鳥取県には、かつて、廃止されたものも含めて、6つの鉄道が走っていました。境線、山陰本線、伯備線、倉吉線、因美(いんび)線、若桜(わかさ)線の6路線でした。その中で、最も早く開業したのが、境(現・境港)駅と、大篠津(おおしのづ)駅、後藤駅、米子駅、淀江駅を経由して、御来屋(みくりや)駅とを結ぶ山陰本線で、明治35(1902)年11月1日のことでした。その時に開業して、現在も、なお現役で使われている駅舎があります。
それが、このJR山陰本線御来屋駅です。鳥取県西伯郡大山(だいせん)町西坪にあります。実は、御来屋駅と同時に開業した大篠津駅も、当時の駅舎が残っていましたが、平成20(2008)年に、米子空港の拡張工事によって撤去され現存していません。そのため、御来屋駅が「山陰地方最古の駅舎」となっています。この日は、開業以来115年目を迎えて、今も現役駅舎として使用されている御来屋駅を訪ねてきました。
JR米子駅の改札口の前の1番ホームです。ワンマン運転の倉吉駅行きの列車が入線していました。キハ47形の2両編成(キハ471026・472006)の列車でした。
米子駅から30分余、御来屋駅に着きました。御来屋駅は、米子方面の名和駅から1.1キロメートル、次の下市駅へ5.9キロメートルのところにありました。
高校生を含む5,6人の乗客が下車すると、列車は、すぐに下市駅に向けて出発していきました。山陰本線は、その後、明治36(1903)年12月20日には上井(あげい)駅(現在の倉吉駅)まで開業しました。御来屋駅が終着駅だったのはわずかに1年ちょっとの期間だけ。かなりのスピードで山陰本線は延伸していき、明治37(1904)年には松崎駅まで、明治38(1905)年には青谷駅まで、明治40(1907)年4月28日には鳥取駅までが開業しました。跨線橋でつながった2面3線のホームが見えました。
こちらは、米子駅方面です。木造駅舎の旅客用上屋の向こうにまっすぐ線路が延びていました。2面3線のホームですが、駅舎に近い1番線に上り列車も下り列車も停車する、いわゆる”1線スルー化”工事が平成15(2003)年に行われました。1番線は、それ以来、まっすぐ米子方面に向かって延びていくことになりました。
2番・3番ホームのある島式ホームに、旅客列車のような形をした待合室がありました。見に行くことにしました。
跨線橋を上ります。冬の冷たい風や吹雪から身を守るためか、跨線橋は、1ヶ所ある窓の部分を除けば、完全なトンネルになっていました。
島式のホームに降りると、目の前に待合室がありました。かつての車掌車がそのまま置かれているような待合室です。手前はデッキがあったところのようです。
待合室の内部、片面にベンチが設置されザブトンも置かれていました。明るい日射しが差し込んでいます。
待合室の外部に、車掌車の痕跡を見つけました。塗装の下の「ヨ 4709」です。「ヨ」は車掌車を示す記号です。
2面3線のホームになっていましたが、名和駅方面には、3番線の左側に、もう1本の線路跡が残っていました。
たどってみると、線路跡は3番線の左側の柵の外に出ており、途中から線路跡は草に覆われた状態のままになっていました。車止めが草の中に残っていました。
跨線橋の窓から見た駅舎です。赤い桟瓦葺きの屋根の駅舎の前に、旅客用の上屋が接して建てられています。駅舎と旅客上屋は、平成28(2016)年11月29日に、国の登録有形文化財に登録されました。
跨線橋の階段から、駅舎に接したホームに下っていきます。1番ホームにあった旅客上屋です。開業当時のままで今も現役で使用されています。
「直売所みくりや市」の表示が見えました。駅舎は、昭和47(1972)年に、国鉄(当時)から地元の大山町に無償譲渡されたそうです。大山町では、平成14(2002)年に「直売所 みくりや市」をつくりました。
その先に、駅舎の横板張りや、木製のベンチと改札口の設備が見えました。長い歴史を感じさせてくれる風景です。
改札口から駅舎内に入ります。「ほっとする空間 山陰最古の駅舎」の看板が迎えてくれました。漆喰の白壁と柱、かつてはどの駅にもあった風景です。
駅舎の右側。多くの人々の手で磨かれた、出札口のキップの発券台、駅舎の窓枠、荷物の受渡台など、開業当時のものが残り、駅の歴史を今に伝えてくれています。
