トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

井原駅から県境へ、旧山陽道を歩く

2014年06月16日 | 日記
江戸時代、京と九州・太宰府とを結んだ西国往来。参勤交代の大名や様々な物資の運搬に使われました。岡山県の人たちには、山陽道の方がなじみがあります。前回歩いた岡山宿から藤井宿まで(2013年10月22日の日記)に続き、今回は、岡山県西部の井原鉄道井原駅から広島県境まで、旧山陽道を歩きました。

今回のイベントのスタート地点、第3セクターの井原鉄道の井原駅です。岡山駅からJR伯備線の電車で清音駅へ、井原鉄道に乗り換えてここまでやって来ました。今回のイベントのスタート地点です。30人ぐらいの参加者と、県境までの約6kmを歩くことにしていました。

旧山陽道に向かいます。前方右にあるアクティブライフ井原(改修中のため施設のほとんどがカバーで覆われています)の手前を左右(東西)に延びる道が旧山陽道です。

井原駅前から北に延びる、駅前通りを進み2つ目の交差点で左折します。

左折して10分ほど歩くと、「上出部町東桜木」の信号に着きます。ここからは、旧街道の面影を残す幅4mぐらいの道が続くようになります。

さらに5分ぐらいで、やや広いところに出ます。

写真の中央にヤマザキパンの看板を掛けたお店が見えます。そのお店とその左の倉庫風の建物の間は、廃止された井笠鉄道の神辺線の踏切があったところです。以前神辺線の線路跡に沿って歩いたことがあります(2013年6月11日と2013年6月23日の日記)が、神辺方面からやってきた列車は左の塀のある民家を、大きな左カーブを描いて井原駅(現井原バスセンター)に向かっていました。

今回は旧山陽道を進みますので、写真の右前の狭い道をまっすぐに進んで行きます。

5分ほど歩くと、左側に岩山神社の鳥居と金毘羅灯籠がありました。井笠鉄道神辺線は鳥居の奥を右(西)から左(東)に向かって走っていました。

旧街道の雰囲気を残す通りには、白漆喰に本瓦葺き、なまこ壁に虫籠窓の伝統的な民家が点在していました。

旧街道の脇にあった「いづへ駅」の道標が残っていました。ここから100mぐらい入ったところにある井笠鉄道神辺線出部(いずえ)駅を知らせる道標でした。裏には「昭十七建」と書かれていました。昭和17(1942)年に建てられたもののようです。

雰囲気のある家並が続きます。青い空に民家と緑の樹木が映えてきれいです。

出部駅の道標から10分ほどで、一里塚の跡に着きました。上出部と下出部の境界にあるそうです。道路の右側の民家の前に石碑がつくられていました。「旧山陽道一里塚跡 下出部ふる里会 平成4年5月吉日」と刻まれていました。いただいた資料には「国道の両側に存す。南側の分は塚のみを残す。明治初年頃迄は榎木の枯れ木を存した由なるも今はなし(岡山県通史)」「北側には昭和24年まで松1株があったが、交通の妨げになったので伐採した(井原市史)」と書かれていました。かつては、一里塚の前に六地蔵があったそうですが、今は姿が見えませんでした。

一里塚跡から5分ぐらいで、出雲神社の鳥居が見えました。鳥居の先の山の麓に、銅板葺きの本殿が見えました。鳥居は正徳6(1716)年の建立です。

一里塚から3分ぐらいで荒神社の脇を通ります。境内の手水鉢のそばに、地上70cmぐらいの下出部の里程標が建っていました。明治14(1882)年岡山県が設置したものです。ここは、岡山市の京橋に近い橋本町の道路元標からちょうど13里の地点を示しています。いただいた資料によれば「同年同規模の道標から推定すると60cmほどが地中に埋まっている」とのこと。もとは130cmぐらいの高さだったようです。

美しい旧街道の風景の中をさらに歩きます。右前方に織物会社の倉庫が見えました。

倉庫の先にあった金比羅灯籠。舟形の土台の上に設置されていました。地元では「舟灯籠」といわれて親しまれているそうです。

すぐ前の田んぼのそばに、高さ2.5mの大きな題目石、「南無妙法蓮華経」と法華宗の題目が刻まれています。宝暦11(1761)年の建立だそうです。

しばらく井原鉄道の高架に沿って歩いてきましたが、題目石の先が分岐点です。そばにお堂が見えました。

「薬師如来」と刻まれた石像がおさめられていました。薬師堂です。

山陽道はここで大きく右に曲がっていました。大曲跡です。大曲とは、慶長8(1603)年に刊行された「日葡辞書」には、「街道に2ヶ所、大きな直角の曲がりがあるところ」と書かれているそうです。

