挟んだ「光と闇の対決」とした。

とすると、その対決の原点は、両者を分かつ川にこそあった・・・と思えてくる。


菱山を刺したのは渡辺由紀子だった。ナイフは正確に心臓を刺し貫いていた。

捜査の対象から外れつつあった由紀子がなぜ?

その裏には、運命のいたずらとしか言い様のない理由があった。

いずれにせよ、菱山は救急車で搬送される途中に死亡した。

一年余りに及んだ都心の連続放火事件は終幕を迎えたのである。(あとがきにつづく)


注1:火刑都市「第九章・失われた環」350P


火刑都市30年⑨日本橋川・神田川

2016年10月13日 | 火刑都市30年

H大での聞き込みから、「イシヤマ」=菱山と知った中村刑事は、

さらに調べを進め、菱山源一という姓名や、錦糸町のそば屋の養子という素性を知る。

そば屋の主人によると、菱山源一は、かつて働いていた女性の連れ子だったという。

そして、この母子は渡辺由紀子と同じく越後寒川の出身で、由紀子とは深い縁があった・・・


ここで話を戻し、中村刑事が「次の放火の場所」とにらんだ神田(神田橋)を少し語る。

現在の神田橋。江戸時代は近くに老中・土井大炊頭利勝の屋敷があったため、「大炊殿橋」とも呼ばれた

この橋が通るルートは、将軍が江戸城から上野寛永寺に参詣する「御成道」に当たり、厳重に警備されたという

「火刑都市」は、かつての外堀が日本橋川として橋の下を流れている、と記している(注1)。

そこで、その日本橋川をクルーズしてきた

9月21日に東京都公園協会の水上バス「カワセミ」に乗り、日本橋川・隅田川・神田川を周遊した

この日本橋船着場は最近、サントリー「プレボス」のテレビCMに登場したので、見覚えがある人もいるだろう

なお、日本橋架橋100年の2011(平成23)年に整備されたこの船着場一帯は、

故・12代目市川團十郎と4代目坂田藤十郎の東西二大歌舞伎役者が

船乗り込みのセレモニーをしたことに由来して「双十郎河岸」と命名されている

「プレボス」のテレビCMには、このアングルの日本橋も登場する

1911(明治44)年4月に完成した現在の石造二連アーチの日本橋は、

1999(平成11)年5月に国の重要文化財に指定された

その長い歴史の中で、日本の道路網の始点を務めるとともに、

荒俣宏「帝都物語」東野圭吾「麒麟の翼」といった様々な小説・映画で描写されてきた

日本橋川は「火刑都市」の中で、上を走る高速道路(首都高)のせいで陽が差さず、

埋め立てとあまり変わらない、とされている(注2)

確かに隅田川と合流する間際までは、そんな光景が延々と続く

隅田川は次の機会に語ることにして、神田川にふれる

写真は和泉橋が架かる秋葉原の界隈。飯田橋からこの地点までの神田川は、

江戸城の北の防備と江戸市中の洪水防止を兼ねて、本郷台地を掘削した掘割&放水路だった。

本郷台地を削って出た土砂は、江戸城の東に入り込んでいた日比谷入江の埋め立てに使い、大名屋敷の用地とした

現代人が考えても壮大な土木事業だが、これを担ったのが「独眼竜」伊達政宗と伝えられる

このため、神田川はかつて「伊達堀」「仙台堀」とも呼ばれた

この事業については、徳川将軍家と「マーくん」のやりとりをめぐる

面白い逸話がいくつも残っているので、興味がある方は調べてみてほしい

上記の事業の結果、飯田橋から南に流れていた神田川は東に流れを変えた

そして、旧来の川と合流し、「芸妓の街」柳橋で隅田川に流れ込む川となり、現在に至っている


神田橋周辺のビル街をくまなく調べた中村刑事は、とあるマンションが狙われると考えた。

そして、12月1日の夜。そのマンション地下の駐車場に張り込んでいた中村刑事たちの前に、

ついに菱山が現れた。手近な車のルーフに液体を注ぐ菱山。その身柄の確保に動く中村刑事たち。

しかし、次の瞬間、小柄な人影がとび出し、菱山の背に激しくぶつかった。

よろめく菱山の背には、ナイフの柄がのぞいていた・・・(つづく)


