トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR山陰本線の”秘境駅”、餘部駅

2017年01月14日 | 日記

JR山陰本線の餘部(あまるべ)駅の駅名標です。餘部駅は、牛山隆信氏が主宰されている”秘境駅ランキング”の133位にランクインしている”秘境駅”です。兵庫県の北西部の鳥取県境に近い地域にあります。餘部駅の両隣の鎧駅(よろいえき・170位)と久谷駅(くたにえき・162位)も、秘境駅の200位以内にランクインしています。青春18きっぷの最後の機会となった日曜日、JR餘部駅を訪ねました。

姫路駅で少し寄り道してしてしまい、予定していた播但線の列車に乗り遅れたため、JR豊岡駅で、13時02分発の浜坂駅行きの山陰本線の普通列車に乗り継ぎました。3両編成の先頭車両は、キハ402007号車。「天空の城」「竹田城跡」のラッピング車両、観光列車”竹田城号”でした。この日は普通列車での運用でした。

キハ402007号車の内部です。播但線で運用する場合の竹田城跡側に、外に向かって3人掛けの座席が並んでいます。ほぼ満員の状態で出発しました。

JR餘部駅の手前で渡った”2代目の余部(あまるべ)橋梁”です。写真の方向が豊岡方面、橋を手前に渡った先がJR餘部駅です。”余部橋梁”といえば、どうしても思い出すことがあります。昭和61(1986)年12月28日(日曜日)の13時15分頃、余部鉄橋を渡っていた回送中の団体臨時列車”みやび”の転落事故のことです。日本海からの突風にあおられ、牽引していたディーゼル機関車と客車の台車の一部を残して7両の車両が転落しました。懸命の復旧工事により、事故から3日後の12月31日(水曜日)午後3時頃に復旧し開通させたそうです。

回送列車の車掌1名と橋梁下の食品加工工場の12名の従業員のうちの5名の方がお亡くなり、客車内におられた日本食堂のスタッフ1名と、加工工場の5名の方、計6名の方が重傷を負うという大事故でした。当時、橋梁から列車が転落したというありえない事故にショックを受けたことを思い出します。事故現場は50mに渡ってレールが曲がり、枕木もずたずたになっていたそうです。写真は、海側から見た”2代目余部橋梁”です。海側に”初代余部橋梁”の橋脚の一部が再現されています。

JR餘部駅には、13時59分に到着しました。当初の予定より1時間15分ほど遅くなってしまいましたが・・。外国人観光客も含めて、20名ほどの乗客が下車されました。さて、JR餘部駅は、兵庫県美方郡香美町香住区余部にあります。昭和34(1959)年、国鉄山陰本線の鎧(よろい)駅と久谷(くたに)駅間が延伸開業したときに開業しました。駅の設置を求める地元の人たちの熱心な要請活動によるものでした。地名から命名すると「余部駅」になるはずでしたが、駅名は「餘部駅」と表記されています。これは、同じJR山陰本線にある「JR余部(よべ)駅」との重複を回避するためだったといわれています。「JR余部駅」は、「JR餘部駅」に先立つ昭和5(1930)年に、開業していたからです。

浜坂行き普通列車は、すぐに出発していきました。この日は、餘部駅発14時34分の普通列車(乗車してきた普通列車の折り返し便)で、帰ることにしていました。25分の滞在時間しかありません。姫路駅で乗り継ぎに失敗したことを、また、後悔してしまいました。

急いで、JR餘部駅を見て歩くことにしました。浜坂駅寄りから見たホームです。1面1線の棒状駅で、山(南)側に線路が敷かれています。
これは、転落事故から24年後の平成22(2010)年、”2代目の余部橋梁”ができあがったときに、付け替えられたことによります。それ以前は、ホームの海(北)側に線路が敷かれていました。写真の線路の先に”2代目の余部橋梁”があります。ホームの左側の白い建物はトイレです。

