トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

”将軍の直轄橋”があった宿場町、東海道吉田宿

2015年02月16日 | 日記

広重の「東海道五十三次」です。画面の左側の橋は、将軍の直轄橋、いわゆる「天下橋」として知られていました。豊川に架かる長さ120間(約239m)の大橋、東海道でも有数の橋でした。現在の豊橋市にあった旧東海道34番目の宿場、吉田宿の京寄りの出口に架かっていた吉田大橋です。

この地図は豊橋市内に掲示されていた案内図です。地図の中にグレイで書かれた波線がかつての東海道のルートでした。”日本一の急カーブ”を見学した日(2015年2月5日の日記)、東海道吉田宿を歩きました。吉田宿は二川宿から1里20町(約6.1km)のところにありました。江戸時代、東海道を西に向かう旅人は地図の右下から斜めに延びる国道1号線を、東八丁に向かって歩き吉田宿に入っていました。

東八町の交差点です。豊橋鉄道の東八町停留場の近くにあった秋葉山常夜灯がトラックの上に見えました。

これが秋葉山常夜灯です。文化2(1805)年に、この地に住む人々によって、吉田宿東惣門前に建立されていました。昭和19(1944)年に起きた三河地震で倒壊しましたが、平成13(2001)年にこの地に復元されました。

東八町の交差点は横断陸橋で渡るようになっています。写真は西に向かう国道1号線を撮影しました。旧東海道はこの東八町の交差点の手前で鈎形に曲がっておりました。写真の横断陸橋を左に降りたところに、かつての東惣門のミニチュアが建てられていました。

これが吉田宿の東の入り口に建てられていた東惣門のミニチュアです。江戸時代には、朝の六ツ(午前6時)から夜八つ(午後十時)まで開いていました。説明には「鍛冶橋の東側に位置する下モ町の吉田城惣門西で、東海道にまたがって南向きにつくられていた」と書かれていました。

鈎型に曲がっていた旧東海道の道筋はどうもはっきりしませんでした。写真は、東惣門のミニチュアがつくられていた通りの南西方向です。交差点から50mぐらいのところに「東海道」と書かれた標識がありました。この「東海道」の標識は、この後もルートを確認するのに大変役に立ちました。標識に沿って、右に曲がります。

カーブして入った国道1号線の一つ南の通りです。この通りが旧東海道です。この先の最初の交差点を左折(南行)します。城下町を通る街道は真っ直ぐな道はほとんどありません。ここ吉田宿も、右に左に曲がりながら進んでいく道でした。

南に向かって進みます。右側に造立稲荷神社がありました。その先の交差点を右折(西行)します。

造立稲荷神社の先の交差点で西に向かって撮影しました。右に造立稲荷神社が見えます。

右折して西に向かって鍛冶町を進みます。豊橋市は空襲の被害を受け、旧東海道の面影はまったく残っていませんでした。

分離帯にくすのきが植えられている大きな通りに着きました。このあたりは曲尺手(かねんて)町。「曲尺手」は「曲がりくねった道」という意味だそうです。

交差点の左側の分離帯の中にあった東海道の標識です。「京へ五十二里」「江戸へ七十四里」と示されています。

交差点の右側の分離帯の中にあった「史蹟 曲尺手門」の碑です。城内への入り口です。ここまで、東海道は吉田城の惣堀跡に沿って進んできました。

交差点を右折して、くすのき通りを進んで行くと吉田城跡に整備された豊橋公園に到ります。写真は、豊橋場の鉄櫓(くろがねやぐら)です。天正18(1590)年、15万2千石で池田輝正が入封し城下町の整備に着手しました。輝正は10年後に姫路に移封されてからは、小禄の譜代大名が城主であったため天守閣はつくられず、隅櫓の一つの鉄櫓を天守閣の替わりとしていました。

曲尺手町に戻り、さらに西に向かいます。

「うどん」と書かれたそば屋さん。「大正2(1913)年創業」の老舗です。旧東海道はこのお店の前を左折(南行)します。

すぐに突き当たりになります。「東海道」の標識にしたがって、”ヴィジュアルスタジオ マリオ”(Bridal)の建物の前を右折(西行)します。

呉服町の交差点の前に来ました。かつての宿場町の中心部に近づいて来ます。右のガソリンスタンド付近はかつて高札場が置かれていました。かつては碑があったらしいのですが、見あたりませんでした。