注1&注2:「第九章・失なわれた環」359P


火刑都市30年⑧飯田堀

2016年09月16日 | 火刑都市30年

中村刑事が「イシヤマ」の正体をつかむ手がかりになった「飯田堀埋め立て闘争」

火刑都市の作中にも、その経緯が記されているが(注1)、

要するに、JR飯田橋駅周辺にあった飯田堀の埋め立て再開発計画をめぐる

東京都と地元住民の争いである。

1949(昭和24)年に計画立案。1972(昭和47)年にビル建設決定。

1977(昭和52)年から、地元住民の「飯田濠を守る会」や労組、学生団体が

絡んだ反対運動が激しくなるが、強制執行、そして和解を経て、争いは沈静化していった。

ここまで「埋め立て」と記したが、「暗渠化」と言った方が正確か。

JR飯田橋駅東口の近くには、神田川につながる流れの出口がある。

飯田橋界隈に残る「揚場町」の地名。かつて船着き場・荷揚げ場だった名残である。

飯田堀を埋め立てた跡の親水公園に残る「牛込揚場跡」の碑。

この地まで海から船が上がり、全国各地の物産を荷揚げした往時をひっそりと伝えている。

1984(昭和59)年9月に竣工した飯田橋セントラルプラザ・ラムラ

地上20階の多目的の高層ビルで、火刑都市では「建つ予定である」と記されている(注1)。

一連の連続放火事件が終結した翌年に完成したことになる。


中村刑事は飯田堀の闘争に学生が参加していた私立のH大(たぶんモデルは法政大)に赴いて、

単身、学生団体のメンバーに尋ねた。「君たちの仲間でイシヤマという男を捜している」

そんな男は知らないという。しかし・・・「おい、こりゃあ菱山じゃないか?」(つづく)


注1:火刑都市「第四章・袋小路」179P~181P


火刑都市30年⑦溜池・弁慶堀

2016年08月19日 | 火刑都市30年

8月までに7件の放火。9月には中央区八重洲2丁目で第8の放火が起きる。

ついにメディアも大騒ぎを始めた。そして、メディアの騒ぎをあおるように、

「イシヤマ」とおぼしき男が週刊誌に投稿したり、警視庁に電話したりと挑発を重ねた。

「このマッチ一本の火を、地の水をかけて消せ」

その後も、中村刑事たちの警戒をかいくぐるように、

10月に八重洲1丁目で、11月に千代田区大手町2丁目で放火が起きる。

皇居を中心に南に半円を描くような経路。「東亰万歳」を唱える「イシヤマ」の意図は何か。

すがる思いで東京都教育庁を再訪した中村刑事は重要なヒントを得る。


東京都教育庁と中村刑事のやり取りを通し、作者の島田荘司氏は都心の水環境を嘆く。

外堀。江戸城を取り巻く大きな水の環が明治以降、

都市化・近代化の波で分断されて、現在は南半分はほぼ埋め立てられた・・・

その南半分の外堀をしのぶ「痕跡」に、「溜池」の地名と埋め残しの「弁慶堀」を挙げる。

東京メトロ銀座線・南北線の溜池山王駅(赤坂)。「溜池」を今に伝える地のひとつ

「当時はずいぶん風光明媚な場所だったらしく、広重の名所絵などによく出てきます」(注1)

そのように作中で記される「溜池」。上の歌川広重「赤坂桐畑」はその一作である

溜池山王駅から外堀通りを紀尾井町方面に北上すると「弁慶堀」に行き当たる

現在はボート場を兼ねた釣り堀になっている。都心でバス釣りが楽しめる穴場である

作中で「ホテルニューオータニのところにある弁慶堀」(注2)と記される通り、

「弁慶堀」から見上げると、ホテルニューオータニのガーデンタワーが目に飛び込む

この独特の形状を見て、角川映画「人間の証明」(原作・森村誠一)を思い出す人もいるのでは


「地の水=江戸城の外堀」と確信した中村刑事は、次の放火の場所を神田と推測する。

そして、布袋屋の若旦那が絡んでいた「飯田堀埋め立て闘争」を思い出す。

「地の水」に執着している「イシヤマ」はこの闘争に参加していたに違いない。

そして、その場で「イシヤマ」と由紀子が再会を果たしたのではないか・・・(つづく)


注1:火刑都市「第九章・失なわれた環」339P 注2:同340P