トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

"自分手政治"で栄えた商業都市、米子を歩く

2013年10月04日 | 日記

子どもの顔のような窓をもつ土蔵です。かつて訪ねた因幡街道の宿場町、平福(2011年12月11日の日記)や山あいの陣屋町の村岡(2012年8月11日の日記)で見た土蔵の窓とよく似ている川沿いの土蔵は、ずっと私の印象に残っていました。鳥取県西部の商業都市、米子の光景です。江戸時代を通じて、米子港とそれに続く加茂川の舟運による物資の移動によって栄えた商業都市でした。また、かつて5層の天守閣と4層の小天守をもつ勇壮な米子城があった町としても知られています。

米子市の市街地を歩くと、ビルの間に米子城跡の石垣が見えてきます。米子城の本丸の跡です。江戸時代、鳥取藩の筆頭家老、荒尾氏の”自分手政治”のもとで、商業都市として栄えました。寛永9(1632)年、鳥取藩主だった池田光政が国替えで岡山に移り、代わりに岡山藩主だった池田光仲が32万2千石で鳥取に入ってきました。このとき、米子は筆頭家老の荒尾成利が、家臣に領地を分け与える地方知行(じかたちぎょう)制度により1万5千石を与えられ米子城に入りました。 それからの米子は、直接藩主の支配を受けることなく、外部との交流も比較的自由になされることになり商業がさかんになりました。これが”自分手政治”です。荒尾氏は明治維新まで11代にわたって支配を続けたため、商業都市として発展することになりました。

この日は、県の木である”大山キャラボク”が植えられたJR米子駅の駅前から、水運に使われた加茂川に沿って、米子港のあった中海へ向けて歩きました。米子市に残るかつての雰囲気を感じてきました。

これは、観光案内所でいただいた観光地図です。地図の上にある米子駅が南方にあたります。まずは、駅前から地図の左(東)に向かい、地図の左端近くを上(南)から下(北)に向かって流れる加茂川に沿って、地図の下(北)の中海まで歩きました。

地図の左(東)の上端にある並木橋から見た、加茂川の上流方面です。さらに10mぐらい進んで、地図の左端を下に走る道路を歩きます。加茂川は、鳥取、島根県境の鷲頭山(わしかしらやま)を源流とし、田園地帯を経て米子の市街地を経て、中海に入ります。全長10kmぐらいの小さな川ですが、米子の人々にはもっとも身近な川になっています。

糀町(こうじまち)です。赤い釉薬瓦で葺かれた豪邸がありました。江戸時代には、中海の米子港に寄港し碇を降ろした船から、積み荷が”上荷船”(うわにぶね)という、本船と波止場の間を行き来する喫水線の低い船によって港の倉庫に運ばれました。倉庫からは、加茂川を行き来する”浮舟”(うきふね)によって、各商店の土蔵まで運ばれていました。この糀町のあたりまで、浮舟はやってきていたということです。

表に回ると、このあたりの伝統的な民家の姿が見えました。この前の道路を交差点を渡って、地図の右(西)方面に向かって進みます。

加茂川を渡ります。

旧街道を思わせる町並みの右側に、ダラスクリエイト・ボックスと書かれた建物があります。コミュニティFM放送局が置かれているそうです。ここを右折して北に向かいます。この路地は、米子を代表する商店街である本通り商店街につながっています。

下を見ると、”ゆうちゃん”が鎮座しています。商売繁盛の神です。この通りには、これら法勝寺七福神が並んでいました。

左側にあった本町横丁名店街。この横丁をくぐります。

”法勝寺電車”と呼ばれる客車が展示されていました。かつて、米子と南部町法勝寺を結ぶ鉄道であった法勝寺鉄道で利用された、日本で現存する最古の客車です。明治20(1888)年イギリスのバーミンガムで製造された木造三等客車。外見はかなり改造されていますが、内部は横シートではなく、5区間のボックスシートだったようです。

説明に添付されていた写真です。昭和40(1965)年当時の写真です。後ろ(左側)がこの客車だそうです。ちなみに、前(右側)の電動車は、西伯小学校に展示されているそうです。

路地の一つ東にある西念寺山門前の路地です。狭い路地が郷愁を誘います。

本通り商店街の入り口で右折して東に向かい加茂川に出ます。商店街の手前の通りは、闇市(やみいち)通りです。

加茂川にたくさんの橋が架かっています。商家は加茂川に向かって建てられているため、舟運がなくなってからは、家に入るために、各家が橋を架けたためこのような光景が見られるようになったのではないでしょうか。

加茂川の岸には、お地蔵さんがいくつか祀ってありました。”咲い(わらい)地蔵”。仏教詩人、坂村真民の「念ずれば花開く」の想いが込められているそうです。私は、このお地蔵さんが一番気に入りました。

