トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

寺内町の面影を訪ねて、富田林を歩く

2013年10月15日 | 日記
PLの花火大会で知られている大阪府富田林市。ここは、寺内町の面影を今に残す町としても知られています。寺内町は、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院や道場(御坊)を中心に形成された集落です。壕や土塁によって囲まれた集落では、信者や商工業者が集まり自治を行っていました。富田林は、興正寺別院を中心にした寺内町でした。

秋の一日、近鉄富田林駅から、寺内町の面影を色濃く残す町並みを歩きました。寺内町としては、奈良県の今井町に次いでの訪問でした。

駅前に、「楠氏遺蹟里程標」が立っており、そこまでの里程が記されています。「千早城跡へ3里32町」「赤阪城跡へ1里25町」とありました。 そうです。南河内のこのあたりは楠木正成・正行のゆかりの地として知られています。しかし、今回の寺内町とは関係がないのでスルーして先に進みます。

これは、本町公園に掲示してあった案内図です。点線の中が寺内町で、東西約400m、南北約350m。竹を植えた外周に囲まれた町は、6筋7町の町割りで、現在もそのまま残っています。南北の通りは西から、西筋、市場筋、富筋、城之門筋、亀ヶ坂筋、東筋の6筋あり、町は北から一里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町、西林町と東林町の7町(町はすべて「ちょう」と読みます)からなっていました。駅前の観光案内所で案内チラシをいただき、本町通り(寺内町に入っての町割りでは「市場筋」)から寺内町へ向かいました。ちなみに、この案内図は、北が右になっています。右端の近鉄富田林駅から左にまっすぐ延びる道を進みます。

富田林は多くに町屋が今も残り寺内町の景観をよく残しているということで、平成9(1997)年、国の伝統的建造物群保存地区に指定されています。 本町通りの道幅4mほどの通りを進みます。寺内町の手前にも、かつての面影を残す商家が残っていました。

左側にあったモーターサイクルのお店を過ぎると寺内町入り口に着きます。正面の白い家のところで、道は少し右にずれています。これは、「あてまげ」といわれています。 見通しを妨げて外部からの侵入者を撹乱したということです。城下町にある枡形の小型のようなものですね。

正面の白い建物の角で右に曲がります。正面にPL教団の塔が見えました。

その先の右側に、登録有形文化財になっている田中邸がありました。このあたりの農家の平面構成を持つ町屋です。入母屋造り(東は隣家との関係で切妻になっています)の桟瓦(さんがわら、本瓦と平瓦を合わせた瓦)葺きです。屋根には「むくり」があります。屋根が下に向かって丸くなっている造りです。屋根は遠くから見ると真ん中がへこんで見えるので、丸みをつけて真っすぐ見えるようにしたのだそうです。河内、和泉地方にはこのむくりがよく見られるそうです。このお宅は、明治25(1892)年に建てられましたが、江戸時代以前の様式である厨子(つし)2階建てになっています。江戸時代には、武士を上から見下ろすのを許さないということで、旅籠以外は2階建てを許可されなかったからです。また、屋根の右端に本瓦が3列ほど葺かれていますが、強風に瓦が吹き飛ばされるのを防ぐ工夫だったようです。

これが以前の田中邸の姿です。今はない家門がついていました。幕末から明治時代にかけて素封家として知られた名家(明治44年の「大阪府河内和泉資産家一覧」にも掲載されている)の邸宅でした。

元の本町通り(市場筋)に戻ります。そこから、まっすぐ東に進みます。市場筋の一つ東の富筋を渡ると「じないまち交流館」があります。「寺内町の歴史や文化などの情報提供や来訪者の休憩の場所」(パンフ)になっています。富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄年間(1558~1569)に、西本願寺派興正寺(正式には「興正法寺」)第14世証秀が、現在、市の北東から南西に流れている石川の西側にある富田の荒芝地を、この地の守護代から百貫文で購入し、周辺の4ヶ村各2名の庄屋(8人衆)に興正寺別院の建設と畑、屋敷、町割りの建設を依頼して、町づくりを始めました。そして、できあがった町を、富田林と改名して富田林寺内町が成立しました。