トイレの向こうにあった待合室です。冬には強風が吹く餘部駅周辺ですが、これなら風を十分防ぐことができます。この日はおだやかな天候でしたので待合室に避難する必要はありませんでしたが・・。

待合室の内部です。正面に二つのベンチ、その間に、多くの”秘境駅”に置かれている”駅ノート”が積まれていました。ちなみに、この”秘境駅”の1日平均の乗車人員は、2013年には57人だったそうです。

待合室の先にあった「空の駅」の石碑です。ホームの海(北)側にかつての山陰本線の線路を再現し、展望台を整備しています。それが「空の駅」。現在の線路は、写真の線路のさらに右側に敷かれています。

ホームを豊岡方面に向かって進みます。駅名標がある付近に、かつての橋梁の鋼材でつくられたベンチが置いてありました。

ホームが途切れるところから「空の駅」に向かう道が分岐しています。「空の駅」に向かいます。

「ここより先は空の駅です」という案内にしたがって進みます。左側には山陰本線の旧線が残っています。

旧線の線路が途切れ、線路跡がコンクリートになると「空の駅」の入口です。「空の駅」は、橋梁と線路が付け替えられた平成22(2010)年から供用が開始されています。門を入って、さらに進んでいきます。

「空の駅」は、”初代余部橋梁”の上に整備されています。作り付けのベンチと、コンクリートの床の上に描かれた線路がありました。下部は橋脚4基と橋台2基で支えられています。現在は、秒速30mまで通行ができることになっているそうです。下には、余部の集落と湾入した海。おだやかな天候でしたので、冬の日本海とは思えないような青い海が見えました。

「空の駅」には、通路から下を覗くことができる設備もついていました。

「空の駅」の突き当たりから見た、橋梁の下のようすです。民家の屋根が見えました。

行き止まりになった「空の駅」の先。線路が途切れたところで、”初代余部橋梁”の橋脚も途切れています。

現在の山陰本線の豊岡方面です。”2代目の余部橋梁”はスマートな印象を残す橋梁です。エクストラドーズド形式のPC(プレストレスト・コンクリート製)の橋だそうです。

「空の駅」から旧線跡を歩いて待合室の手前に戻ります。

そこから、集落に降りていく道を歩きます。

橋梁の下をくぐって線路の山(南)側に進む途中の写真です。手前の赤い橋脚が”初代余部橋梁”のものです。”初代の余部橋梁”は明治45(1912)年3月1日に開通しました。鋼製のトレッスル橋で、全長310.59m、下を流れる長谷川の川床からレールの面までの高さは、41.45mあったそうです。また、橋脚は全部で11基、23連の橋桁がついていたそうです。上は「空の駅」になっています。以前の位置から山(南)側に7m程度寄ったところに、建てられているそうです。

線路の山(南)側に渡り、今度は坂道を上って行きます。こちら側は”2代目の余部橋梁”です。長さは309mで、標高43.9mのところに架かっているそうです。

新しい山陰本線は、ホームの右(山)側の付け替えられました。トンネルの手前で大きくS字にカーブして、トンネルの中に入っていきます。

”秘境駅ランキング”の133位にランクインしている餘部駅は、主宰する牛山氏の評価では、秘境度1ポイント(P)、雰囲気1P、列車到達難易度4P、外部到達難易度10P、鉄道資産指数2Pの合計、18Pを獲得しています。外部到達難易度のポイントが突出して高い評価にになっています。鉄道は普通列車しか停車しませんが、日中は1~2時間に1本程度列車が停車しています。餘部駅は列車で訪ねるには、比較的訪ねやすい”秘境駅”になっていました。

豊岡行きの列車が到着する時間が近づいて来ました。残念ながら、転落事故のとき加工工場があった地上面に降りていく時間がなくなりました。ホームに戻ります。すぐに、JR山陰本線、播但線、山陽本線を経由する6時間の普通列車の旅が、また始まります。