加茂川は蔵のあるお宅の先で、左にほぼ直角に曲がり西に向かって流れます。江戸時代、このあたりの加茂川は水深が深く渦を巻いていて、泳いでいた子どもがよくおぼれていたそうです。

左に曲がって進むと、すぐに、右折。本通り商店街から続く通りに入ります。加茂川はこのようにさらに西に流れています。

右側に大正期のものと思われるビルと和風のお宅がありました。この写真は振り返って撮影しました。格子に覆われうだつをもった商家風の建物です。

これは、その隣の今井郁文堂にあった看板です。表戸を通して撮影したので見づらい写真になってしまいました。謄写板の特約店の看板です。かつて、学校の先生方はガリを切って謄写版で印刷していましたね。懐かしいです。このお宅の先祖である今井兼文さんは、鳥取藩の医者をつとめていましたが、廃藩置県で禄を離れるにあたり、本屋を始めたそうです。

その向かいにあった雰囲気のあるお宅。文化庁の登録有形文化財に指定されている坂口邸です。これも振り返って撮影したものです。

その先の交差点の右側にあった”下町館かどや”。米子の古い写真が展示されていて、また、奥様が米子の歴史を話してくださったりして、大変参考になりました。この交差点を右折して東に向かいます。そばの大黒屋さんの次の通りを左折します。

南の福厳寺から北の万福寺まで、400mの間に9つの寺院が並んでいる全国的にもめずらしい光景だそうです。安国寺と妙興寺は、”自分手政治”以前、米子城主として城下町づくりを行い、その後、お家騒動で断絶した中村一忠にかかわる寺院として知られています。

安国寺です。 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、駿府の府中(静岡)から、当時11歳の一忠が17万5千石の城主として移って来ました。若年の一忠に、徳川家康が執政(家老)としてつけた横田内膳村は、毛利氏の家臣であった吉川広家が着手していた米子城の普請を完成させました。また、加茂川を整備し、商人や職人を呼び寄せて城下町づくりを進めました。一方、村詮の勢力が強まると、中村家の譜代の家臣、安井清一郎、天野宗杷が村詮の殺害を計画し、慶長8(1603)年一忠は自ら村詮を刺殺しました。しかし、横田家一族は、屋敷に立てこもり抵抗したため、出雲富田藩の援助を受けて鎮圧しました。 安国寺は、一忠入封の時にここに移ってきたそうです。

妙興寺です。永禄7(1564)年創建。中村一忠の家老・横田村詮の肖像画と境内に墓碑があるそうです。
さて、幕府は、先のお家騒動に対し、藩主の中村一忠は「お咎め」なし、側近の安井清一郎と天野宗杷は切腹という沙汰を下しました。それから6年後の慶長14(1609)年、中村一忠が20歳で病没したとき、すでに3人の子がいましたが嗣子とは認められず、中村家はお家断絶となりました。その後、美濃黒野藩から加藤貞泰が6万石で入りましたが、元和3(1617)年、大坂夏の陣の功績により伊予大洲藩に移り、米子藩は廃藩になりました。その後は、鳥取藩の支配を受けることになりました。 元和3(1617)年、姫路藩主、池田光政が、因幡、伯耆の2国を領して鳥取藩主になってからは、家臣の池田由之が米子城主(3万2千石)となりました。

万福寺のそばの交差点を左折します。京橋のそばにあった「境往来」と道標に書かれていた道に入ります。この道はその先で京橋を渡ることになります。京橋の手前を左に向かう道に左折して入ります。

その先に鹿嶋茶舗。米子城のしゃちほこ(高さ92cm)があります。安政3(1856)年、米子城の小天守の改築時、鹿島家は分家とともに7千両を拠出しましたが、その記念にもらったものといわれています。

鹿嶋茶舗の先で、道なりに右折します。曲がってすぐ右側にあったのが「一銭屋」さん。子供の小遣いの「一銭」を屋号にしている駄菓子屋さんです。看板は、昭和25(1950)年に米子市で開かれた博覧会のときにつくられたものだそうです。

愛想のいい奥様が、店番をしておられました。

天神橋を渡って、加茂川を渡ります。広い幹線道路を左折(南行)して加茂川の上流に向かいます。西に向かっていた加茂川が、右折して北に流れを変えます。かつての米子城の外堀に合流するところです。ここから、土蔵と桜の木がマッチした、米子らしい美しい水辺の風景が始まります。

加茂川の右岸に並ぶ土蔵です。江戸時代の末期から、明治にかけてのたたずまいを今も色濃く残しているところです。子どもの顔のような、かわいい姿です。

蔵の前の光景です。かつて「浮舟」が行き来したところです。積み荷を下ろし蔵に運んだ石段が残っています。ここは、往時の荷揚場の名残です。このあたりで洗い物をしたということで「洗い場」と呼ばれています。

