雫石鉄也の
とつぜんブログ
利休にたずねよ
監督 田中光敏
出演 市川海老蔵、中谷美紀 クララ、大森南朋、伊勢谷友介、市川団十郎、
海老蔵を観る映画といっていいだろう。海老蔵が美しい。海老蔵の所作振る舞いがこの映画のテーマを具現化している。
海老蔵演じる利休はたんなんる茶人にとどまらず、総合芸術家を標榜する、新進のクリエイターである。映画の冒頭は、利休、切腹の朝。切腹見とどけ役が「あの香炉を差し出せば関白殿下はお許しになる」というのに対して「私がぬかずくのは美しいものだけです」と拒否。天下人関白豊臣秀吉に向かって「あんたは美しくない」といっているのだ。切腹になって当然だろう。
次のシーンは利休切腹21年前。利休も若く秀吉も藤吉郎時代で織田家の下っ端だった。当時の権力者信長に呼ばれた茶人数寄者たちが自慢の名品名物を信長に見せる。信長、金を払う。利休の番になった。利休、なんでもない盆に水を入れただけ。障子を開ける。盆に月が映っている。信長、袋から金を全部出す。たぶん、この時の利休は名品も名物も持っていなかったのだろう、で、天の月を信長に献上したわけ。これぞ、茶道でいう一期一会。その月は二度と手に入らない。その時だけのもの。
利休はだれも見たことのない新しい「美」を見出そう/創ろうとしたのである。黒くそっけない茶碗。黒楽茶碗を陶工に依頼して制作した。だれも手にしたことのない茶椀で茶を立てたい。
春の茶会。茶室の外は満開の桜。利休、窓を開ける。桜の花びらが散って、客の茶碗の中に花びらが。たぶん、客の座る位置、窓の場所、桜の木の場所、風向き、全部計算した上での演出であろう。利休は、ただただ茶を立てて客に飲ませるだけではない、人間の五感ぜんぶに訴える美を追求しているのだ。
利休に切腹を命じた秀吉。とうぜん、利休とは違う価値観を持っている人物だが、美の追求者利休を際立たせるために、秀吉はガチャガチャした人物に描かれている。これではただの騒々しい俗物オヤジである。少なくとも天下を取った人物だから、傑物であったことは違いない。秀吉の傑物ぶりも少しは描くべきだったのでは。
利休は若いころ悲恋を経験した。高麗の李王朝につながる高貴な女性が拉致され日本に連れてこられていた。その世話係を師匠に命じられた利休は、あまりの美しさにひと目ぼれ。彼女を連れ出し駆け落ち、海岸の小屋で心中を試みる。女は死に、利休は死にきれず。その時の彼女の形見が例の香炉。その香炉を利休は肌身離さず持っている。秀吉はその香炉を、利休の美の象徴だと思って、さし出せば許すといったのだ。
この高麗の悲劇のお姫さまを演じたのは韓国の歌手だか女優だかだそうだが、かわいい女優さんではあるが、かの利休がひと目ぼれするほどのお姫さまという役では少し役不足では。あれではたんなるアイドルである。もっと神々しいばかりの美しい女優はいなかったのか。例えば「細雪」の吉永小百合のような。それから中国人女優のリン・チーリンのような女優だったらよかったのでは。
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