ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

火刑都市30年②墨田・江東の水路/後編

2016年03月10日 | 火刑都市30年

菱山少年が遊んだ横十間川は、南で江東区を東西に流れる小名木川と交差する。

横十間川と小名木川の合流地点。上にはX型の「クローバー橋」が架かる

小名木川は徳川家康ゆかりの墨田・江東の最古の水路である。

1590(天正18)年に江戸入りした家康は、

江戸の治水・物流の両面から、利根川ほかの関東一円の河川改修に着手する。

同時に、兵糧としての塩を確保するため、下総国の行徳塩田

(現在の千葉県市川市行徳&浦安市の一帯)に着目した。

当時の東京湾の北部は遠浅や砂州が続き、海上運搬は座礁の危険が高かったので、

行徳―中川間に新川(船堀川)を、中川―隅田川間に小名木川を水路として開いた。

幕末の安政年間に描かれた「中川口」(歌川広重・名所江戸百景)

手前の小名木川、奥の新川、左右に流れる旧中川が交差する

旧中川を行き交う筏は、関東一円の河川が水路に整備されて、

山あいの林産地から木材が流通するようになった様子を表している

現在の中川口を同じ構図で眺める

1930(昭和5)年の荒川放水路の完成に伴い、新川とは交差しなくなった

このように「軍用水路」として生まれた小名木川だったが、

やがて関東一円の年貢米や特産品を、大消費地・江戸に運ぶ「産業水路」になる(注1)。

また、成田参詣が流行すると、船旅のルートにもなっていく。

幕府も1661(寛文元)年に小名木川の入り口に「中川番所」(注2)を開設した。

モノ・ヒト両面の小名木川の水運を監視する「川の関所」である。

現在の中川番所跡。番所を模した観光スポットの「川の駅」(手前)や

江東区中川船番所資料館(奥)が置かれ、江戸の水運と中川番所の歴史を現在に伝えている

なお、今月12・13日には毎年恒例の「リバーフェスタ江東」が催され、

資料館が無料開放になるので、興味がある方は足を運んでは<最寄り駅は都営新宿線東大島駅

東京スカイツリーや亀戸一帯を周遊する水陸両用観光バス

「スカイダック」は、この「川の駅」から着水し、旧中川を回遊する

資料館の久染健夫・副館長によると、小名木川は

「家康の時代に開かれ、両端が完全に残っている東京唯一の水路」らしい(注3)。

ここで話を「火刑都市」に戻す。菱山少年が長じてその消滅に憤慨した江戸城の外堀。

それに比べて、小名木川をはじめとする墨田・江東の水路は実にしぶとい。

この「生命力」の理由は何か? 私見だが、二つの理由があると思う。

一つは、この一帯が長い間「帝都」の行政の範囲外にあったことだ。

1889(明治22)年に15区からなる東京市が成立したが、

亀戸・大島・砂の3村(後に町制に移行)を含む一帯は「東京府南葛飾郡」とされた。

「城東区」として東京市に編入されるのは1932(昭和7)年のことである(注4)。

そして、もう一つは、これが最大の理由と考えるが、

明治以降も墨田・江東の水路は「産業水路」として現役だったことだ。

水路沿いに工場群が形成され、セメント・製糖・機械製粉などの近代産業が興り、

内国通運株式会社(現在の日通)の外輪蒸気船「通運丸」が貨物輸送を担った。

大島1丁目の都立科学技術高校近くにある釜屋堀公園

化学肥料製造の創業記念碑とその偉業を称える「尊農」の碑がある

1887(明治20)年に創業した日本初の化学肥料製造会社

「東京人造肥料会社」(現・日産化学工業)のあらましを記している

高峰譲吉博士(消化薬タカジアスターゼの発明者)が社長・技師長を務め、

発起人には渋沢栄一や益田孝といった大実業家が名前を連ねた

亀戸2丁目の横十間川沿いにある日清紡績(現・日清紡HD)の創業記念碑

「深キョンとワンちゃんがいろいろやっているグループ」は江東区から起きた

碑文は、関東大震災の災禍のみならず、明治・大正・昭和と3回にわたって

横十間川の氾濫に遭ったにもかかわらず、この地の本社工場を守り続けた歴史を記している

墨田・江東の水路は、関東大震災や東京大空襲を経ても、

近代の工場群の「動脈」であり続けたと言える(注5)。

その役割は、高度成長期を経て、水質汚濁や悪臭、地盤沈下といった

公害が社会問題化した時代にようやく終わった。

そして、役割を終えた水路には、「水辺の散策路」として再評価されて、

改修・浄化を経て生き残ったものも今なお多い・・・と考えている。


次回からは隅田川を西に渡り、菱山源一の連続放火の足跡を追う。

まずは最初の放火現場から。この地は今年話題の戦国大名と深い縁があった。(つづく)


注1:「亀戸大根」「小松菜」といった地場野菜が栽培され、

小名木川周辺でいわゆる「近郊農業」が盛んになった点も見逃せない。

この一帯は野菜を江戸に運ぶ一方で、江戸の庶民が排出した「下肥」を回収した。

また、砂村の篤農家・松本久四郎は江戸から回収した生ごみを発酵させた「温床」で

野菜の促成栽培に取り組んだ。江東の先人のリサイクルには、現代も学ぶ部分は多い。

注2:当初は深川の隅田川口にあった番所を移転した。

注3:「東京人」(都市出版刊)15年8月号63P

注4:深川区と合わせて現在の江東区になったのは、戦後の1947(昭和22)年だった。

注5:西村京太郎氏の初長編「四つの終止符」(1964・昭和39年刊)の中に、

亀戸・大島の工場群の描写が見られる。