昼食を終えた我々は、島の中南部にある地下ダム資料館に向かいました。
宮古島は以前報告の通り大きな川がなく、年間2,200mm降る雨も貯水できないため、生活は干ばつと台風との戦い、というよりは常に負け続け、神様に頼るしかないものでありました。特に、農業はサトウキビ以外、売り物になる作物ができず、水利用の農業は夢のまた夢という状態でした。
その状況を革命的に変えるきっかけとなったのやはり干ばつでした。1971年(昭和46年)3月から9月までの半年の間の降雨量が162mmという大干ばつが襲い、昭和47年の復帰と同時に国が調査を開始しました。その結果、最大約120メートルの厚さがある琉球石灰岩の地層に貯められ海に流れ出ている地下水を、地中に埋め込んだコンクリートの連続壁によって下流でせき止めるという工法が採用されることになりました。これが世に言う地下ダムであります。大干ばつから27年たった1998年(平成10年)に2つの地下ダム(実験用がもう一つある)が完成し、ここに貯水量2,000万㎥(東京ドーム16杯分)の農業用水が確保されることとなったのです。
そうこれは農業用水なのです。しからば、生活用水はどこから?どうやって?
宮古島水道誌によると、人が住み始めてからしばらくは「自然洞窟時代」と称され、湧水や溜まっている雨水を利用していたとのこと。その後、13世紀頃からはちょっと知恵がついて井戸を掘ることを知り「掘り抜き井戸時代」に入ります。女性や子供の日課となる共同井戸の水汲みから各戸の井戸に変化し、雨水の貯水タンクと併用しながら水を得ていたということです。
「自然洞窟時代」の水は、多くは洞窟の底にある湧水を汲むもので「下って水を汲む」という意味の「ウリガ―」と呼ばれ、18世紀初期の書物には59ケ所が記録されているということです。この湧水地群のいくつかは国や市の文化財として指定され、市街地や郊外の集落の近くに今も残っています。その訪問記もこれからの楽しみの一つでありますね。
この水道水は、結構厄介な水で、炭酸カルシウムを多く含む硬水のため湯沸かし器に悪影響を及ぼすなどの問題があったことから、浄水場で流動床式晶石軟化法(ペレットリアクター法)を導入し硬度の調整を行うようになったということであります。それでも、鍋ややかん、コーヒーメーカー等定期的にクエン酸で洗浄してやらなければへそを曲げてしまうのですよ。
さて、終戦後の米軍の占領下、軍専用の鉄の水道管が民間の利用もできるようになり、1952年(昭和27年)市内の水源地から上水道敷設工事が着工され、1957年塩素滅菌室と排水池の完成によりようやく浄化滅菌された水が供給されることとなったのでした。
米民政府はその後、水道マスタープランを作成、1967年(昭和42年)全島水道化が達成されたのでした。
あ”ーーーっ、復帰に先立つこと5年も前に全島に上水道が引かれ、地下ダムは農業用に作られたものであったとは知らなんだ。浅学薄才を恥じ、オトーリで学ぶこととしよう。
その地下ダムがどのように位置しているかを資料館の展示物から見てみましょうね。
宮古島は北西から南西に大きく6条の断層があり、断層に沿って地層が傾いていいるため三角柱状の地下水盆が形成されている(ケスタと呼ばれているのでしたね)ことは2月15日にお勉強しました。
その琉球石灰岩の下には水を通しにくい島尻層泥岩の地層が横たわっており、地下水はこの上に蓄えられる形になっているわけです。そこで、断層の間にせき止めるダムを作り、その上流の地下水をくみ上げ農業に使用しているということなんです。
赤い線で囲われているところが地下の貯水範囲で、写真下部の海に近いところに連続地中壁が設置されているということです。
なお、地表から浸透する排水によって水質が悪化することを防ぐため地下水の水質監視が行われており、重要な地下水源のある地域においては畜産やリゾート事業などの開発が規制されています。
ここは資料館のそばにある、ダムの露出部で水質検査の為の取水口を兼ねています。
以上のようなこれぞ宮古学という重要なことを学びつつ、日本百景のひとつ「東平安名崎」へ向かったのであります。去年の8月8日には、ここにある絶世の不倫美女マムヤの墓の主、マムヤについていずれ記しますとか言っていたのに本日も先送りします。
東平安名崎の有名な写真がどこから撮られているか今まで疑問だったのですが、今回判明しました。おまかせくださいもう大丈夫です。ここです。(長くなったので誤字脱字などあると思います。各自チェックしてください。)
宮古島は以前報告の通り大きな川がなく、年間2,200mm降る雨も貯水できないため、生活は干ばつと台風との戦い、というよりは常に負け続け、神様に頼るしかないものでありました。特に、農業はサトウキビ以外、売り物になる作物ができず、水利用の農業は夢のまた夢という状態でした。
その状況を革命的に変えるきっかけとなったのやはり干ばつでした。1971年(昭和46年)3月から9月までの半年の間の降雨量が162mmという大干ばつが襲い、昭和47年の復帰と同時に国が調査を開始しました。その結果、最大約120メートルの厚さがある琉球石灰岩の地層に貯められ海に流れ出ている地下水を、地中に埋め込んだコンクリートの連続壁によって下流でせき止めるという工法が採用されることになりました。これが世に言う地下ダムであります。大干ばつから27年たった1998年(平成10年)に2つの地下ダム(実験用がもう一つある)が完成し、ここに貯水量2,000万㎥(東京ドーム16杯分)の農業用水が確保されることとなったのです。
そうこれは農業用水なのです。しからば、生活用水はどこから?どうやって?
