最近は、市の中心部の公共工事が目立っており、仕事柄どーしても目がいってしまうのですが.......
爺のお墓好きもようやく落ち着きを見せたかと思いきや、またまた都市計画道路の工事中に全容を現した「みゃーか」と呼ばれる巨石のお墓。
長方形の石室(縦2.4m、横1.5m、深さ0.8m)と上部に載せたふた石からなる宮古島の初期のお墓で、自宅のそばにも「久松みゃーか」として2基保存されています。
現地では、これまで民家の納屋に半分隠れていたうえ、名前だけの銘板も誰のために作ったのか横に寝かせられていたという、知ったこっちゃない遺跡だったのですが、道路整備に伴い民家が立ち退くと忽然と全容を見せたといわけです。
この墓の横から工事の現場を見ると、すぐそこまで重機が入り、こちらに迫っております。
このままだと直接車道部にあたることはないと思われますが、ここはもともと海岸だったところで、接続する道路との高低差が1.5m以上あるところ。交差点の中に上から目線のお墓をいだくという宮古らしい景観が生まれそうです。
このお墓が何故今までここに残っていたかというと、島の群雄割拠の時代から二大勢力分権を経て、初めて島を統一した仲宗根豊見親(なかそね とぅゆみゃ)を養育した大立大殿(うぷだてぃうぷとぅぬ)という人の歴史遺産のお墓だからです。この大立大殿さんは自らはその分権勢力の直系でありながら、素性のはっきりしない空広(そらびー)と呼ばれた若き仲宗根豊見親の才能を早くから見出し、後見役として登用、その彼が宮古統一を成し遂げたというわけです。
また話はそれますが、この素性の不明なそらびー君、7歳のころには大人を手玉に取り、畑での仕事の際には的確な仕分けや指示を、漁の参加者には不平不満の出ない公平な漁獲分配を行う等非凡な才能を見せていたそうですぞ。すごいぞそらびー!
この大立大殿さんには実子がおりました。74歳の時に息子の「ぬちでむい」君に宮古かしら職を譲るのですが、琉球王朝に朝貢に行った帰り、不幸にも久米島で突然死してしまうのです。
これに乗じて18歳のそらびー(この時には仲宗根玄雅と名乗っていたそうですが)、労せず権力を手に入れてしまうという一説。なにやら謀略のにおいもしますが根拠のない憶測。
というお墓のいわれも重要度も何も示されていないこの遺跡。市の指定遺跡にはなっていないのですがどーなるのでしょう。
以前の地元紙には、地元民の要望として「手厚く扱ってほしい」という記事が載せられておりましたが、宮古島では神様の通り道に新築した家(やー)の家族が早死にしたり、道路工事で神の石を割ると祟りがあったりと都市整備にも十分気を使ってくださいね。
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