じないまち交流館の内部です。女性スタッフも依頼すれば説明もしてくださるようで、観光案内も充実していました。 富田林寺内町では、8人衆が年寄役として自治を行っていました。しかし、領主は守護代から三好氏、さらに織田信長と変わっていきます。 富田林寺内町では、石山合戦(石山本願寺との戦い)のとき、信長側にも本願寺側にもつかず中立を保ったため、信長から「寺内の儀、不可有別条」(別状あるべからず)の書状を得て、平穏に過ごすことができました。 豊臣秀吉の時代には、片桐且元(秀吉の家臣で茨木城主)の検地の後に、自治を認める権利を認可されていました。
 
じないまち交流館の向かいにあった手打ちそばの店。甘い物も食べられる魅力的なお店でした。 徳川の世に変わると、秀吉時代の自治権の認可を表面に出すことなく「公儀御料」(天領)とされましたが、寺内町には田がほとんどなく税負担も少なかったといわれています。

もとの市場筋まで戻り、左折して南に向かいます。石畳で舗装された道を4ブロック進みます。左側に少し道がずれる「あてまげ」にさしかかります。

そこで、右折(西行)して進みます。じないまち交流館で教えていただいた、石垣を見にいくことにしました。道はしだいに下りになります。右側の塀の下に石垣が見えてきました。富田林の寺内町は、周囲を竹藪のある土居で囲まれていました。ここは、寺内町の周囲にあたり、周囲に築いていた石垣が現在も残っているところです。

あてまげを過ぎて長い土塀に沿って進むと、寺内町の入り口から5ブロック目になります。

寺内町には案内の立派な石標が立っていました。案内にしたがって、ここで左折し東に向かいます。寺内町の邸宅で唯一、観光客に公開されている旧杉山家住宅があります。この建物は、延享4(1747)年頃に今の形に整ったようです。この杉山家は、寺内町のなかで最も古い遺構であり、昭和58(1983)年、国の重要文化財に指定されています。

杉山家は、寺内町の創立以来続く旧家です。代々杉山長左衛門を名乗り、江戸時代を通して富田林8人衆の一人として町の運営に携わってきました。貞享2(1685)年に酒造株を得て酒造業を生業としていました。

明治、大正、昭和を通じて歌人として活躍した石上露子(いそのかみつゆこ)は、本名杉山孝(たか)。明治15(1882)年、ここ杉山家の長女として生まれました。

これは、途中の本町公園にあった石上露子の歌碑です。
「みいくさに こよひ誰が死ぬ さびしみと 髪吹く風の ゆくえ見まもる」という彼女が詠んだ歌が刻まれていました。

杉山家の内部に入ってすぐの格子の間です。「親子格子(京格子)」です。寺内町の商家は居室部を田の字に並べる整形四間取りが基本になっています。農家型の平面構成です。

大床の間です。宝永年間(1704~1711)に増築された2間の大床の間。能舞台を模してつくられたそうです。

もとの市場筋に戻り、左折して南に進みます。寺内町の南の端近くで東西に延びる道と交差します。

土蔵の前から、右(西)の方向を見た写真です。左に下っていく道は、京と高野山を結ぶ旧東高野街道の入り口です。この坂は向田坂(こうださか)。 寺内町には町外から入る入り口が4つありましたが、その南からの入り口でした。ちなみに、他の3つの入り口は、一理山口、山中田坂、西口でした。

この道の東の方向です。街道を通って、南河内随一の商業都市である寺内町へやってきた人は、この道から町内に入ります。突き当たりに道標がありました。

道標に「くわへきせる ひなわ火 無用」と書かれています。「くわえきせる」はくわえたばこと同じ意味、「ひなわ火」は竹や檜の皮の繊維を縄状にして硝石をを吸収させた火種で、きせるもひなわ火も旅人の携行品でした。 わら葺きの家が密集して、水の不便な高台にあった寺内町では、こうして火事を防いでいたのですね。道標は、宝暦元(1751)年の建立だそうです。