薬師堂の脇にあった「山陽道大曲跡」の案内板にあった絵図です。原本は天保9(1838)年につくられたものですが、その中にこの大曲が描かれています。実は、徒歩の旅であった江戸時代には単調な旅に変化を与えるため一里塚をつくっていました。大曲もそれと同じ目的で山陽道につくられていたそうです。参勤交代の旅を続ける殿様はこの大曲で駕籠を止めて前後の行列を見ていたそうです。

右に大きくカーブして進みます。この先で国道313号を渡ります。横断歩道がないので、迂回しないといけませんが・・・。 313号線を横断した後、山陽道は住宅のために寸断されていました。

国道313号を横断して初めて交差する通りです。写真には迂回して313号線を横断した参加者が歩いている様子が写っています。ここで、左折して進みます。

左折してから5分ぐらいで、左の道端に「旧山陽道備中大橋跡」の石碑がありました。お世話をしてくださっていた方のお話では、「昔はこのあたりは沼が広がっていて、歩きにくいので橋を架けていた」とのことでした。

備中大橋跡から10分ぐらいで旧高屋村(現・井原市高屋)との村境の家後屋地区に入ります。川の手前で、左側から川に沿って来る道路と合流して、高屋川にかかる後月橋を渡ります。合流点には常夜灯が残っていました。旧街道は高屋川に向かって上っていきます。

村境にある六地蔵です。旧街道を歩く旅人は、ここで道中の安全を祈願して旅を続けていました。

後月橋を渡ります。左側にあった法泉院です。いただいた資料によると、江戸時代には、高屋川は「川広6間石橋」(「中国行程記」)と書かれており、後月橋は石橋だったようです。

高屋川に沿って右に向かう県道103号の脇に、文化14(1817)年の灯籠がありました。

旧高屋村に入ります。高屋村は宿場町として栄えました。なまこ壁の商家が続く家並みにかつての面影をしのぶことができます。いただいた資料には「人家二百軒ばかり、商家茶屋あり、宿屋もあれどよからず」(「筑紫紀行」)、また、「幕府領。備後国上下陣屋支配で高屋宿目代、三皷善次郎と庄屋、山下藤右衛門、岡本勢平、高木菊蔵、原田伝次郎、吉田喜十郎ら5名で治めている」(「備中村鑑」)と書かれていました。

左側に高屋郵便局を見ながら進むと、右側に上野耐之(うえのたいし)の生家跡がありました。この地方に古くから伝わる「ねんねこしゃっしゃりまーせ」の子守唄を山田耕筰の前で披露し、「中国地方の子守唄」として全国に広めたことで知られる声楽家です。いただいた資料に「高屋宿本陣上野愛兵衛 脇本陣 久保木治平」(「後月郡誌」)と書かれていましたが、この「本陣上野家」は、かつて声楽家上野耐之の実家跡にあったそうです。

生家跡に掲示されていた案内板です。明治・大正・昭和・平成と4つの時代を声楽一筋に生きた上野耐之を伝えています。

その先の右側の民家に接してあった高山寺の道標です。江戸時代中期に建立されたといわれています。高山寺はここから北へ2kmの山中にある真言宗の名刹です。ここまで1町ごとに石仏が建っているそうです。

その先で、来た道を振り返って撮影しました。雰囲気のある通りです。

民家にあった「中国地方の子守唄」の歌詞です。井原市は昭和61(1986)年から,上野耐之に因んだ「日本の子守唄フェスティバル」を開催しています。

商家の面影を残すお宅です。

「子守唄の散歩道」とある通りを進むと、県境に到着します。

県境にあった道標です。災害のため、平成17(2005)年2月に建て替えられた大きな道標です。もともとの道標は大正8(1919)年につくられたといわれています。街道の手前には「七日市駅へ 壱里拾壱町拾参間」、右側には「広島縣距 広島県細工町元標 参拾里貳拾八間参尺九寸  岡山縣距 岡山縣橋本町元標 拾参里貳拾七町参拾六間」と、両県の道路元標までの距離が記されています。 

山陽道はここで国境を越え、備中国から次の備後国に入り、神辺宿(現広島県福山市)に向かって延びています。

井原駅から旧高屋宿までの6kmを歩きました。とりたてて大きな見どころといってはありませんでしたが、歩いている視線の先に、多くの歴史的遺産が残っていました。街道歩きの楽しみは、そんなかつての面影をしのべるところです。 機会があれば、残るルートも歩いてみたいと思いました。