駅舎内の左側。駅舎に造り付けの椅子とベンチが並んでいます。
現在は無人駅になっており、近距離のキップを販売する自動発券機が設置されていました。明治35(1902)年11月1日の開業時から行われていた貨物の取扱いは、国鉄時代の昭和37(1962)年10月1日に廃止されました。
小荷物取扱いの窓口があったところにつくられていた「ミニ博物館」です。展示物の腕木式信号機のレンズ、釣銭入れの容器、行先表示標などがありました。その中で、ひときわ目を引くのが、「登録有形文化財」の登録証でした。
駅舎内には、たくさんの資料が展示されています。これは、その一つ「小荷物運賃表」です。「食料品運賃」や「行商品運賃」とともに「附随小荷物運賃」が表示されていました。「附随小荷物運賃」の中には、「自動自転車 1両 6銭 最低運賃200円」とか「犬 50粁迄(キロまで) 1頭ニ付 75」などの表示がありました。
鳥取県内の鉄道の開設時期の説明です。赤で書かれているのが、境駅と御来屋駅間です。開業は明治35(1902)年のことでした。この説明によれば、その後、鳥取駅までが明治40(1907)年4月25日に開業しました。続いて、伯備線の生山(しょうやま)駅までが大正12(1923)年12月28日に開業。次に開業した若桜線は、昭和5(1930)年12月1日。因美線は、昭和7(1932)年7月1日に那岐(なぎ)駅までが開業しました。そして、最後に、倉吉線が昭和33(1958)年12月20日に、山守(やまもり)駅までが開業したことがわかります。
これも駅舎内の展示物です。開通時の境(現、境港)駅と御来屋駅間の列車の時刻表と運賃表です。開通時の駅は発着駅も含めて6駅でした。境、大篠津、後藤、米子、淀江、御来屋の各駅です。午前6時15分に米子駅を出た列車は境駅に6時52分着。折り返し、7時00分に出発して御来屋駅着8時33分。折り返し、8時40分発で境駅に10時12分着。10時20分に出発して御来屋着11時57分着。その後、境駅と御来屋駅間を2往復して、最後に、御来屋駅を出るのが18時50分、米子駅着が19時32分。早朝6時15分から19時32分まで、1編成の列車が往復運転をしていたようです。また、運賃は、3等車で御来屋駅から淀江駅が10銭、米子駅までが20銭、後藤駅までが23銭、大篠津駅までが32銭、終点の境駅までが38銭でした。
その近くに、当時の物価も掲示されていました。比較されてはどうでしょう? なお、当時の山陰本線には1等車は連結されていませんでした。また、2等車は、3等車の2倍弱ぐらいの運賃に設定されていたようです。
駅舎から外へ出ました。駅舎の壁面は下見板張り(したみいたばり)になっています。
駅舎への入口です。手書きの駅名標です。ポストと公衆電話ボックスが開業当時と異なっているところです。
駅前の取付道路です。途中で、鳥取県道240号(旧奈和西坪線)と合流し、その先で国道9号と合流します。そして、その先に、日本海が見えました。
駅前から撮影したJR御来屋駅の駅舎です。駅舎の中央部から一段低くなっている、右側の屋根の下はベンチが置かれた待合いのスペースになっています。その右側の別棟の白い建物はトイレです。駐車している車は、「直売所 みくりや市」に行かれている人のものです。
「直売所 みくりや市」は、かつて、駅のスタッフが働いておられた、駅事務所の跡にありました。外からみた「みくりや市」です。
「直売所」ですから、地元の生産者がつくられた物産を販売しています。野菜を中心にした品揃えでした。せっかくお訪ねしたので、販売されていた「木ノ根饅頭」を買いました。包装してあったので、中身がわかりません。販売スタッフの方にお尋ねしますと「焼き饅頭です」とのことでした。
米子方面に引き返そうと駅舎に戻ると、出発時間よりずいぶん早く下り列車が到着していました。2番ホームに待機しています。1線スルー化の工事がなされていましたが、2番線は、下り(米子・松江方面行き)列車の専用線として使われています。キハ121-8号車が乗車を待っていました。
「山陰地方最古の駅」を訪ねてきました。
開業以来、115年を経て、今もなお、現役駅舎として使用されているJR御来屋駅。