ガソリンスタンドとその先のNTT豊橋支店の間の通りにあった「豊橋市道路元標」の石碑です。道路の脇にひっそりと建っていました。

NTT三河支店の前の歩道上にあった「問屋場跡」の碑です。問屋場は道中奉行支配で人馬の継立てを担った役所で、問屋、年寄、帳付などの問屋場役人によって、運営されていました。東海道の宿場には、規定で「人足100人と馬100疋」が宿場ごとに常備されていました。

この地図はNTT三河支店の近くにあった観光案内用の地図です。旧東海道はここからまっすぐ西に向かっていました。豊橋鉄道の路面電車の札木(ふだぎ)停留場が目の前です。

田原街道を横断します。ちょうど豊橋鉄道の路面電車、3202号車が出て行くところでした。

田原街道を横断すると、すぐ右に「うなぎの丸よ」のお店があります。創業120年余という老舗の鰻屋さんです。ここが吉田宿本陣跡でした。

お店の前にあった「吉田宿本陣跡」の碑。傍の説明によれば「享和2(1802)年の書上では、建坪327坪(1,080㎡)の清洲屋予右衛門と建坪196.5(648㎡)の江戸屋新右衛門の2軒の本陣が並んでいた」そうで、清須屋の東隣に江戸屋があったようです。明治になってから、「渡辺崋山の息子が丸よの鰻を食べて、『頗(すこぶる)別嬪(べっぴん)』と評した」という看板を掲げたため、ここから美人に転訛して、美人を別嬪というようになったといいます。

本陣跡の斜め向かいにあった「脇本陣跡」の石碑です。天保14(1843)年の記録では、吉田宿には、5277人(男性2505人、女性2772人)が居住していました。また、家数は1293軒で、その中に本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠が65軒ありました。「吉田通れば 2階から招く しかも鹿の子の振り袖が」とか、「御油(ぎょゆ)や赤坂、吉田がなくば 何のよしみで 江戸通い・・・」と歌われたように、たくさんの飯盛女がいた、賑やかな宿場だったようです。

脇本陣跡の碑のすぐ先に「きく宗」のお店がりました。江戸時代の文政年間(1818~1829)創業の菜めし田楽の老舗です。こんがりと焼かれた串刺しの豆腐に秘伝の八丁味噌を塗った田楽で知られているそうです。

旧東海道は、その先の松葉公園の交差点の手前を右折(北行)します。

松葉公園の交差点の脇にあった「東海道吉田宿」の碑です。くすのき通りにあった石標と同じ京と江戸への里程が彫られていました。

松葉公園から北に向かって進みます。ここでも「東海道」の標識が参考になります。

国道1号線の交差点に入ります。国道を渡った先に「西惣門」のミニチュアがありました。

吉田宿の西の出口です。吉田宿は23町30間(約2.6km)に渡って家並みが続いていました。

国道を渡ってからも、そのまま北に向かいます。そして、国道1号線の次の信号を左折(西行)します。ここでも「東海道」の標識が役に立ちました。

西に向かって歩きます。船町の交差点で右折し、大橋通を北に向かいます。船町は浅井長政の家臣である浅井与次右衛門の一門80人が、天正18(1590)年に池田輝正から定住を許され、開発したところです。

その先は豊川に架かる豊橋に向かって上っていきます。近世初頭に開かれた吉田湊は、豊川による水運の終点として、また、伊勢や江戸に向かう起点として栄えました。当時、吉田湊は三河地方で最大の川湊でした。船町の人々は、この荷物の中継地での船役を命じられ、地子(地代)免除になっていました。

この風景は豊橋の上から見た吉田城方面です。高いビルは豊橋市役所や豊橋警察署。橋の上を渡る白いトラックの上のあたりに吉田城の鉄櫓があります。

広重の描いた吉田大橋は、今の豊橋より70mほど城寄りに架かっていたようです。橋の南詰は、寛永13(1636)年から高札場になっており、河川の取締、橋の保護などの重要な取り決めが掲げられていたそうです。

豊橋を渡りきると、左側にあるカラフルなビルの手前を左折(西行)します。

その先は豊川に沿って、旧東海道が延びていました。次の御油宿まで2里20町(約10.5km)ありました。

吉田大橋は、もともとは貞応3(1224)年に建設された今橋だったといわれています。その後、徳川氏の武将であった酒井忠次が、元亀元(1570)年に架橋します。その橋を、天正19(1591)年に、吉田城を築城した池田輝正が整備しました。そして、その頃から、吉田湊は三河一の川湊として栄えました。江戸時代に入ると、江戸幕府が管理する「天下橋」として、吉田宿を代表する存在でした。