宮古研究の先駆者であるロシアの東洋学者『ニコライ・A・ネフスキー』(1892-1937)という学者がいました。
このほど、その生誕120年を記念するシンポジウムが開かれました。
ネフスキーさんは、ロシア帝政時代のペテルブルグ大学から日本に派遣された官費留学生で、1915年から14年間の日本滞在中3回宮古島を訪れ言語・民族などの研究資料を蒐集しています。
その成果としては大きく3つあり、宮古諸島の民族および口承文芸に関する研究『月と不死』(1971、東洋文庫)、宮古語の歌謡、民話、ことわざなどを記録した『宮古諸島の口承文芸』(訳本「宮古フォークロア」1998、砂子屋書房)、宮古諸語をロシア式の音声記号で表し、地域別の表現の違いも含めアルファベット順に約5000語を整理した手書き辞典「宮古諸島の語彙研究のための資料集」(早稲田大学図書館に寄贈されたマイクロフィルムから製版出版された「宮古方言ノート」2005、平良市教育委員会)でありまする。
とにかくこの方、耳が良かったと見えて、小生3年いても聞き取れないミャークフツを数か月、3回の滞在で各島を巡り、500語以上の言葉を理解していった人です。
またロシア語は女性名詞と男性名詞をはっきりさせないと気に入らないみたいで、名詞ひとつづつそれは女か男かと聞き続けた結果、特に役職などに関してはそれまでの思い込みで決めていたことがはっきりしたということもあったようです。
これらの研究は、国内の宮古研究者に強い影響を与え、島には顕彰碑が建てられています。
このネフさんは、1918年には小樽高等商科学校(現、小樽商科大学)のいロシア語教師として就職し、アイヌ語の研究もしています。この後道産子の女性と結婚しますが、1937年のスターリン粛清で夫妻とも処刑されました。しかしながら、フルシチョフによるスターリン批判の結果、1957年には名誉回復がなされています。
この二人の娘エレーナさんはご健在だそうで、お孫さんとともに2002年に上の顕彰碑除幕式に出席されています。
ここでも何故か北海道つながりがあったわけで、不思議な縁を感じながら、あらためてこの島の言葉の難しさを感じております。
さて
このほど市町村合併後初の「宮古島市史 第1巻 通史編」が刊行されました。
これから10年をかけて「祭祀編」「自然編」「災害編」等を発刊するそうですが平和な10年でありますように。
厚さは4.5センチメートル。枕にはちょうど良い。