道標から、富筋を北に進みます。すぐ両側に商家の建物が現れます。左(西)側が上野家、右(東)側が仲村家です。上野家は、厨子2階建て。その部分が黒漆喰で塗り込められていました。建物の正確な年代は明らかではありませんが、幕末ごろに整備されたものといわれています。

右の仲村家です。寺内町8人衆をつとめていました。正徳5(1715)年酒造株を取得してからは酒造業を営んでいたそうです。佐渡屋の屋号で、主人は代々徳兵衛を名乗っていました。寛政4(1792)年、江戸市場を対象にした酒造業者の理事長にあたる「河内一国江戸積み大行事」をつとめていました。幕末に長州藩士吉田松陰が滞在するなど、文人墨客が訪れる名家でした。建物は天明2~3(1782~1783)年に建てられています。この写真からは見えませんが、現在、母屋の屋根をトタンでおおっていて、老朽化による雨漏りかなと、少し心配になりました。

仲村家の角の東西の道を左折(西行)すると杉山家に至ります。東西の通りを右折して東林町に向かいます。富筋の一つ東の城之門筋に、豪壮な商家が見えました。左(北)側が橋本家、右(南)側が木口家の建物です。北の橋本家は、「別井屋」を名乗り酒造業を営んでいました。「18世紀後半に建てられたが、保存状態はいい」と、説明には書かれていました。城之門筋にはかつての商家が数多く残り、寺内町富田林を代表する通りといわれています。

木口家です。「木綿庄」の屋号で河内木綿を扱っていましたが、4代前に瀬戸物商に転じたそうです。18世紀中期の建築で、現在も、江戸末期の土蔵2棟が残っているそうです。

橋本家の角を左折し、城之門筋を北に進みます。電柱を埋めるなど整備が進められています。思わず息を飲む町並みと商家の美しさに見入ってしまいました。この先、どんな商家に出会えるか、ここからは商家を探して歩くことにしました。 左(西)側に興正寺別院の鐘楼とその先の鼓楼が見えました。観光パンフなどに必ず掲載されている、寺内町富田林を代表する景観です。

興正寺別院の表門です。表門はここ東ともう一つ西につくられています。門には「富田林御坊」の看板も掛かっています。御坊は浄土真宗の道場を表しています。この先の白く塗り込められているのが鼓楼です。創立期の遺構はすべて失われていますが、ほぼ最初の寺地を保ち、浄土真宗の道場形式の本堂としては大阪府下最古の遺構といわれています。ちなみに、本堂は寛永15(1638)年に、書院と庫裡は文化7(1810)年に、それぞれ再建されました。また、鐘楼と鼓楼も文化7(1810)年に、現在地に移し替えられたようです。

興正寺別院の城之門筋を隔てた向かい側に、妙慶寺があります。慶長3(1603)年、柳渓上人によって開かれた浄土真宗本願寺派の寺院です。表門は北側に設けられています。本堂は、享保5(1720)年の建築です。

興正寺別院の前に、「日本の道 100選」の碑があります。旧建設省によって、城之門筋が100選に選定されました。

城之門筋をさらに北へ進みます。また、雰囲気のある商家が見えました。右(東)側が田守家で、左(西)側が杉田家でした。

田守家は、屋号は「黒山屋」。寛永年間(1620~1643)に黒山村(現美原町)から移住したためこの屋号がつけられたそうです。明治中期まで、木綿屋を営んだといわれています。主屋は18世紀前半の建築で、寺内町では旧杉山家に次ぐ古い年代のもののようです。表はかなり改造されていましたが、現在では、以前の姿に復元されているそうです。

杉田家です。「樽屋善兵衛」の屋号で油屋を営んでいました。天保14(1843)年の「村方様子明細帳」に百姓代として、その名が掲載されているそうです。主屋は18世紀後期に建築されたそうです。敷地内には、油を貯蔵する土蔵が並んでいるそうです。主屋の入り口には「杉田医院」の看板が掲げられていました。