博物館のような駅舎内には、駅舎を愛する地元の人たちの思いを感じる様々な展示物が溢れていました。また、地元の産品を販売する「みくりや市」も開かれ、多くの人が行き来する空間になっていました。
多くの人に愛される駅舎として、いつまでも利用される空間であってほしいと、心から願っています。
それが、このJR山陰本線御来屋駅です。鳥取県西伯郡大山(だいせん)町西坪にあります。実は、御来屋駅と同時に開業した大篠津駅も、当時の駅舎が残っていましたが、平成20(2008)年に、米子空港の拡張工事によって撤去され現存していません。そのため、御来屋駅が「山陰地方最古の駅舎」となっています。この日は、開業以来115年目を迎えて、今も現役駅舎として使用されている御来屋駅を訪ねてきました。
JR米子駅の改札口の前の1番ホームです。ワンマン運転の倉吉駅行きの列車が入線していました。キハ47形の2両編成(キハ471026・472006)の列車でした。
米子駅から30分余、御来屋駅に着きました。御来屋駅は、米子方面の名和駅から1.1キロメートル、次の下市駅へ5.9キロメートルのところにありました。
高校生を含む5,6人の乗客が下車すると、列車は、すぐに下市駅に向けて出発していきました。山陰本線は、その後、明治36(1903)年12月20日には上井(あげい)駅(現在の倉吉駅)まで開業しました。御来屋駅が終着駅だったのはわずかに1年ちょっとの期間だけ。かなりのスピードで山陰本線は延伸していき、明治37(1904)年には松崎駅まで、明治38(1905)年には青谷駅まで、明治40(1907)年4月28日には鳥取駅までが開業しました。跨線橋でつながった2面3線のホームが見えました。
こちらは、米子駅方面です。木造駅舎の旅客用上屋の向こうにまっすぐ線路が延びていました。2面3線のホームですが、駅舎に近い1番線に上り列車も下り列車も停車する、いわゆる”1線スルー化”工事が平成15(2003)年に行われました。1番線は、それ以来、まっすぐ米子方面に向かって延びていくことになりました。
2番・3番ホームのある島式ホームに、旅客列車のような形をした待合室がありました。見に行くことにしました。
跨線橋を上ります。冬の冷たい風や吹雪から身を守るためか、跨線橋は、1ヶ所ある窓の部分を除けば、完全なトンネルになっていました。
島式のホームに降りると、目の前に待合室がありました。かつての車掌車がそのまま置かれているような待合室です。手前はデッキがあったところのようです。
待合室の内部、片面にベンチが設置されザブトンも置かれていました。明るい日射しが差し込んでいます。
待合室の外部に、車掌車の痕跡を見つけました。塗装の下の「ヨ 4709」です。「ヨ」は車掌車を示す記号です。
2面3線のホームになっていましたが、名和駅方面には、3番線の左側に、もう1本の線路跡が残っていました。
たどってみると、線路跡は3番線の左側の柵の外に出ており、途中から線路跡は草に覆われた状態のままになっていました。車止めが草の中に残っていました。
跨線橋の窓から見た駅舎です。赤い桟瓦葺きの屋根の駅舎の前に、旅客用の上屋が接して建てられています。駅舎と旅客上屋は、平成28(2016)年11月29日に、国の登録有形文化財に登録されました。
跨線橋の階段から、駅舎に接したホームに下っていきます。1番ホームにあった旅客上屋です。開業当時のままで今も現役で使用されています。
「直売所みくりや市」の表示が見えました。駅舎は、昭和47(1972)年に、国鉄(当時)から地元の大山町に無償譲渡されたそうです。大山町では、平成14(2002)年に「直売所 みくりや市」をつくりました。
その先に、駅舎の横板張りや、木製のベンチと改札口の設備が見えました。長い歴史を感じさせてくれる風景です。
改札口から駅舎内に入ります。「ほっとする空間 山陰最古の駅舎」の看板が迎えてくれました。漆喰の白壁と柱、かつてはどの駅にもあった風景です。
駅舎の右側。多くの人々の手で磨かれた、出札口のキップの発券台、駅舎の窓枠、荷物の受渡台など、開業当時のものが残り、駅の歴史を今に伝えてくれています。
駅舎内の左側。駅舎に造り付けの椅子とベンチが並んでいます。
現在は無人駅になっており、近距離のキップを販売する自動発券機が設置されていました。明治35(1902)年11月1日の開業時から行われていた貨物の取扱いは、国鉄時代の昭和37(1962)年10月1日に廃止されました。
