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続・正月のお酒

 正月の三日だ。鏑木は一升瓶を持って店に入った。店内の灯りを点け、壁のスイッチを押す。ランタンに灯がともり、「海神」の字がやわらかくともった。
「おめでとうさん」老人が入って来た。
「おめでとうございます」
 今年のバー海神の最初のお客は、医者の重松だ。この地で古くからやっている内科の開業医だ。
「今年はワシが一番のりか」
 重松はカウンターに座り、おしぼりで顔をふいた。おしぼりで顔をふくのは、医者としてあまり人にはすすめられない。重松も他の店ではやらない。おしぼりはけっこう雑菌が多いから。この海神のおしぼりは、客に出す直前にマスターの鏑木が煮沸消毒して出す。
「長いあいだワシは2番だったんだが、安藤のじいさんめ先に逝きおって」 
 鏑木が一升瓶の包装紙を取る。灘正宗。灘の生一本、というより神戸の地酒といった方がふさわしい。鏑木は一合枡を五つカウンターに並べる。
「おめでとうございます。マスター」文房具屋の佐賀だ。
 鏑木が灘正宗を枡に注いでいった。鏑木、重松、佐賀の三人が枡を持った。
「おめでとうございます。乾杯」重松が枡を上げた。鏑木も佐賀も枡を上げる。
「こんなモノを用意しました」
 鏑木が皿を出した。ブリのカマと大根おろしがのっている。 
「知り合いでブリを釣ってきたのがいまして。カマをもらいました」
 ブリのカマ。ブリの鰓のフタ。いわばアラであるが、脂がのっていておいしい部位だ。
「竜田揚げにしました」 
 三人はブリのカマの竜田揚げに箸をつけ、枡を傾けた。カウンターには灘正宗が入った枡が二つ並んでいる。
写真屋の犬飼も逝ったな」
「さみしくなりましたな」佐賀がいった。
「来年の正月は、こんなかで一番若いあんたとマスターと二人だけになるな」
「なにをいうんですか先生」
「ワシもそろそろ80だ。もういいじゃろう」
「先生、この商店街を無医村にするつもりですか」
「そうじゃなあ。困ったもんじゃのう」
 カウンターの二つの枡の酒が少し減っている。
「安藤のじいさんと写真屋の犬飼も来ておる」
 三人の枡が空になった。
「おかわり入れましょう」
 鏑木が灘正宗を枡に注いだ。
「正月もいいですが、年々、さみしくなりますね」
「そうでもないさ。安藤のじいさんと犬飼写真屋もちゃんとここに来てるさ」
 カウンターの二つの枡の酒の量が少し減っている。
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