ここからは、杉田家の南の道を西に向かって歩きます。一つ西の南北の通り富筋の角に、壁に「寺内香」と書かれたお宅で右折して北に進みます。舗装した石畳の道を北に1ブロック歩きます。

右側に豪壮な屋敷を見ながら歩くようになります。南葛原家です。安政元(1854)年三治郎が、葛原家から分家したときに建設された商家です。

南会所町に入ります。右折(東行)します。右(南)側にある南葛原家、左(北)側にある本家の葛原家の間の道に入ります。

南葛原家の正門は北の本家に向き合っています。

南葛原家の3階蔵です。これも地内町の観光の目玉になっています。主屋をしのぐ高さです。

こちらは、南葛原家の向かいにある本家の葛原家。虫籠窓のまわりが黒漆喰で塗り込められています。厨子2階建ての江戸時代以前の様式です。もと、十津川の郷士。屋号は「たばこ屋」。天明元(1781)年頃、酒造業を始めたといわれています。主屋は19世紀の初め頃の再建だそうです。

東に歩いて、城之門筋の手前です。右手は南葛原家の別邸の建物です。

城之門筋への出口にあった南会所町と刻まれた敷石がありました。ここで左折(北行)します。1ブロック進み、左側に南奥谷家が見えるところで右折(東行)します。

次の亀ヶ坂筋に佐藤家があります。富筋にあった仲村家の分家です。文政3(1820)年、仲村家から出た初代藤兵衛が、仲村家の屋号である「佐渡屋」から「佐渡藤」と名乗りました。次の2代目から「佐藤」と称したそうです。紅梅酒味醂を商い、敷地内に多くの土蔵が残っているそうです。

さらに東に向かいます。赤いレンガの壁の向こうに長い塀が続いています。ここは越井家の屋敷です。1ブロックの大部分を占める大邸宅です。平尾屋庄兵衛を名乗った材木商。先祖が平尾村(現美原町)から移住しました。安政年間(1854~1860)に庄屋をつとめたといわれています。主屋は明治末期の建物です。

越井家があったのは、地内町の東北のあたりでした。そこから、西に少し引き返し、再度城之門筋に戻ります。城之門筋を右折して一ブロック歩くと富山町に着きます。左側に残るのが奥谷家。その西に、最初に訪ねた「じないまち交流館」がありました。 奥谷家は、屋号は「岩瀬屋」。河内長野の岩瀬から、18世紀頃に移住してきて、材木商を営んでいました。天保14(1843)年の「村方様子明細帳」に3代目伊右衛門の名があり、当時村役をつとめていたことがわかります。奥谷家は江戸時代末の豪壮な構えをとどめており、3代目夫婦の肖像画が残っているそうです。

奥谷家と城之門筋をはさんで東側にある東奥谷家です。奥谷家の分家で、本家の2代目岩瀬屋伊右衛門の子、伊六岩長を初代としています。現在の建物は、文政9(1826)年の建築で、敷地の北側に長大な土蔵があるそうです。

東奥谷家の南の東西の通りを東に向かい、亀ヶ坂筋を左折して、左に遊園地を見ながら北に進みます。江戸時代には、このあたりに高札場がありました。町の入り口付近に置かれた高札場でしたが、その先に一理山口がありました。寺内町に4カ所あった、外の世界を結ぶ出入り口、北の出入り口でした。

秋の一日、富田林の寺内町を歩きました。現在、寺内町には約500棟の建物があります、そのうち180棟が江戸、明治、大正、昭和初期の建築だそうです。旧杉山家以外は商家の内部を見学することはできませんでしたが、歴史ある豪壮な商家の姿は実にすばらしく、6時間近くも商家を訪ねて歩いてしまいました。 そのため、見学しようと思っていたのに見ることができなかったところもありました。旧中山道・木曽路の奈良井と妻籠、旧東海道の関と並ぶ、美しい町並みでした。 きっとまた訪ねてこよう、そう思いながら帰途につきました。