小荷物取扱いの窓口があったところにつくられていた「ミニ博物館」です。展示物の腕木式信号機のレンズ、釣銭入れの容器、行先表示標などがありました。その中で、ひときわ目を引くのが、「登録有形文化財」の登録証でした。
駅舎内には、たくさんの資料が展示されています。これは、その一つ「小荷物運賃表」です。「食料品運賃」や「行商品運賃」とともに「附随小荷物運賃」が表示されていました。「附随小荷物運賃」の中には、「自動自転車 1両 6銭 最低運賃200円」とか「犬 50粁迄(キロまで) 1頭ニ付 75」などの表示がありました。
鳥取県内の鉄道の開設時期の説明です。赤で書かれているのが、境駅と御来屋駅間です。開業は明治35(1902)年のことでした。この説明によれば、その後、鳥取駅までが明治40(1907)年4月25日に開業しました。続いて、伯備線の生山(しょうやま)駅までが大正12(1923)年12月28日に開業。次に開業した若桜線は、昭和5(1930)年12月1日。因美線は、昭和7(1932)年7月1日に那岐(なぎ)駅までが開業しました。そして、最後に、倉吉線が昭和33(1958)年12月20日に、山守(やまもり)駅までが開業したことがわかります。
これも駅舎内の展示物です。開通時の境(現、境港)駅と御来屋駅間の列車の時刻表と運賃表です。開通時の駅は発着駅も含めて6駅でした。境、大篠津、後藤、米子、淀江、御来屋の各駅です。午前6時15分に米子駅を出た列車は境駅に6時52分着。折り返し、7時00分に出発して御来屋駅着8時33分。折り返し、8時40分発で境駅に10時12分着。10時20分に出発して御来屋着11時57分着。その後、境駅と御来屋駅間を2往復して、最後に、御来屋駅を出るのが18時50分、米子駅着が19時32分。早朝6時15分から19時32分まで、1編成の列車が往復運転をしていたようです。また、運賃は、3等車で御来屋駅から淀江駅が10銭、米子駅までが20銭、後藤駅までが23銭、大篠津駅までが32銭、終点の境駅までが38銭でした。
その近くに、当時の物価も掲示されていました。比較されてはどうでしょう? なお、当時の山陰本線には1等車は連結されていませんでした。また、2等車は、3等車の2倍弱ぐらいの運賃に設定されていたようです。
駅舎から外へ出ました。駅舎の壁面は下見板張り(したみいたばり)になっています。
駅舎への入口です。手書きの駅名標です。ポストと公衆電話ボックスが開業当時と異なっているところです。
駅前の取付道路です。途中で、鳥取県道240号(旧奈和西坪線)と合流し、その先で国道9号と合流します。そして、その先に、日本海が見えました。
駅前から撮影したJR御来屋駅の駅舎です。駅舎の中央部から一段低くなっている、右側の屋根の下はベンチが置かれた待合いのスペースになっています。その右側の別棟の白い建物はトイレです。駐車している車は、「直売所 みくりや市」に行かれている人のものです。
「直売所 みくりや市」は、かつて、駅のスタッフが働いておられた、駅事務所の跡にありました。外からみた「みくりや市」です。
「直売所」ですから、地元の生産者がつくられた物産を販売しています。野菜を中心にした品揃えでした。せっかくお訪ねしたので、販売されていた「木ノ根饅頭」を買いました。包装してあったので、中身がわかりません。販売スタッフの方にお尋ねしますと「焼き饅頭です」とのことでした。
米子方面に引き返そうと駅舎に戻ると、出発時間よりずいぶん早く下り列車が到着していました。2番ホームに待機しています。1線スルー化の工事がなされていましたが、2番線は、下り(米子・松江方面行き)列車の専用線として使われています。キハ121-8号車が乗車を待っていました。
「山陰地方最古の駅」を訪ねてきました。
開業以来、115年を経て、今もなお、現役駅舎として使用されているJR御来屋駅。
博物館のような駅舎内には、駅舎を愛する地元の人たちの思いを感じる様々な展示物が溢れていました。また、地元の産品を販売する「みくりや市」も開かれ、多くの人が行き来する空間になっていました。
多くの人に愛される駅舎として、いつまでも利用される空間であってほしいと、心から願っています。