加茂川の左岸にあったカッパの像です。父、加茂坊、母、米子 長男、日野ポン、長女、久米子、次男、伯耆坊の一家です。加茂川に何百年もここに住んでいましたが、水が汚れたため、きれいな水の流れる日野川の上流に疎開していました。加茂川の水がきれいになったので一家で帰ってきたそうです。

午前10時と午後2時に出発する加茂川・中海遊覧船の乗り場です。

ここから、再度下流中海の方に向かって歩きます。天神橋を過ぎ京橋に向かいます。擬宝珠の欄干をもつ京橋のたもとにきました。

境往来から京橋をわたった交差点の右に後藤家があります。後藤家は、江戸時代に海運業を営み藩の米や鉄の回漕のの特権を与えられた廻船問屋でした。住宅は17世紀の建築で、主屋の屋根は、この地方唯一の本瓦葺きになっています。昭和54(1979)年からの修理で旧状に復元されたそうです。

京橋からさらに北に下ります。加茂川の右岸に趣のある蔵のある商家が残っています。”下町館かどや”には、この商家のかつての姿を移した写真が展示してありました。

その先にある橋が灘町橋。加茂川にかかる最後の橋です。この先で加茂川は中海に合流してします。中海は米子では「錦海」とも呼ばれています。「錦の布を敷いたような海だ」というのだそうです。

再度、京橋まで戻ります。この写真は境往来から後藤家方面を写したものです。後藤家を右に見ながら西に向かいます。かつての雰囲気を残す通りが続いています。

15分ぐらいで、鳥取大学の医学部の手前の交差点につきます。そのかどにあったのが「潮止めの松」。

かつての米子城が建てられていた湊山(海抜92m)の麓にある湊山公園です。まっすぐ進みます。中海の土手にあった夕日のオブジェ。童謡・唱歌の風景にふさわしい場所を選定し、こうしてオブジェをつくっているそうです。ここは、「夕日」でした。

ここから児童センターまで戻り、山の方に向かいます。10分ぐらいで内膳丸への登山口につきます。市街地を歩きながら、山頂の石垣を見ていた私は登山するつもりで来たのですが、「山頂付近でまむしの目撃情報が出ています」という張り紙にビビッてしまいました。本丸入り口から登ることにしました。

登山を断念して、鳥取大学医学部と野球場に沿って南に歩きます。このあたりは米子城の三の丸の跡です。米子城跡に向かいました。20分ぐらいで、本丸入り口の石垣が見えるところに着きました。

枡形が残っていました。枡形を左に折れ石段を登ります。

右に進むと正面に小原家の長屋門が移築されています。米子でただ一つの武家屋敷の遺構です。長屋門を入ると野球場の外野席になります。門の手前を左に登っていくと本丸です。登ろう!と思ったのですが。「蜂に注意!」の張り紙がありました。30代の頃スズメバチに刺された経験があるので、2度目が怖くて断念しました。がっかりです!

城跡から国道9号線に合流して進むと新加茂川橋にかかる深浦橋を渡ります。

これは、深浦橋から新加茂川の上流方向を撮影したものです。この橋の左岸(むかって右側)を進みます。

深浦神社を越えて10分ぐらいあるくと感應寺につきます。ここは、米子藩主、中村一忠の菩提寺です。境内に一忠と殉死した2人の家臣、安井清太郎、天野宗杷の二人の木造が安置されています。境内に墓所もあるそうです。境内の墓地を進むと一番高いところにさらに昇っていく階段がつくられていました。苔むしている石段を見て、まむしを恐れて断念しました。情けない!

さらに新加茂川沿いに進むと、新加茂川大橋に着きます。ここで右折して山の方に向かいます。かつての出雲街道をそこから20分ほど歩くと、総泉寺の門にぶつかります。ここは、慶長12(1607)年、米子城主の中村一忠が母親の供養のために創建した寺院です。池田家との関係の深い寺院です。檀家には米子城下の武士も多くいた米子第一の曹洞宗の寺院です。現在の建物は、天保13(1842)年の改修によるものです。広々とした墓地が山裾に広がる広大な寺院でした

総泉寺は、寛文2(1662)年には、伯耆国6郡の曹洞宗寺院をまとめる「僧録所」に定められました。この寺が改修されたとき、このような業績を認められて、この池田家の家紋(丸に揚羽蝶)のついた瓦を使うことを許されたといわれています。

米子は、城下町、港町で栄えた商業都市です。現在でも鳥取県第一の商業都市と呼ばれています。鳥取藩の支配を受けながらも、半独立国のような支配のもと、比較的自由に商業活動を行うことができた”自分手政治”が行われていたからでしょう。疎開していたカッパの一家も戻ってきたという水のきれいになった加茂川と、川沿いの土蔵の美しさが印象に残った旅でした。城にはまったく登れないさえない旅になってしまいましたが、米子の街を丁寧に見て歩いた、なかなか楽しい旅でした。