トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

大岡越前守の陣屋町と二十七曲がり

2012年10月30日 | 日記
旧東海道岡崎宿を歩こうと思ったのは、「二十七曲がり」に興味を惹かれたからでした。秋の一日、旧岡崎宿の東にある大平町から宿場の西の矢作橋まで、旧岡崎宿を歩いてきました。スタートは、国道1号線の「大平東」の交差点でした。

江戸寄りの藤川宿方面から、「大平町東」の交差点で国道1号線を渡ります。

すぐ右側に薬師寺がありますが、その石垣の下に「東海道」の石碑がありました。

旧東海道をさらに西に向かって進みます。右側の岡崎大平郵便局の前に「ようこそ東海道、西大平藩陣屋跡」の案内板がありました。

郵便局の先を右折すると、すぐ土塀と門が目に入って来ました。
西大平藩、あの、大岡越前守忠相の陣屋跡でした。

大岡忠相は、江戸南町奉行として有名です。その後、寛延元(1748)年、72歳のとき奏者番兼寺社奉行に就任して、三河国宝飯(ほい)郡、渥美郡、額田郡内に4080石を加増され、1万石の譜代大名に列します。しかし、大岡忠相は、大名になって3年後の宝暦元(1751)年に亡くなり、相模国堤村(茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。後を2代目忠宣が次ぎ、廃藩置県まで7代にわたってこの地を治めました。

大岡忠相は、参勤交代のない定府大名であったため、この地に来たことはありませんでした。この陣屋は領国の管理のためにつくられたもので、説明によれば、ここにいた家臣は「郡代1人、郡奉行1人、代官2人、手代3人に郷足軽4、5人ぐらいだった」ということです。うかがったときは、ちょうど登校時間帯で、ご近所の方が児童の「見守り」をされていました。門と土塀の中には大岡稲荷神社がありましたが、陣屋の建物はなく、全体的には公園風に整備されていました。

郵便局そばの旧街道に戻り、さらに西に向かいます。
左側の土盛りの中に榎の木が見えました。大平一里塚です。ここは、江戸からちょうど80里のところだそうです。本多成重(田中吉政の次の藩主である本多康重の子)が建てたものです。塚の榎は大木でしたが、昭和20(1945)年の台風で倒壊し植え替えられたそうです。現在、一里塚の高さは2.4m、底部は縦7.3m 横8.5m。 菱形をしているようです。

一里塚の右側の松が植えられていた塚は、昭和3(1928)年の道路改修により破壊され、現在、道路になっていました。道路の脇には、昭和9(1934)年4月建立の秋葉常夜灯がありました。秋葉常夜灯は江戸末期から明治にかけてつくられたものが多いのですが、ここは昭和になってつくられた新しい常夜灯でした。

一里塚をさらに西に進むと、再び国道1号線と合流します。この先、歩行者は道路の右側の細い道を迂回して進むようになっていました。時間をかけて歩いて、分岐点の20mぐらい先の国道1号線に戻りました。1号線の右側にある松林の中を進んでいきます。

道路の右側に「東海道」の石碑がありました。
さらに、道なりに進みましたが、この道が旧東海道であるという自信が持てませんでした。幾度も、引き返そうか、道を変えようかと思いました。

この道をとにかく歩き続ける、間違ったら引き返せばいいと、腹をくくることにしました。すると、右側に、民家の脇に隠れるように建っている秋葉常夜灯を見つけました。
ほっ! よかった!  この道は旧街道に間違いない!

ほっとしていると、すぐ左側に「二十七曲がり」の碑がありました。やっと着きました。これを探してずっと歩いて来たのです。
ここは欠町(かけまち)。ここで岡崎宿に入ります。

天正18(1590)年、岡崎城に在城していた豊臣秀次(秀吉の甥)が尾張に移封された後、三河国5万4千石を与えられた田中吉政が岡崎城に入りました。

光線の具合で見えにくいのですが、碑に書かれていたのが「二十七曲がり」の道筋です。
田中吉政は、将兵を容易に入らせないために、鍵型に曲がった道をつくり、東海道を岡崎城下に引き入れることにしたのでした。これが「二十七曲がり」です。

先に進みます。前の通りに斜めに突き当たったら右に進みます。

田中吉政は豊臣秀吉の家臣でしたが、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として活躍し、戦いの後、筑後一国を与えられ柳川に封じられました。

しばらく進むと正面に、わらじのついた木製の道標が立っていました。このあたりは、投町(なぐりまち)。19世紀初頭には、家数117軒で、綿打商や穀商、酒屋、茶屋などが並んでいました。特に茶屋は多く、豆腐にあんをかけて食べる「あわ雪」が有名でした。
「これより、次の両町角まで 650m い」。二十七曲がりの案内碑でした。

その奥に、「欠町より投町角 岡崎城東入口」と書かれた石碑がありました。南から西に曲がります。ここから、二十七曲がりが始まります。この道標と石碑は、この先二十七曲がりを歩くときの目印になりました。ただ、後になると、道標の方はなくなり石碑だけになったりしましたが・・・。道標のあるあたりは、現在、若宮町と呼ばれ市民病院の跡地だといわれています。

「い」の道標から次の両町角の道標まで西に向かって進みます。すぐ右側に「岡崎げんき館」がありました。保健所のような建物でしたが、中からは幼児の声も聞こえてきましたので、子育て支援のための施設もあるようです。

途中で、家康の子の松平信康が、天正元(1573)年の初陣のとき祈願して戦功をあげたという根石観音堂を見ながら、さらに西に進みます。

「これより両町角まで 310m ろ」の木の道標です。さらに西に進みます。

「これより次の伝馬町角まで 80m は」の道標と「両町より伝馬町角」石碑がありました。ここで右折(北行)します。

曲がるとすぐ右側に両町公民館がありました。その脇のお堂の中に「秋葉山永代常夜灯」が安置されています。寛政2(1790)年建立の常夜灯。昭和20(1945)年の7月の空襲で災禍にあいましたが、昭和47(1974)まで原型をとどめていたそうです。

すぐに、ガソリンスタンドにぶつかります。ここは、伝馬町。旧街道はこの三又路を左折(西行)します。名前の通り岡崎宿の伝馬役を担った岡崎宿の中心地でした。

早朝から歩き始めてやっとここまで来ましたが、時刻はもう昼前になっていました。

旧東海道二十七曲がりを歩こうとやってきた旧岡崎宿でした。
江戸幕府の8代将軍徳川吉宗に重用された江戸南町奉行、大岡越前守忠相が、後に大名になったことは私も知っていましたが、旧岡崎宿の隣に陣屋を構えていたことを、ここで初めて知りました。楽しい時間を過ごしました。