宮古島水道誌によると、人が住み始めてからしばらくは「自然洞窟時代」と称され、湧水や溜まっている雨水を利用していたとのこと。その後、13世紀頃からはちょっと知恵がついて井戸を掘ることを知り「掘り抜き井戸時代」に入ります。女性や子供の日課となる共同井戸の水汲みから各戸の井戸に変化し、雨水の貯水タンクと併用しながら水を得ていたということです。
「自然洞窟時代」の水は、多くは洞窟の底にある湧水を汲むもので「下って水を汲む」という意味の「ウリガ―」と呼ばれ、18世紀初期の書物には59ケ所が記録されているということです。この湧水地群のいくつかは国や市の文化財として指定され、市街地や郊外の集落の近くに今も残っています。その訪問記もこれからの楽しみの一つでありますね。
この水道水は、結構厄介な水で、炭酸カルシウムを多く含む硬水のため湯沸かし器に悪影響を及ぼすなどの問題があったことから、浄水場で流動床式晶石軟化法(ペレットリアクター法)を導入し硬度の調整を行うようになったということであります。それでも、鍋ややかん、コーヒーメーカー等定期的にクエン酸で洗浄してやらなければへそを曲げてしまうのですよ。
さて、終戦後の米軍の占領下、軍専用の鉄の水道管が民間の利用もできるようになり、1952年(昭和27年)市内の水源地から上水道敷設工事が着工され、1957年塩素滅菌室と排水池の完成によりようやく浄化滅菌された水が供給されることとなったのでした。
米民政府はその後、水道マスタープランを作成、1967年(昭和42年)全島水道化が達成されたのでした。
あ”ーーーっ、復帰に先立つこと5年も前に全島に上水道が引かれ、地下ダムは農業用に作られたものであったとは知らなんだ。浅学薄才を恥じ、オトーリで学ぶこととしよう。
その地下ダムがどのように位置しているかを資料館の展示物から見てみましょうね。
宮古島は北西から南西に大きく6条の断層があり、断層に沿って地層が傾いていいるため三角柱状の地下水盆が形成されている(ケスタと呼ばれているのでしたね)ことは2月15日にお勉強しました。
その琉球石灰岩の下には水を通しにくい島尻層泥岩の地層が横たわっており、地下水はこの上に蓄えられる形になっているわけです。そこで、断層の間にせき止めるダムを作り、その上流の地下水をくみ上げ農業に使用しているということなんです。
赤い線で囲われているところが地下の貯水範囲で、写真下部の海に近いところに連続地中壁が設置されているということです。
なお、地表から浸透する排水によって水質が悪化することを防ぐため地下水の水質監視が行われており、重要な地下水源のある地域においては畜産やリゾート事業などの開発が規制されています。
ここは資料館のそばにある、ダムの露出部で水質検査の為の取水口を兼ねています。
以上のようなこれぞ宮古学という重要なことを学びつつ、日本百景のひとつ「東平安名崎」へ向かったのであります。去年の8月8日には、ここにある絶世の不倫美女マムヤの墓の主、マムヤについていずれ記しますとか言っていたのに本日も先送りします。
東平安名崎の有名な写真がどこから撮られているか今まで疑問だったのですが、今回判明しました。おまかせくださいもう大丈夫です。ここです。(長くなったので誤字脱字などあると思います。各自チェックしてください。)