トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

宇品に残る宇品線時代のゆかりの地を訪ねる

2014年03月02日 | 日記
旧宇品線に沿って、JR広島駅から旧宇品駅まで歩いた日(「着工から17日で開業 旧宇品線の面影を求めて」2014年2月15日の日記)、宇品線が走っていた時代の名残を求めて、宇品の街を歩きました。

この写真は、かつての国鉄宇品線の旧下丹那駅から旧宇品駅に向かって歩いていたときに撮影したものです。宇品線はこの先にある広島高速3号線に沿って右(西方)にカーブしながら宇品駅に入っていました。

宇品駅は、現在の広島高速3号線、宇品インターチェンジがある付近に563m(貨物列車60両分に相当)にわたってホームが続いていたそうです。

これは、広島市郷土資料館で行われた企画展「陸軍の三廠」のパンフレットに掲載されていた地図にあった宇品駅ですが、その先、現在、広島電鉄が走っているあたりまで続いていたようです。

高速道路の北側に競輪場がありますが、反対側の南側に、宇品陸軍糧秣(りょうまつ)支廠のレンガ倉庫の一部が保存されていました。明治30(1897)年に設置された、陸軍中央糧秣廠宇品支廠です。宇品支廠は、明治35(1902)年陸軍糧秣廠宇品支廠と改称されました。「糧(りょう)」は軍人の食糧、「秣(まつ)」は軍馬の食糧(かいば)のことで、人馬の食料の調達や製造、貯蔵、補給を担当するところでした。

モニュメントのそばに、当時の写真が展示してありました。

これが、宇品陸軍糧秣支廠の倉庫でした。手前に引き込み線が見えます。

保存されていたモニュメントは、倉庫の「妻」の部分だったようです。糧秣支廠の建物は、戦後の昭和25(1950)年から、日本通運株式会社が倉庫として使用していましたが、平成9(1997)年に解体されました。

この写真は解体される直前の姿だそうです。広島郷土資料館でいただいたパンフレットの中にあった写真です。

糧秣支廠の倉庫のモニュメントから1ブロック南に、宇品波止場公園の案内板がありました。

案内板のとおりに、塀に沿ってもう少し南に向かうと宇品波止場公園に入ります。

公園に残っていた宇品線のモニュメントです。

波止場公園に残っていたかつての六管桟橋の跡です。宇品港は明治22(1889)年に築港されました。明治27(1894)年の日清戦争の開戦前の6月に山陽鉄道が、8月20日には宇品線が開通します。宇品港の軍事的価値は高まり、日露戦争から昭和20(1945)年の終戦まで、陸軍の軍用港として使われることになりました。六管桟橋は明治35(1902)年に建設され、「多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎え」(案内板の説明)ました。宇品港の軍用桟橋として建設されたのが六管桟橋で、築港当時の唯一の遺構だそうです。ちなみに、「六管」とは第六管区海上保安本部のこと。戦後、六管の桟橋として使われていたため、この名前がつけられたそうです。

現在の宇品港です。六管桟橋の遺構の前にあった海上保安庁の桟橋です。現在も「六管」との関わりが続いています。

これは、波止場公園の東につくられた1万トンバースの遠景です。宇品港から改称され発展する広島港を象徴する施設です。

六管桟橋から右側に目を移すと、たくさんの倉庫や事務所などが並んでいます。

波止場公園から、高速道路の一つ南の倉庫が並ぶ道、海岸通りに戻ります。そこから西に向かって歩きます。

宇品3丁目13番の信号を越えて、しばらくすると、左(南)側に木造2階建ての洋風建築が見えました。広島県広島港湾振興事務所と書かれた建物です。

この建物は、明治42(1909)年、広島水上警察署として建設されました。昭和40(1965)年から広島港湾事務所の事務室として、昭和56(1981)年からは港湾事務所の倉庫として使用されました。広島市内に現存する唯一の「明治の洋風木造建築」だそうです。

右側からやってくる広島電鉄の路面電車が右カーブして平行して走る手前に、日本通運広島海運支店の建物がありました。宇品陸軍糧秣支廠を、戦後倉庫として借りていた会社です。

広島電鉄の路面電車と平行して歩くようになりました。小さな交差点の先に、「安芸ノ海」の看板が見えました。「広島県唯一の横綱」と書かれていました。この関取は、昭和14(1939)年、69連勝中だった横綱双葉山を破ったことで広く知られています。

昭和17(1942)年、27歳で第37代横綱になりました。

横綱安芸ノ海は、本名永田節男(たかお)。この付近で、永田船舶食料品店の長男として、大正3(1914)年に生まれました。家業の荷物運びに励んでいた17歳の時に、大相撲にスカウトされたそうです。写真に矢印で示された手前から2軒目の建物が横綱のご実家なのだそうです。

案内に掲示されていた、実家の現在位置です。高速道路の下の交差点あたりになるのだそうです。

実家のあった場所と思われるところです。

もう一つ、訪ねてみたいところがありました。広島電鉄の路面電車に乗車して、広島駅方面に向かいました。10分ほどで宇品二丁目の電停に着きました。宇品2丁目の駅は上り下りで、電停の位置がずれています。二つの電停の中間地点を左(西)側に向かって進みます。5ブロック目に案内が掲示されていました。

めざすはこの広島市郷土資料館です。細い道をさらに西へ向かいます。

赤いレンガの郷土資料館に着きました。企画展の「陸軍の三廠 ~宇品線沿線の軍需施設~」が開かれていました。ここは、レンガの壁が残されていた、宇品糧秣支廠の缶詰工場があったところです。

この配置図は資料館でいただいたパンフレットに書かれていた、昭和5(1930)年頃の糧秣支廠の建物のようすです。缶詰工場は、明治44(1911)年に建設され、牛肉の大和煮の缶詰を製造していました。また、材料の牛肉の食肉処理を行う処理場が、この資料館の北、現在グランドになっているところにつくられていました。

糧秣支廠の缶詰工場は、戦後の昭和21(1946)年から広島糧工(りょうこう)株式会社が借り受け、昭和52(1977)年まで缶詰を製造していました。その後、建物の3分の1程度を保存することになり、昭和60(1985)年広島市郷土資料館として開館しました。レンガの外壁の内側に鉄筋コンクリートの建物を建設してつくられたといわれています。

企画展は、広島市に設置されていた陸軍三廠、広島陸軍兵器支廠、広島陸軍被服支廠、宇品陸軍糧秣支廠の姿と戦後の状況を
市民の証言や写真で振り返るというものでした。ちなみに広島陸軍兵器支廠は、現在、広島大学医学部・付属病院のある場所に、また、広島陸軍被服支廠は、現在、県立皆実(みなみ)高等学校や県立広島工業高等学校がある場所に設置されていました。

これは郷土資料館になっている糧秣支廠の西側を撮影したものです。食肉処理場は、戦後の昭和24(1949)年に松尾糧食工業株式会社が入居し(昭和30=1955年カルビー製菓株式会社と改称)、かっぱえびせんやポテトチップスなどのヒット商品を生み出しました、平成18(2006)年に移転して行くと、翌平成19(2007)年、建物は解体されて姿を消しました。今では跡地がグランドとして整備されています。

旧国鉄宇品線の線路跡を歩き、その後、宇品線が走っていた頃のゆかりの地を宇品に訪ねた一日でした。広島市郷土資料館の展示は、宇品線が走っていた時代を考えるのにとても役立ちました。